ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「花と蛇」 団鬼六

2008-09-12 12:14:55 | 
子供の頃から、有害図書追放運動というやつが胡散臭く思えて仕方なかった。

多くの場合、性を取り扱った書物を有害だと決め付けていたようだ。過剰に性欲を刺激するような書物は、青少年の育成に有害だとの理屈なようだった。

てやんでぇ、べらんべい、余計なお世話だと思っていた。

子供の頃、近所の原っぱの片隅には、何故か必ずエロ本が捨ててあった。なかには、女の人を紐で縛って、蝋燭垂らしている写真が載っているSM雑誌もあった。驚愕の発見であった。

もっともまだ小学生で思春期にも入らず、性の知識も無いガキどものことだから、よく意味は分っていなかった。ただ、こりゃスゲエ、大人って凄いスケベだと興奮していただけだ。今にして思うと、すごい怪獣を発見したかのような興奮だった。ただ、それだけだった。

この手の性倒錯者向けのエロ本は、間違いなく有害図書に該当すると思う。思うけど、追放しても子供には関係ない。恥ずかしいのは性の意識を持つ大人だけで、子供たちには影響はないと思う。事実、私は健全に普通の性的嗜好しか持っていない。

異論のある方も多いと思うが、実のところ倒錯した異常な性的嗜好は、全ての人間に大なり小なり存在するはずだ。そのことは、歴史を鑑みれば必然の結論だと思う。

「パンとサーカス」で知られる古代ローマのコロッセアムで、最も人気のあった見世物の一つは、肉食獣と人間、とりわけ女性との戦いだった。はっきりいって虐殺に他ならないが、ローマの一般市民はこの残虐な見世物に興奮していたのは確かだ。

中世ヨーロッパでは、罪を犯した人間を半裸にして檻に入れ、さらし者にして餓死させる刑があった。罪無き善良な普通の市民たちが、それを賑やかに見学に行ったのは事実だ。日本だって、江戸時代に罪びとをさらし者にして、市井の民の目を楽しませたことは珍しくない。

南米のインディオのなかには、不倫をした罪人を全裸にして、軍隊蟻の通り道に放置して罰する刑が行われていた。性器などの柔らかい部位に凶暴な蟻が食いつき、犠牲者がのた打ち回るのをインディオたちが笑いながら見ていたとの記録が宣教師により残されている。おそらく、世界各地で似たようなことはあったはずだ。

サディズムを満足させるかのような刑罰は、社会正義の立場による報復を越えて、人間の暗い性的嗜好を満足させる娯楽としての側面をもっている。多分、すべての人間には、そのような異常な性的嗜好に共感する部分を、大なり小なり秘めているのだろう。

ただし、大半の人は日常的には、そのような異常な性的嗜好には反発や嫌悪を示す。それが普通だと思う。でも、まったく無関心ではいられないはずだ。怖いものみたさというか、ちょっとだけなら観てみたい気持ちは、誰にでもあると思う。実践はしないと思うが、その程度の関心は普通にあるはずだ。

たぶん、手にとって表題の本を読んだ人は少ないと思う。でも、著者の名前を知らない人は珍しいのでは?私も全編を読み通してはいない。部分、部分を読んだだけで、全て読む気にはなれなかった。心が過剰に疲弊してしまい、読む気力が続かないからだ。ちょっと興味はあるが、その興味が継続しない。

団鬼六氏は、社会の裏側にひっそりと隠れて咲いていてたサディズムやマゾヒズムを、堂々表に出してしまった人だ。有害図書だと唾棄されつつも、潜在的な読者の支持の下、作家として成功した。私の趣味ではないので、積極的に薦めはしないが、それでも先駆者としての敬意は払いたい。

堂々と明るく健全なだけが人間じゃないと思う。
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大相撲と大麻

2008-09-11 17:07:52 | スポーツ
予め申し上げますが、私は大麻解禁論者ではありません。

ただ、ちょっと言いたくなった。相撲協会の大麻騒ぎについてだ。日本国内での大麻保有で逮捕されたロシア出身の力士の処分は当然でしょう。

でも、保有が確認されず、血液検査での大麻服用歴が明らかになった力士への処分はおかしいと思う。なんなら、プロ野球でもいいし、歌手や俳優にでも血液検査をやってみろ。ゴロゴロ出るはずだぞ、大麻服用歴がね。

国にもよるが、海外では大麻を解禁している国もあるし、たとえ違法な国でもその現地国での大麻服用を理由に、日本の法は及ばないのは当然のこと。

だいたい、大相撲はスポーツではない。武道的要素はあるが、厳密には武道でもない。あれは伝統ある興行だ。ぶっちゃけ、金儲けだ。国技だなんて、ちゃんちゃら笑っちゃう。なんなら、和式プロレスと言い換えてもいい。

私は相撲を観るのは好きです。でも、相撲取りとは、プライベートでは付き合いたいとは思わない。あの手のデカくて、喧嘩の強い連中には、いけ好かない奴が多いことを知っているからです。なにせ、欲望(女でも金でも)を力のおもむくままに、満たすことを当然と考える連中が少なくない。

もちろん、良識ある好人物もいます。例えば、二枚目で女性に人気がありながら、幼馴染みの女性一筋。その方と幸せな家庭を築いた元関脇・寺尾なんかは、珍しいほどの頑固一徹の堅物として有名でした。あたしゃ、銀座のお綺麗なお姉さま数人から、愚痴られたことがあります。

でも、多くの力士が大の女好きで、玄人筋の女性からも厭われるほどの性豪なことも知っています。ましてや、酒が入るともう大変。品位とか良識なんて言葉が裸足で逃げ出す凄まじさ。

もっとも、私の知っている話は、今の現役力士ではなく、現在は親方などのお偉方になった方々の若いときの話。その連中が偉そうに相撲の品位などを語っているのだから、ヘソが茶を沸かす。

国技だか品位だか知らないが、実態にそぐわぬ美化をしている滑稽さを認識して欲しいものです。
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「知的生産の技術」 梅棹忠夫

2008-09-10 12:15:12 | 
たま~に、本当にたまにだが読んだことのある本を再度買ってしまうことがある。

帰宅して、しばらく本の山に積んで置き、いざ読み出したら記憶が甦る始末。「あ!これ、読んだことがある」・・・

一番ヒドイのは、フィリップ・マーゴリンの「黒い薔薇」で、自宅に3冊もある・・・バカですね、私。いや、古本屋の店頭に並んでいて、面白そうだったもので、ついつい買ってしまった。仏の顔も三度までだそうだが、4度目をやらかしそうで浮「。

不治の病である活字中毒になって以来、ときたまやらかしてしまう。古本が大半なので、経済的損失は小さいが、精神的ダメージが辛い。

そこで読書ノートでも書こうと思ったが、当時は日記ですら三日坊主。まるで自信がなかった。そんな時に見つけたのが表題の本。そこで梅棹先生が勧めるのが読書カードだった。

なかなか興味深い方法だと思い、さっそくやってみた。一応、二ヶ月ぐらいは続いた。いや、二ヶ月しか続かなかった。実際使ってみて、読書カードは良いと思ったのは事実だが、一度紛失すると、とてもじゃないが作り直す気になれない。結局見つけたが、再度書き出す気になれなかった。

以来、読んだ本を記録することは諦めている。多分、今だったらエクセルでうまく表でも作れば、簡便な読書ノートになると思うが、なんとなく面倒に思ってやる気にさえならない。記録をとるために本を読むわけでもないし、私の記憶に残れば、それで満足だと割り切っている。

もともと気に入った本は、何度でも読み返す習慣があるので、同じ本を二冊以上買ってしまうのも仕方ないと思う。無駄ではあるが、人生なんてそんなもんだ。回り道と行き止まりがあるのが人生。それを無駄と思わずに、受け入れてしまうほうが楽だ。効率と合理性だけの人生なんて、きっとツマラナイと思う。

たとえ無駄であったとしても、回り道を楽しめる人生を生きたいものだ。(負けず嫌い・・・かな?)
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消費者金融の再編

2008-09-09 12:12:11 | 経済・金融・税制
かつて「サラ金」と呼ばれた消費者金融業界が、銀行主導の下再編に揺れている。

平成18年に改正された貸金法により上限金利が下げられ、相次ぐ訴訟によりグレー金利の返還の増大が、消費者金融会社の財務内容を大幅に悪化させたことが、その背景にある。

既に民事再生法の適用を受けた会社もあるし、目端の利く連中は既に転職している。このような斜陽業界にもかかわらず、大手銀行は、消費者金融への投資を推し進める。

新聞記事などでは、個人向け融資にまだまだ可能性を見出す銀行が、積極的に再編を目指すなどと書いている。嘘ではないと思う。しかしながら、やはり底の浅い記事だとも思う。

本来、金貸し業は儲かる。だからこそ、サラ金は雨後の窒フ子のごとく増え、暴利を貪った。しかし、その取立ては苛酷に過ぎ、社会問題と化した。イメージ悪化を嫌ったサラ金業界は、多額の広告費を支払ってマスコミを合法的に買収して、新たに「消費者金融」との看板を得た。

儲かる業界だけに、放漫経営が多くみられた。そのため、上限金利の引き下げなどの経営環境の悪化に対応できなかったのが実情だ。利益率の高かった業界ほど、リストラを苦手とする典型例だと思う。

一方、以前から利益率の高い個人向け融資に手を出したかった銀行だが、はっきり言って失敗続き。元々不動産担保融資に慣れ過ぎ、決算書のある法人融資とは勝手が違う個人向け融資は苦手だった。

個人向け融資は、人を見る目が重要なのだが、勉強は出来ても人生経験の底が浅いエリートさんはこれが苦手。だから、どうしても及び腰の融資審査になり、担保(土地や定期預金)がないと貸すことが出来なかった。

そして、最も大きな問題は融資の回収だった。皆が皆、期日通りに返済してくれる訳ではない。電話で督促したって、のらりくらりとかわされる。法的手段で強制しても、無いものは無いで終わってしまう。

かつて信販業界に居た私は、債権回収部門の連中が銀行をせせら笑っていたことを知っている。はっきり言って銀行は、回収のやり方が下手だった。品のいい勉強エリートである銀行員達にとって、学歴が低く、品が悪く、稼ぎも不安定な個人を相手することは、苦手そのものだった。

その点、私のかつての同僚たちの債権回収は融通無碍だった。笑いもあれば、脅しもある。強面を駆使することもあれば、人情話で取り入ることも辞さない。弁護士も裁判所も使わず、話し合いだけで金を回収してきた。支店で一番の腕利きの回収屋は、聞き上手で泣き上戸、いつのまにやら悪質な長期滞納者の懐に入り込み、しっかり回収してくる手腕はたいしたものだった。

銀行は、学校で成績優秀で品行方正な若者ばかりを採用してきた。このタイプは、経済常識が通用する法人相手の仕事は出来ても、いい加減で大雑把な個人向け融資には向かなかった。だから、利益率の高い個人向け融資では業績が伸びなかったのが実情だ。

バブルがはじけ、銀行が貸し渋り、貸し剥がしに奔走していた時も、消費者金融会社への融資だけは増やしていたのは有名な話だ。自分たちでは出来ない個人向け融資を、専門のサラ金にやらせることで、間接的に利益を得ることで妥協したのだろう。

しかし、貸金法の改正によりサラ金は経営が悪化した。普通なら斜陽会社には融資なんかしない銀行だが、サラ金は銀行にはない個人向け融資のノウハウがある。だからこそ、銀行は斜陽の消費者金融業界の再編に乗り出した。

この銀行の投資はうまくいくだろうか。少子高齢化により経済が徐々に縮小していく日本では、この先個人向け融資はまだまだ需要が見込まれる。その意味では、悪くない投資だと思う。

ただ・・・品行方正で真面目な銀行員と、要は結果さえ出せばいいサラ金では人的質が大きく異なる。もちろん、銀行は上から押さえ込もうとするだろうが、上手くいくだろうか私は疑問だ。大人しい銀行員と違って、サラ金の連中はけっこう過激。社風があまりに違うと、M&Aは上手くいかないことが多い。

はてさて、どうなることやら。
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「キリマンジャロの雪」 A・ヘミングウェイ

2008-09-08 17:00:45 | 
冒険が苦手だ。

夜の繁華街をうろついていた一時期を別にすれば、十代の頃の休日は登山に明け暮れた。元々、野山をほっつき歩くのは好きだが、登山を冒険だと考えたことはほとんどない。

常に下準備を欠かさず、登山計画を練り上げることに力を入れていた。ルートを暗記して、過去の山行記を精読するのは当然だが、エスケープルートの確認や、事故の際の連絡先、搬送先まで調べ上げて登山に望んだ。

やもすると、実際の登山は精細な計画が適切かどうかの確認作業に堕するのではないかと危惧したぐらいだ。でも心配無用。実際の山は、計画通りにはいかないのが当たり前。常に応用力が問われる緊張感があった。

どんなに詳しく想定しても、机上の計画は予定通りには動かない。濡れた山道の滑りやすさは、事前のタイム・スケジュールを無意味なものとしてしまう。疲労からの不注意で体調を崩せば、ハイキング・ルートさえ地獄の特訓に変貌する。

山で遭遇する自然の気まぐれさに惑わされ、「予定は未定」とぼやきながら、ヘロヘロになって下山したことも数多くある。それでも下準備は止めなかった。常に備えることの重要性が痛いほど、身にしみていたからだ。

未知の脅威を可能な限り廃し、予想の想定内でのベストな活動を目指していた私には、未知の世界に挑む冒険という行為は、無謀に思えて仕方なかった。

ただ、傍から見れば私の準備周到な登山も、冒険も大差なかったのだろう。実際、山に入れば事前の知識なんざ、自然の脅威の前に吹き飛ばされたものだった。

では、なんでそんな無駄に思える準備に明け暮れたのか?多分、覚悟の問題だと思う。大自然の強大な力の前では、人間は小さくか弱い存在でしかない。その自然の中で生き抜くには、人間は断固たる意志の力を求められる。その意志を固める作業が、事前の下準備だったと思う。

しかし、どんなに山に夢中になろうと、最後は無事下山することが当然の前提だった。だからこそ、表題の作品を読んだ時は困惑した。

野生の動物は冒険なんかしない。当然にフィクションであることは分る。困惑の原因は共感にある。自然の脅威に際し、生きて戻ることが叶わぬと予感する瞬間がある。恋焦がれた山頂が目の前にあったとしても、そんな時は必ず撤退するのが大原則だ。これは臆病ではない。勇気ある撤退だと思う。

それにもかかわらず、決して戻れぬと分っている道へ足を踏み入れたくなる欲望が湧いて出ることがある。心の底から怯えているのは事実だが、それでも足を踏み出したくなる。行ってはいけない先への憧憬が、心を捉えて放さない。

実際に足を踏み出したことはない。だからこそ、凍りついた豹の姿を思い浮かべると、自らの臆病さを痛感してしまう。勇気ある撤退なんて言葉で、臆病を押し隠しているとの思いが拭いきれない。

もしかしたら、破滅願望があるのだろうか。寒いのが嫌いな私だから、間違っても凍死には憧れませんが、それでも死への誘いに向かっていったキリマンジャロの豹の姿に、無言の敬意を抱くのは避け切れません。
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