理由が欲しい。
人生は決して公平ではないし、平等でもない。不幸の陥穽は至る所にあり、幸せなんて忘れてしまいそうになる。
なぜ、こんなに貧乏に苦しむのか。
なぜ、こんなに病苦に苦しむのか。
なぜ、自分はこれほどまでに孤独なのか。
飢え、地震、豪雨、津波、火災、噴火と天災が襲ってくることもある。ある日、突然敵軍に襲われて、家族を失い、家財を喪い、郷里を喪うこともある。
どうして、何故、どうしたら・・・
古来より人々は、答えの得られぬ悩みに対して、神の裁き、悪魔の仕業、妖怪の悪戯と理由を作ってきた。その理由が真実であるかどうかよりも、自分が納得てきる理由が必要だった。
その理由故に、宗教が創られ、悪魔を恐れ、妖怪を鎮魂してきた。
表題の漫画で描かれる世界では、蟲が原因であり、理由である。虫ではなく、蟲とされるのは、それが物理的な存在ではなく霊的な存在だからだろう。
不思議で、ちょっと怖くて、でもどこかでホッと出来る。主人公はその蟲を扱う専門家であり、体質的に蟲を惹きつけてしまうために、一か所に定住することが出来ずに、世界各地を旅して周っている。
ちょっと現実社会の冷たい風に吹かれることに疲れたら、読んでみるといいでしょう。不思議な世界に引きづりこまれると思いますよ。
今日を生きのびなければ明日はない。
その妄執に橋下・大阪市長は敗れた。大阪の行政に問題があることは、ずっと前から分かっていた。万年赤字体質であり、行政に無駄が多いことは、誰が府知事、市長になっても取り組むべき課題であった。
呆れたことに、住民投票に勝った側の政治家さえ、大阪市及び大阪府の財政危機に関する課題は認めていた。みんな分かっていた、分かっていたのに大阪都構想には賛意を示せない有権者が半数を超えていた。
これは大阪に限らないが、多くの地方自治体は収入よりも支出の方が多い万年赤字体質である。これは日本政府自体も同様なのだが、国政と地方政治では、同一に捉えることが出来ない。
既に夕張市が財政破綻した実例をみれば分かるように、自ら通貨を発行できない地方自治体の財政基盤は脆弱だ。決して大阪が一番ひどいわけではないが、なまじ大きいだけに、その財政赤字の規模も大きい。
だからこそ、橋下市長は二重行政の無駄を省くという題目を掲げて、その具体的な指針として都構想を打ち出した。その方向性は、決して間違っていない。ただ、以前から思っていたのだが、この弁護士上がりの政治家は拙速に過ぎる。
二重行政の無駄を省くとは、一言で云えば役人のリストラである。これが役人たちから強烈な反発を生んだ。基本的に役所の仕事は書類仕事であり、事務仕事である。
破綻した民間企業のように、放り出された社員たちで、最も再就職に苦しむのは事務系の仕事を長年やってきた人たちだ。特にITに弱い中高年の場合、元の給与と同水準で再就職できる可能性は低い。
まして効率とは程遠い役所の事務系の仕事ばかりやってきた人たちにとって、二重行政の無駄を省かれれば、当然に自分たちがリストラの対象になるとの恐怖に怯えるのは必然である。
プライドが高いので口にはしないが、自分たちのビジネス・スキルが決して高くなく、民間企業で役所と同水準の給与や福利厚生を享受できる可能性は、極めて低いことを自覚している。
この怯えた役人たちこそが、今回の住民投票の影の主役である。都構想が漠然としていて具体的なイメージが湧かないことを利用して、住民に「行政サービスが今より低下する」と囁いてまわり、都構想へ反対票を投じるよう陰に日向に暗躍したのが、この怯えた役人たちである。
これに乗じたのが、役所の下請け事業をやる民間企業(当然に天下り先でもある)であり、生活保護などの行政に寄生して生きている人たちである。役所の無駄で食っている以上、その無駄を減らそうとする政策なんぞ支持できる訳がない。
橋下という政治家は、物事を白黒に分けすぎるため、行政の無駄を省くことに反対する人たちを敵視し、彼らの不安、怯えを理解することを避けた。大きな声を出して反対しない、このリストラの恐浮ノ怯える役人たちを懐柔することをしなかったがゆえに、大阪都構想は失敗に追い込まれた。
だが、大阪の財政危機はこの先、改善される見込みは薄い現状に変わりはなく、財政破綻自治体となる可能性が高まったのも事実だ。だからこそ、今回の住民投票でも4割強の人たちが、大阪都構想に賛意を示した。
橋下市長は今期限りで引退するそうだが、誰が後継となろうと、この財政危機は取り組まねばならぬ深刻な課題である。日本人の悪い癖である、問題の先送りとなってしまった今回の住民投票。
私のみるところ、大阪は実際に財政破綻しない限り、その無駄をなくすことは出来ないと思う。おそらく国、とりわけ財務省は決して大阪を助けようとはしないだろう。気の毒ではあるが、そう予測せざるえない。
安倍総理の首相官邸の屋上で発見されたのが、無線操縦が可能な無人のヘリコプターであるドローンであった。
社会のなかで居場所をなくした孤独な青年の自己アピールであったようだが、私は当初から間抜けな事件だと思っていた。テロというには、あまりに未熟だし、この事件が契機となって原発政策が見直されることもない。
ただ、唯一結果として残ったのは、ドローンに対する規制強化ぐらいである。しかも、飛行禁止地域の設定程度で終わりそうだ。
それでいいのか?
実のところ、ドローンと総称される無人遠隔操縦型の飛行体自体は、既に数十年前から普及している。私が子供の頃、憧れの目で見つめていたあの「ラジコン」という奴である。ちなみにラジコンとは、ラジオ・コントロールの略称で商標登録もされている。
金属製の小型エンジンの唸る音と、少し甘い香りのするオイルの燃焼ガスを残して、河原の広場から飛び立っていくラジコン飛行機を羨ましげに見つめていた光景が、今でも思い出せる。
飛行機だけでなく、戦車、レーシングカー、船など多彩な無線操縦の玩具があった。玩具といっても子供では手が出せない値段であり、当時から大人の玩具であった。
だが、このラジコンの玩具は、広い場所が必要であり、特にラジコン飛行機ともなると公園では無理で、多くの場合河原で使われていたと記憶している。公園などには、当時ラジコンの禁止を掲げる看板もあったが、日本は事実上野放し状態で、ほとんど規制はなかった。
むしろ当時から規制が厳しかったのはアメリカで、日本の玩具メーカーはアメリカでの輸出には苦労したと聞いている。当然である、なぜなら無線操作の飛行体の軍事利用の先駆者がアメリカであったからだ。
お花畑で平和の歌を奏でることが平和だと思っている日本と異なり、アメリカはアメリカの平和を実現するためには戦争及び軍事技術が必要だと認識しており、その真摯な取り組みは必然的に無人で遠隔操縦可能な飛行体の研究開発に結び付く。
だが、その実現は困難を極めたが、優れたICチップの開発と、フライバイワイヤー方式による操縦技術、GPSによる正確な航路指示などの総合的な研究の成果が、巡航ミサイルであるトマホークにより実現された。
そして、その技術はやがてプレデターと云われた遠隔操作可能な偵察用無人航空機に結びつく。現在では偵察だけでなく攻撃にも使用される。味方兵士の損傷を避けることが出来る、この無人航空機は更に発展し今日に至る。21世紀の主力兵器であることは間違いない。
同時並行で開発されていたのが、飛行体の操縦技術の自動化であり、それはヘリコプター操縦にまで及び、その民生化された技術が、今回首相官邸屋上で発見されたドローンへとつながっている。
このドローンがシナ製であることが興味深い。シナもまた軍事こそが政治の要であると認識している国であり、おそらくはアメリカからスパイにより盗み取った技術をベースに、軍で実用化していることが容易に分かる。
それを、さっさと民生化して売りにだし、輸出までするところが商売人たるシナ人らしい。まだ爆薬を運べるほどのドローンは、販売されていないようだが、それも時間の問題だろう。
もちろん運搬できるのは爆薬だけではない。毒ガスのサリンの散布だって可能だし、BC兵器(病原体)を散布することだって出来る、極めてテロリストに便利な道具である。それがドローンである。
空気感染で爆発的に広がるBC兵器、例えば強毒性のインフルエンザとか、治療法が十分でないエボラ出血熱のウィルスをドローンで散布することだって出来る。
分かっているのかね、日本のマスコミ様はさ。もう少し、真剣に考えるべき問題だと思いますね。
この人、もしかしたら自覚なきシナの工作員なのかもしれない。
そう思ってしまうのが現・沖縄知事である翁長氏である。なんでもアメリカに渡り、沖縄米軍基地の撤退などを訴えてまわるらしい。馬鹿なのか、無知なのか知らないが、渡米費用は公費であり税金の無駄遣いもいい加減にしろと言いたくなる。よく沖縄県民は黙っているものだ。
いくら地方自治体の首長が反対しようと、アメリカ軍の国防戦略は変わりっこない。第一、代案無き反対案なんざ、歯牙にもかけられないのは自明の理である。
沖縄のとれる選択肢はそれほど多くない。① 日本政府から離脱して独立国としてアメリカと交渉する。② シナ政府の庇護を求めて、共産シナの自治領となる。 ③ 独自の軍事力により独立を果たして、中立国として自立を目指す。 ④ とにかくゴネて、補償金などの上乗せを狙う。
まず①だが、これはまずアメリカ以前に日本政府が容認しない。仮に法制度上の理由で自衛隊が動けなくても、アメリカ軍が安保条約を根拠に実力でねじ伏せる可能性のほうが高い。
②は、①以上にアメリカ軍が必ず動く。沖縄はアメリカが有する海外重要軍事4大拠点であり、第二のキューバ化は絶対容認しない。仮に実現しても、アメリカ軍基地よりも人民解放軍の基地のほうが性質が悪いのは、チベットやウィグルをみれば分かること。
③は、あんがいと沖縄県民の支持も得やすいだろうが、独自の軍事力の保持に必要な経済力、技術力が皆無。独立を維持できるだけの軍事力なくして、中立なんざ出来る訳がない。せいぜいタックスヘブンぐらいが限度である。
そんな訳で、一番可能性が高い選択肢は、従来通りの④である。これこそが本命であり、沖縄の本音であるが、それだけに誰も大声で指摘はしない。感情論からこじれるだけだと知っているからだ。
それにしても、この沖縄知事、アメリカ軍が沖縄県内で問題を起こすことに神経質なのは分かる。その一方で、シナの艦船が沖縄周辺海域で好き勝手していることには、驚くほど寛容である。
勝手に採掘している海底原油の問題だけでなく、沖縄の漁師さんたちを苦しめるシナの大型漁船の横暴は観て見ぬふりである。これで日本の政治家だというのだから笑ってしまう。もちろん、シナはほくそ笑んでいるだろう。
実際は、反日自虐感情に縛られて、まともな判断ができないだけの狭量な正義感の持ち主であるだけだと分かっている。分かっているが、この手の愚者に好き勝手させるのは、いささかうんざりしている。
自分の行為を、客観的に見るのは誰にとっても難しい。それは分かるが、あまりに甘やかし過ぎではないかと思いますね。
自分自身を評価するのは難しい。
子供の頃は、周囲に迎合しない自分を自覚していた。本を読むのが好きだったのは、それが一人で出来る作業だからだと、今にして分かる。
だが、成長するに従って、ある種の集団に属していることの安心感を知る。それは家族とは異なり、その場、その時かぎりの集団であるのだが、これに属しているかどうかで、まるで人生が違ってみえる。
それは既に小学生の頃にはあったと思うが、自分勝手な私は敢えて無視していた。たまに私のようなヒネクレ者のガキ同士でつるむことはあっても、基本は一人であった。
しかし、高学年になるに従って、趣味とか遊びの部分で付き合いやすい相手と集団を組むようになっていた。だが、これが一筋縄ではいかない集団であった。いつも誰かがイジメの対象となる可能性があり、気が抜けない集団でもあった。
私もいつのまにか、イジメの対象とされたこともある。理由?正直分からない、分かるはずもない。後でイジメる側に回ってみて分かったのだが、理由がある場合もあれば、なんとなく雰囲気で「今日からあいつ、村八な」なんて軽い気持ちで始まるイジメもあった。
ちなみに村八とは、村八分のことであり、決まった瞬間から誰も口をきいてくれなくなる。これは精神的に堪える。あの絶望感は、やられたものでないと分からないと思う。
今から思えば、実にくだらないことなのだが、当時の私にとっては大事件であり、相当に苦しんだ覚えがある。興味深いことに、中学でも高校でもあったよう
に思うが、私はその頃には集団のなかの主要なメンバーの地位に就くコツを掴んでいたので、まともにイジメられることはなかった。
多分、その頃から私は、自分の役目、あるいは集団の中における立ち位置を確保し、そのなかに身を置くことを一種の処世術としていたように思う。それがほぼ確信になったのは大学の時だ。
私は、高校生ぐらいの頃からだと思うが、周囲から堅い人間だと見做されることが多く、また折衝役に向いていると思われていた。つまり幹事役を任されることが多く、必然的にお金を集めたり、管理したりすることが増えた。
率直に言って私自身はかなり戸惑っていたのだが、やってみることが私の集団での立ち位置を決めると覚悟を決めて、その役割をこなすことに傾唐オた。文化祭の後の2次会の会場の飲み屋で予算交渉をし、みんなから金を集めて場所を連絡する。あるいは集めたお金の使途を報告する。
気が付いたら、遊び仲間では幹事役であったし、クラブでは会計係をやることが増えた。それは大学に入ってからも変わらず、むしろ役割は重くなり、こなす業務も増えていった。
どうやら、私は集団の中での一定の役割を担うことで、自分の才能が活きるものであるらしいと悟った。つまり会社組織の中で、重要な歯車たらんと志した。それが当時の私の自己分析の結果であり、そのことを意識したうえでの就職活動であった。
今だから分かるが、その自己分析は間違いであったようだ。なにせ、新人研修の結果のSE配置が気に食わず、休日に勝手に営業活動をして、全国展開している登山店の代理店契約の話を取ってきて、それと引き換えに営業への配置転換を交渉した問題児であった。
数年後、人事部の方に聞いたら、そんな新人は前代未聞であったらしい。ちなみに新人として赴任した東京近郊のK支店でも、初日から支店長に逆らっている。どうやら、私は組織人としては向いていないらしい。
そういえば、大学の同期から「ヌマンタは下級生に優しく、上級生には引かず、同期に一番厳しい」と評されたことがある。私としては、なにが悪いのか分からないが、変わり者と思われていたのは確からしい。
今では銀座の裏通りの小さな事務所の所長様なのだが、一番年下であるせいか、スタッフたちに言いたいこと言われている、肩身の狭い所長である。
ところで、表題の作品は一昨年、TVドラマ「半沢直樹」として放送されて、大ヒットしたものの原作である。倍返しが話題になったが、銀行って、こんな反骨心のある行員を容認するほど、ぬるい組織なのかしらと私は疑問に思っている。
ただし、勧善懲悪のドラマとしては面白い。TVと異なり、じっくりと楽しめるので未読でしたら是非どうぞ。