橋杭岩
もう少し紀伊の山のこと。
この地を初めて踏んだのは、20年ほど前のことになる。当時は、東京港から勝浦港経由で高知まで、白い船腹にオレンジ色の大きな太陽が描かれたサンフラワー号という洒落た船が運航されていて、それに乗船して行った。ところが期待の熊野大社よりも、その後に訪れた雪の高野山の方が印象に強く残る旅だった。季節は5月、同行者はP君、それと彼のパジェロ。
だから海と温泉、それと南朝を率いた後醍醐天皇の陵墓のある吉野の如意輪寺を訪ねてみたいとは思っていたものの、今回の旅で行ってみるまでは、伊勢や熊野の諸社寺や古道、霊山のことについて、実はそれほど深い思いを寄せていたわけではなかった。
杉の巨木・霊樹
しかし、二度目の旅で紀伊の印象は一変した。海もだが、特に山に魅かれた。一望するだに鬱蒼とした杉の森が幾重にもどこまでも峰を連ね、あるいは重ね、それがまた深い谷をこしらえ、浩然とした流れが霧の中をゆったりと下っていた。この季節だったために雪も一役買っただろうが、それも落葉樹が主体の入笠のような山とは趣を異にして、同じ雪景色でも常緑樹の叢々たる山々はまるで上等なオーバーでも着ているように見え、風景から寒さを消しているように見えた。
神代の昔から、紀伊の山地は深山幽谷でありながら神話の舞台として、また王朝の時代は神仙の住まう聖域と信じられて山岳信仰の対象となった。700年代に役小角(えんのおずね)が登場し多くの口碑が生まれ、つれて修験道は各地に広まってゆき、密教系の仏教や道教などを習合させ発展するようになった、とか。
紀伊半島を縦断する途次に偶々訪れた玉置(たまき)神社は、見事なまでの杉の大樹がそびえる標高1千メートルほどの山中にあった。雪のために訪れる人もなく神域は寂として、樹霊が見てきた神話の時代から2千年、いやそれ以上もの長い時の移り変わりを思いつつ、しめやかな霊山の淑気というものを存分に感じながら歩いた。ここはかつては神仏習合が行われていた社寺だったらしいが、明治の廃仏毀釈のせいで今や仏閣の面影はなかった。
踏み跡もはっきりとしない急な雪道を登っていった先には、標高1千と76メートルの玉置山の山頂が待っていた。そこからは遥かに熊野灘が望まれ、かの役小角が拓いたと伝えられる大峰奥駈道とは、目の前の急峻な峰が幾つも続く吉野までの難路を言うのだと知った。
旅はまだ続くものの、勝手な番外編はここまでとします。