子供の頃から、有害図書追放運動というやつが胡散臭く思えて仕方なかった。
多くの場合、性を取り扱った書物を有害だと決め付けていたようだ。過剰に性欲を刺激するような書物は、青少年の育成に有害だとの理屈なようだった。
てやんでぇ、べらんべい、余計なお世話だと思っていた。
子供の頃、近所の原っぱの片隅には、何故か必ずエロ本が捨ててあった。なかには、女の人を紐で縛って、蝋燭垂らしている写真が載っているSM雑誌もあった。驚愕の発見であった。
もっともまだ小学生で思春期にも入らず、性の知識も無いガキどものことだから、よく意味は分っていなかった。ただ、こりゃスゲエ、大人って凄いスケベだと興奮していただけだ。今にして思うと、すごい怪獣を発見したかのような興奮だった。ただ、それだけだった。
この手の性倒錯者向けのエロ本は、間違いなく有害図書に該当すると思う。思うけど、追放しても子供には関係ない。恥ずかしいのは性の意識を持つ大人だけで、子供たちには影響はないと思う。事実、私は健全に普通の性的嗜好しか持っていない。
異論のある方も多いと思うが、実のところ倒錯した異常な性的嗜好は、全ての人間に大なり小なり存在するはずだ。そのことは、歴史を鑑みれば必然の結論だと思う。
「パンとサーカス」で知られる古代ローマのコロッセアムで、最も人気のあった見世物の一つは、肉食獣と人間、とりわけ女性との戦いだった。はっきりいって虐殺に他ならないが、ローマの一般市民はこの残虐な見世物に興奮していたのは確かだ。
中世ヨーロッパでは、罪を犯した人間を半裸にして檻に入れ、さらし者にして餓死させる刑があった。罪無き善良な普通の市民たちが、それを賑やかに見学に行ったのは事実だ。日本だって、江戸時代に罪びとをさらし者にして、市井の民の目を楽しませたことは珍しくない。
南米のインディオのなかには、不倫をした罪人を全裸にして、軍隊蟻の通り道に放置して罰する刑が行われていた。性器などの柔らかい部位に凶暴な蟻が食いつき、犠牲者がのた打ち回るのをインディオたちが笑いながら見ていたとの記録が宣教師により残されている。おそらく、世界各地で似たようなことはあったはずだ。
サディズムを満足させるかのような刑罰は、社会正義の立場による報復を越えて、人間の暗い性的嗜好を満足させる娯楽としての側面をもっている。多分、すべての人間には、そのような異常な性的嗜好に共感する部分を、大なり小なり秘めているのだろう。
ただし、大半の人は日常的には、そのような異常な性的嗜好には反発や嫌悪を示す。それが普通だと思う。でも、まったく無関心ではいられないはずだ。怖いものみたさというか、ちょっとだけなら観てみたい気持ちは、誰にでもあると思う。実践はしないと思うが、その程度の関心は普通にあるはずだ。
たぶん、手にとって表題の本を読んだ人は少ないと思う。でも、著者の名前を知らない人は珍しいのでは?私も全編を読み通してはいない。部分、部分を読んだだけで、全て読む気にはなれなかった。心が過剰に疲弊してしまい、読む気力が続かないからだ。ちょっと興味はあるが、その興味が継続しない。
団鬼六氏は、社会の裏側にひっそりと隠れて咲いていてたサディズムやマゾヒズムを、堂々表に出してしまった人だ。有害図書だと唾棄されつつも、潜在的な読者の支持の下、作家として成功した。私の趣味ではないので、積極的に薦めはしないが、それでも先駆者としての敬意は払いたい。
堂々と明るく健全なだけが人間じゃないと思う。
多くの場合、性を取り扱った書物を有害だと決め付けていたようだ。過剰に性欲を刺激するような書物は、青少年の育成に有害だとの理屈なようだった。
てやんでぇ、べらんべい、余計なお世話だと思っていた。
子供の頃、近所の原っぱの片隅には、何故か必ずエロ本が捨ててあった。なかには、女の人を紐で縛って、蝋燭垂らしている写真が載っているSM雑誌もあった。驚愕の発見であった。
もっともまだ小学生で思春期にも入らず、性の知識も無いガキどものことだから、よく意味は分っていなかった。ただ、こりゃスゲエ、大人って凄いスケベだと興奮していただけだ。今にして思うと、すごい怪獣を発見したかのような興奮だった。ただ、それだけだった。
この手の性倒錯者向けのエロ本は、間違いなく有害図書に該当すると思う。思うけど、追放しても子供には関係ない。恥ずかしいのは性の意識を持つ大人だけで、子供たちには影響はないと思う。事実、私は健全に普通の性的嗜好しか持っていない。
異論のある方も多いと思うが、実のところ倒錯した異常な性的嗜好は、全ての人間に大なり小なり存在するはずだ。そのことは、歴史を鑑みれば必然の結論だと思う。
「パンとサーカス」で知られる古代ローマのコロッセアムで、最も人気のあった見世物の一つは、肉食獣と人間、とりわけ女性との戦いだった。はっきりいって虐殺に他ならないが、ローマの一般市民はこの残虐な見世物に興奮していたのは確かだ。
中世ヨーロッパでは、罪を犯した人間を半裸にして檻に入れ、さらし者にして餓死させる刑があった。罪無き善良な普通の市民たちが、それを賑やかに見学に行ったのは事実だ。日本だって、江戸時代に罪びとをさらし者にして、市井の民の目を楽しませたことは珍しくない。
南米のインディオのなかには、不倫をした罪人を全裸にして、軍隊蟻の通り道に放置して罰する刑が行われていた。性器などの柔らかい部位に凶暴な蟻が食いつき、犠牲者がのた打ち回るのをインディオたちが笑いながら見ていたとの記録が宣教師により残されている。おそらく、世界各地で似たようなことはあったはずだ。
サディズムを満足させるかのような刑罰は、社会正義の立場による報復を越えて、人間の暗い性的嗜好を満足させる娯楽としての側面をもっている。多分、すべての人間には、そのような異常な性的嗜好に共感する部分を、大なり小なり秘めているのだろう。
ただし、大半の人は日常的には、そのような異常な性的嗜好には反発や嫌悪を示す。それが普通だと思う。でも、まったく無関心ではいられないはずだ。怖いものみたさというか、ちょっとだけなら観てみたい気持ちは、誰にでもあると思う。実践はしないと思うが、その程度の関心は普通にあるはずだ。
たぶん、手にとって表題の本を読んだ人は少ないと思う。でも、著者の名前を知らない人は珍しいのでは?私も全編を読み通してはいない。部分、部分を読んだだけで、全て読む気にはなれなかった。心が過剰に疲弊してしまい、読む気力が続かないからだ。ちょっと興味はあるが、その興味が継続しない。
団鬼六氏は、社会の裏側にひっそりと隠れて咲いていてたサディズムやマゾヒズムを、堂々表に出してしまった人だ。有害図書だと唾棄されつつも、潜在的な読者の支持の下、作家として成功した。私の趣味ではないので、積極的に薦めはしないが、それでも先駆者としての敬意は払いたい。
堂々と明るく健全なだけが人間じゃないと思う。