新型コロナウイルスのまん延防止のため、また、感染症を予防するため、4年間ほどは制限のある
状態で迎えた「広島原爆の日」ですが、本年は概ね過去と同様に実施されました。
でも、マスク姿の方もチラホラ見かけたし、警備に携わる方々は、やはりマスク着用なのでした。
今回は、写真と記事多めで。
広島平和記念公園。俗にいう入り口側。当日は気温が高く空には雲が。台風6号が九州の南西に
停滞して進路が不明瞭という状況。日差しが途切れる時間もあったけど、やはりとても暑い。
原爆死没者慰霊碑には、当日朝8時から実施された「第78回 広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」
での献花・献花台が設置されていました。参列した首脳などの花輪は撤去されています。
暑さ対策として大型テントが設営されますが、この暑さですからね。昨年からミスト装置を追加
しているのですが、送風機等も必要みたいで。なにしろ超密ですから、人の体温だけでも相当暑い。
被爆当日に破壊されず、戦後も引き継がれて来た「被爆ピアノ」による演奏が行われていました。
どこのピアノの先生なのかは分からないのですが、この日に演奏するため準備なさっていた訳です。
空を見上げると、雲の形が青いメガネの顔に見えてしまって。
晴れたり曇ったりの23/08/06の広島平和記念公園付近。被爆当日の広島市は朝から良く晴れていた
そうですが、原爆の使用によってキノコ雲が広がり、地上では黒い雨と人々の血が流れたという。
本年の原爆ドームと元安川の川面は穏やかだが、1945年8月6日以降の元安川はおびただしい人で
埋め尽くされたと聞きます。
原爆ドームの慰霊碑と、本年5月に元安川沿いに設置された「マハトマ・ガンジー胸像」。
なぜガンジー像?という理由は、氏の掲げた「非暴力・不服従」の理念が、広島市の掲げる
「平和文化」の振興に一致するとしたため。胡蝶蘭が飾られていました。背後に咲く花は
広島市の花である夾竹桃。75年間草木も生えぬと言われた被爆地で、いち早く花を付けた
植物とされています。今年は太平洋戦争が終わって78年なので、いかに放射能・放射線の
影響が人類にとって強力で不明な部分が多かったのかが良く分かる。
そういう代物を、戦争の早期終結を狙った決定打として使ったという訳です。
どうなるのかおおよそ想像がついていたのは、開発した人と、軍や政治家のごく一部。
それですら正確な所が分からないので、実際に使ってみたということ。使えば分かるから。
それだけに、「原爆犠牲ヒロシマの碑」に埋め込まれている被爆瓦と碑文が心に刺さる。
陽が落ちて、灯篭流しの時間が近付く。「原爆の子の像」はシルエットとなり、
元安橋の親柱に飾られる電灯が燈る。この橋のデザインは、大正時代に架けられて
被爆を耐えた旧橋にちなむ。
日本人はもとより、非常に多くの外国人が訪れている事が良く分かる。
灯篭流しが始まったが、本年の広島市干潮時刻は18:59となっており、汽水域となる
当地点では川面の推移が下がり切った状態。その後、満ち潮に変わると水面は逆流
になるのだが、そうなるまでには時間が掛かる。つまり、灯篭は大きく流れずその場に
留まりがちな年であった。
<今年の8/6日はとっても暑かったということ>
とーってもスリムなハシボソガラスさん。暑すぎて口を開けて日陰の水辺で休んでいた。
カラスの羽根色は黒だけではなく、とても濃い青紫があるというのが良く分かる・。・。・
そして、俗にいうクチバシが黄色いヤツ。暑いから水浴びをしているのですが、
周りに人が大勢いるけど捕まる恐れがないと判断してか、存分にバシャバシャやってました。
------------------------------------
広島に生まれ育ったものは、子供の頃から恐らく他県より特別な教育を受けていると思います。
私は結構歳が行っているので、実際の当日の様子を大人達から聞く機会が少なからずありました。
祖父母から第二次世界大戦中の話を聞く機会はあったし、学校の先生や色んな方々から少しずつ。
でも、やはり多くは語らないのです。
人間は自らの精神を防御するため、余りにも辛すぎる記憶は改ざんされたり、記憶そのものが
なされなかったり、記憶していても奥底に封じ込めて思い出せない様にするそうです。
それでも語ってくれたという事は、誰かに伝えておかなければならないと思ったからでしょう。
今のところ戦禍にさらされない時代の日本に生まれ育っている。色々あっても、それだけで
運が良いと感じる。そんな日です。
状態で迎えた「広島原爆の日」ですが、本年は概ね過去と同様に実施されました。
でも、マスク姿の方もチラホラ見かけたし、警備に携わる方々は、やはりマスク着用なのでした。
今回は、写真と記事多めで。
広島平和記念公園。俗にいう入り口側。当日は気温が高く空には雲が。台風6号が九州の南西に
停滞して進路が不明瞭という状況。日差しが途切れる時間もあったけど、やはりとても暑い。
原爆死没者慰霊碑には、当日朝8時から実施された「第78回 広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」
での献花・献花台が設置されていました。参列した首脳などの花輪は撤去されています。
暑さ対策として大型テントが設営されますが、この暑さですからね。昨年からミスト装置を追加
しているのですが、送風機等も必要みたいで。なにしろ超密ですから、人の体温だけでも相当暑い。
被爆当日に破壊されず、戦後も引き継がれて来た「被爆ピアノ」による演奏が行われていました。
どこのピアノの先生なのかは分からないのですが、この日に演奏するため準備なさっていた訳です。
空を見上げると、雲の形が青いメガネの顔に見えてしまって。
晴れたり曇ったりの23/08/06の広島平和記念公園付近。被爆当日の広島市は朝から良く晴れていた
そうですが、原爆の使用によってキノコ雲が広がり、地上では黒い雨と人々の血が流れたという。
本年の原爆ドームと元安川の川面は穏やかだが、1945年8月6日以降の元安川はおびただしい人で
埋め尽くされたと聞きます。
原爆ドームの慰霊碑と、本年5月に元安川沿いに設置された「マハトマ・ガンジー胸像」。
なぜガンジー像?という理由は、氏の掲げた「非暴力・不服従」の理念が、広島市の掲げる
「平和文化」の振興に一致するとしたため。胡蝶蘭が飾られていました。背後に咲く花は
広島市の花である夾竹桃。75年間草木も生えぬと言われた被爆地で、いち早く花を付けた
植物とされています。今年は太平洋戦争が終わって78年なので、いかに放射能・放射線の
影響が人類にとって強力で不明な部分が多かったのかが良く分かる。
そういう代物を、戦争の早期終結を狙った決定打として使ったという訳です。
どうなるのかおおよそ想像がついていたのは、開発した人と、軍や政治家のごく一部。
それですら正確な所が分からないので、実際に使ってみたということ。使えば分かるから。
それだけに、「原爆犠牲ヒロシマの碑」に埋め込まれている被爆瓦と碑文が心に刺さる。
陽が落ちて、灯篭流しの時間が近付く。「原爆の子の像」はシルエットとなり、
元安橋の親柱に飾られる電灯が燈る。この橋のデザインは、大正時代に架けられて
被爆を耐えた旧橋にちなむ。
日本人はもとより、非常に多くの外国人が訪れている事が良く分かる。
灯篭流しが始まったが、本年の広島市干潮時刻は18:59となっており、汽水域となる
当地点では川面の推移が下がり切った状態。その後、満ち潮に変わると水面は逆流
になるのだが、そうなるまでには時間が掛かる。つまり、灯篭は大きく流れずその場に
留まりがちな年であった。
<今年の8/6日はとっても暑かったということ>
とーってもスリムなハシボソガラスさん。暑すぎて口を開けて日陰の水辺で休んでいた。
カラスの羽根色は黒だけではなく、とても濃い青紫があるというのが良く分かる・。・。・
そして、俗にいうクチバシが黄色いヤツ。暑いから水浴びをしているのですが、
周りに人が大勢いるけど捕まる恐れがないと判断してか、存分にバシャバシャやってました。
------------------------------------
広島に生まれ育ったものは、子供の頃から恐らく他県より特別な教育を受けていると思います。
私は結構歳が行っているので、実際の当日の様子を大人達から聞く機会が少なからずありました。
祖父母から第二次世界大戦中の話を聞く機会はあったし、学校の先生や色んな方々から少しずつ。
でも、やはり多くは語らないのです。
人間は自らの精神を防御するため、余りにも辛すぎる記憶は改ざんされたり、記憶そのものが
なされなかったり、記憶していても奥底に封じ込めて思い出せない様にするそうです。
それでも語ってくれたという事は、誰かに伝えておかなければならないと思ったからでしょう。
今のところ戦禍にさらされない時代の日本に生まれ育っている。色々あっても、それだけで
運が良いと感じる。そんな日です。
初めての広島旅で原爆ドームを見学しました。
知識としては知っていましたが、あまりの衝撃に言葉がでてきませんでした。
見学したのは原爆ドームだけでしたので、今回大ぺけさんblogで周辺の詳細を知りました、ありがとうございます。
話は変わりまして、私事ですみませんが、、
知人の叔父の戦争体験記をワープロ清書したことがあります。
それまでご自身の戦争体験を話すことは無かったのですが、亡くなる前に知人に記述を願い出たそうです。
きっと、そうすることでご自身は戦争の過ちから解放されたいと思いになられたのかもしれません。
忘れてはいけない戦争ですが、個人の辛すぎる経験は忘れていたいし話したくないのですね。
戦争は絶対起こしてはダメですよね。
いやー、早朝は行ってないのです。テレビで
見ながら、8時15分に黙とうを捧げました。
お昼頃と、一旦帰ってから夕方に再度訪れた
形です。流石に気温が高すぎる。。。
クラウゼヴィッツの戦争論で、戦争の本質は
暴力の行使であるとされているが、現実の
戦争行為はそれだけで継続されえない。
よって、政治戦争という部分に着目する。
・主に国民による憎悪や暴力性をもたらす傾向
・主に軍隊による自由な精神活動としての傾向
・主に政府による従属的傾向
つまり、政治的に国民を扇動して敵に憎悪を
抱かせ、軍事組織を支持する風潮を構築し、
御国の為に戦う国民を作り出すというもの。
戦争を起こさない為には、これは変だぞ?
と思う個々人の意志と行動にかかっている。
だが、これを完遂するのはとても難しい。
歴史は、それを物語っている。