ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

新安全保障に思うこと

2015-05-25 11:55:00 | 社会・政治・一般

戦争法案でなにが悪いのか。

どんなに政治的修辞を施そうと、現在安倍政権が成立を目指している新安保法制は、戦争に参加するためのものだ。その意味で、野党が「戦争法案」だと呼ぶのは相応だと思う。

思うが、呆れた気持ちと侮蔑を隠しきれない。

戦前の日本が、ずるずると戦争へと引き込まれたのは、独走する軍部を政府が抑えきれなかったからだ。当時の内閣は、陸軍と海軍の推薦する大臣なくして組閣ができなかった。軍部は、政府が自分たちの意向に反するようだと、陸軍大臣らを出さず組閣を成立させなかった。

そのため、当時の内閣は軍部の意向に反対することが出来なかった。実のところ、軍の推薦がなければ軍務大臣が出せないなどという法規はなく、これは法令外の仕組みであった。

その根拠は、統帥権である。明治憲法では、統帥権を持つのは唯一天皇のみであり、内閣にはないものと解釈されていた。要するに、明治政府においては、戦争に関する権限は、軍部に大きく左右されていた。

これは明治憲法の欠点であり、有事法制の不備である。法令外の制度により、内閣が阻害されるという異常事態でもある。この欠点ゆえに、日本政府は軍がシナ東北部において侵略を進めることを阻止しえなかった。

シナへの権益を狙うアメリカには許しがたい行為であり、結果的に太平洋戦争へとつながる。このことを真摯に反省しているのならば、有事法制の整備は当然であり、平和を守るために必要であると理解できるはずだ。

しかし、言霊信仰に染まり、軍や戦争という言葉を忌避することが平和だと思い込む、平和原理主義者たちは現実を直視することをしない。

戦後の日本は、海外から原材料や食料を調達し、それを加工して輸出することで国民を潤す経済国家として再生した。そしてアメリカとの安全保障条約の下で、直接戦闘に巻き込まれる危険から逃れて今日の地位を築き上げている。

たしかに戦闘に直接関与したことはない。その意味で平和な国である。しかし、アメリカ軍は、日本で武器弾薬、食料医薬品を補給し、空母や巡洋艦を修理し整備して戦場に送り込んだ。日本製の武器で戦い、日本で補給された物資で戦い、傷ついた兵器や人は安全な日本で修理し、休ませることが出来た。

たしかに戦闘には直接関与していない。しかし、アメリカ軍の補給基地であり、休憩施設であり、修理基地として立派に戦争に関与している。これらの兵站行為は、立派な軍事的貢献であり、それを国策として行い、戦後の繁栄を築き上げた。

憲法9条は単なるお題目に過ぎず、実際には戦争に関与することで、現在の日本は存在してきた。そしてアメリカは今まで以上に日本に積極的に、アメリカの政策に貢献することを求めている。

そう遠くない将来、日本軍はアメリカか国連の指揮のもとで、兵站だけでなく戦争に直接関与することになる。平和を志向する日本国民の意思とは無関係に、大国として、争いごとに知らぬ顔を出来なくなってきている。

アメリカだけではない。シナの南方侵略の脅威にさらされている東南アジア諸国は、アメリカと日本にシナと対峙することを望んでいる。インドやオーストラリアもまた、日本との軍事的な関係を深めることを望んでいる。

彼らは戦争を望んでいるのではなく、平和を守るために日本との軍事的協力を望んでいる。平和を守るためには、軍事力が必要。これが国際的な常識であり、その軍事力を暴走させないためにも、有事法制の整備は必要不可欠だ。

人類の歴史を鑑みれば、独走した軍が戦争を拡大し、征服地を増やすと同時に敵をも増やし、終わりなく戦いへと突き進むことは珍しくない。だからこそ、法治国家としては、法令により軍を縛る必要がある。

現在、安倍内閣が進めている新安保は、間違いなく戦争法案である。その事実と浮ウを噛み締めてこそ、平和は守られる。間違っても戦前の過ちを繰り返してはならない。

戦争を恐れ、嫌うのはいい。でも、だからこそ、戦争は法令の下で合法に始められ、法令の下で終わらせる。それが出来てこその法治国家である。繰り返すが、それが出来なかったのが明治憲法下での日本政府である。過ちは決して繰り返すべきではないと思う。

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