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井月について、暇に飽かしてもう少し勝手なことを書いておきたい。と言っても、大したことなど書けるわけもない。世に多くの井月関連本があるから興味関心のある方々はそちらで、こっちはあくまで一昨日や昨日のような埋草、戯れ言の類とお断りしておきたい。
実は昨日の訂正ではもうひとつ、本名と生年月日を一度消し、再び挿入した。ある所で、井月は「井上」という姓を使ったことはない、と断定している文章を目にしたこと、また出生と没年についても1年のズレのある本を目にしたからだった。これらのことを追求するだけの能力と熱意があればよいが、かなわない。やむなく慌てて消したり、また取り上げるという無様を演じた。
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「井月の俳境」(鞜青社刊)の著者宮脇昌三は、同書において井月が井上の姓を二度使っていることをハッキリと書いている。一つは宮田村の山浦山浦への書簡で(ここでも水戸の天狗党のことが出てくる)、もう一つは養子に入った梅関塩原折治の分家先から、本家の娘の婿養子を求めた文章(「口上書」)にあるとしている。その点については「信濃の俳人」とも合致する。ただし昭和19年刊の「信濃の俳人」では没年を「(明治)十九年二月十五日(一説には二十年三月十日舊歴二月十八日)」として、他の最近の井月関連の本と違いを見せている。
宮脇は「井月、その本姓井上、本名克三と言うも、今日残る書簡一、二通において、暗夜ちらりと一星の洩れたるにひとしい。」と、美文でそのことを書き、また没年については、河南(かなみ)の龍勝寺の過去帳に明治20年3月10日没、66歳と記載があるという。生年はその逆算によるとある。
本当に「井上」が井月の姓であるかまでは井月の正体が依然不明なため明かしようもないが、本人がそう書いていることは、これらから間違いないと断定できよう。
井月関連では最も有名で、井月を世に知らしめた名著「井月全集」にも目を通したかったが、今ごろは雪に埋もれた入笠の極寒の牧場管理棟で、読み手が来る日を待ってくれているだろう。きょうの写真は、資料にした幾つか。
村井さん、予約受けました。O沢さんはネコのようなことを言ってないで、浦でもどこへでも喜んで案内します。ただし、「行き倒れ」については、見解を異にします。マナスル山荘本館のオーナー山口さん、ありがとう。盛況なによりです。そのうち、熱いココア(ビールも)を頂きに伺います。