<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

仏教は「元気を出せ出せ」「あなたが元気を出さなくてどうする」と言って来る ラスト

2018年03月08日 12時36分56秒 | Weblog

続き

「自性すなわち無性」とも表現されている。みずからの中に宿る仏性(=自性)は、まさにそれである。<仏になれる性質><仏としてのわたし>のことである。穢されてもいないでそのまままるまる我が心身の内に、その仏性が横たわっているではないか。このように臨済禅師が弟子たちを鼓舞しているようだ。

仏教というのは、「元気を出せ出せ」「お前が元気を出さなくてどうする」と言って来る。「いつまでうじうじしているのか、自己否定を続けるのか」「つべこべ言うな」「外は春だぞ」「自己の仏性を活動させる条件は全部揃っているぞ」と叱りつけてくる。それにしても、仏教は楽観主義だなあ。押せ押せというところなど、明るいなあ。全肯定だなあ。

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仏教は「元気を出せ出せ」「あなたが元気を出さなくてどうする」と言って来る その2

2018年03月08日 12時32分20秒 | Weblog

続き。

悟りは開けるか。当下に無事であることを納得すればいいのかもしれない。納得するにはどうしたらいいか。心身と祖仏とは別でないことを知ればいいと述べてある。即座に「釈迦になりきってしまへ」というのだろう。荒っぽいようだが。何処まで行っても違うと言えば違うのである。それを繰り返したところでは、悟りはいよいよ遠くなって見えなくなってしまう。

釈迦は「あなたも釈迦になりなさい」「仏陀に成りなさい」「仏になれるからなりなさい」といって、鹿野園での初転法輪の座に着かれたのである。なれないことを言われるはずはない。後ろには祖師方が守りについておられるだろうし。諸仏の加護もあるだろう。仏法僧の導きが豊かに豊かにあるだろう。

 

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仏教は「元気を出せ出せ」「あなたが元気を出さなくてどうする」と言って来る その1

2018年03月08日 11時39分48秒 | Weblog

分かってもいないのに、分かったふうにものを言うのはよくない。それは無知の人の行動である。わたしはそれこそ<門外漢>なのだから。

しかしここでは、<少しでも分かりたい一心>でこの宗門章を紐解いてみた。我流解釈だから曲解である。

「心身と祖仏と別ならざることを知って、当下(とうげ)に無事なるべし。山僧が見処(けんじょ)に約すれば、釈迦と別ならず」

臨済宗「宗門安心章」より

「祖仏」はお釈迦様のことだろう。「心身」はわたしを構成する身と心。「無事」だから、安んじてもいいということか。「当下」は今此処ということ。この安心章は妙心寺で説き起こされたものだから、此処での「山僧」は、筆者のことか。「見処」は見たところでは。

言いたいことは、「仏になるのはわたしだ」ということか。遠慮は要らぬのである。いえいえ、<わたしが仏になれるわけはない>などと引き下がって寺門という穴の中、自己という深い洞穴に閉じ籠もる人が多いが、<悟りを開いた釈迦>としていますぐ外へ出て行ってもいいのである。

 

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気持ちをシャンとさせるだけでいいか

2018年03月08日 11時31分10秒 | Weblog

雨が降り続いている。何処にも行かないで家の中に籠もっている。外へ出て行きたくてうずうずもしている。でもその、肝心の<外>が具体性を帯びないままなのだ。つまり何処へ行っていいのか分からないのだ。行く先なしのドライブしかない。梅林梅園も歩けないだろう。

他所(よそ)行きウエアーにまだ着替えてもいない。着替えたところで変わり映えはしないのだが。気持ちをしゃんとさせるだけでいいか。

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何を楽しみとするかは人それぞれ 何を楽しんでもいい ラスト

2018年03月08日 11時23分28秒 | Weblog

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到達点は仏道である。仏界である。涅槃界である。涅槃と言うから安らぎのみがあるかと思ったら大間違いで、成仏を果たしたら、仏の大活躍が準備されている。

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何を楽しみとして今日の一日を過ごすか。何をすればそれがその人の今日の楽しみになるか。今日はふっとそこを我なりに考えてみたことだった。新しい楽しみの群、門、扉を開けてみたくなった。

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分類表を上げていく度に、「なあんだ、自分はこれまでそんなことに現(うつつ)を抜かしていたのか」「そんなことで満足を覚えていたなんて、なんと欲の少ない暮らしだったことだろう」と、<あきれかえる仕事=学習>が待ち受ける。

 

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何を楽しみとするかは人それぞれ 何を楽しんでもいい その3

2018年03月08日 11時21分34秒 | Weblog

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仏教では六道があると説いている。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道だ。地獄道にも餓鬼道にもそれぞれの楽しみが用意されている。苦しみの分、悲しみの分だけの楽しみがある。天道もそこは同じだ。楽しみを以て生き甲斐としているところは変わらない。ここでもABC・・・・・・XWZと群がある。門がある。扉がある。

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六道のそれぞれに強力な引力が働いている。その引力圏を外して越えて行くことを解脱と呼ぶ。その引力呪縛を解かれて抜け出して、次の引力圏に移動して行くことだ。

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やがて菩薩道というところに出る。ここからはいよいよ仏界である。此処まで来るともう我見に縛られていない。わたしを楽しむことがなくなっている。

 

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何を楽しみとするか それは人それぞれ 何を楽しんでもいい その2

2018年03月08日 11時18分47秒 | Weblog

たとえば、M群の3578001門を開くことになった人がいる。この人もその楽しみに明け暮れている。そしてそれ以上の楽しみを見出せない。

それに捕まってしまって、その楽しみの奴隷とかしている人もいる。どの楽しみも捨てがたいのだ。

それだけの種類の楽しみがあるのに、生涯でほんのわずかな種類の楽しみしか楽しめなかったというケースも出て来る。

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とんとん拍子で開眼する人もいる。目覚めが起きた人だ。彼は川の石投げゲームのように水面を滑って先へ先へ進んで行く。

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そしてある人はとうとう最終Z群の最上段の門を潜る。

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すると次にまったく新しい次元の楽しみが用意されている。やはり事細かに分類されている。そこを彼或いは彼女は経由して進んで行く。

 

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何を楽しみとするか これは人それぞれ 何を楽しんでもいい その1

2018年03月08日 10時28分10秒 | Weblog

何を楽しみとするか。これは人それぞれ。

決まっていない。決まったところで逸脱してしまうはず。

楽しみの種類はA群B群C群D群・・・・・・・X群W群Z群まで分かれてある。

しかもその中でそれぞれに1から1兆までの分類段階がある。

その人の向上発達に応じてさまざまに取捨選択が可能だ。

ある人は、そのA群の103門を開いて楽しんでいる。が、その人はまったくそれ以外それ以上の楽しみがあることを知らない。それが最高最上だと思い込んでいる。

 

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人を束縛するのも、人から束縛を受けるのも

2018年03月08日 09時20分30秒 | Weblog

今日は雨。叩き付けるほどの大雨ではありません。小雨です。蕭条としています。雨音の間隔が長くなって来ました。もうすぐ止むのでしょう。

それを束縛ととるかとらぬかで、分かれてしまうのですが、概して、わたしは束縛を好みません。大方の人もそうでしょう、きっと。万事、好きにして暮らしているのがいいですよね。そうしている方が、荷が軽い。わたしはことさらに、人を束縛するのも、人から束縛されるのも、そのどちらも避けたがります。

しかし、人は人との関係性を断てません。大なり小なり結び紐で互を結び付け合っています。その小なるものですら、束縛ととるかどうか。関係性を拒絶すれば、人は冷淡に落ちます。孤独になります。寂しさを味わいます。でも、自由がそこに広がります。寝ててもいい起きててもいい、ごろんと横になっていてもいい、欠伸をしていてもいい。

小学生の通信簿の欄に、その人の人柄の評価で、「協調性」というところがありますね。今のわたしの場合はここには太字のペケのチェックが入りでしょう、間違いなく。そんな通信簿をもらわなくてすんでいるからいいようなものの。人間性評価としては落第点です。

この高齢に達していながら、人柄に丸みがありません。とげとげしています。これでは人の中に入っては行けません。人を安らげることはできません。集団に違和感を起こさせるに決まっています。なにしろぼそっとしています。とりつく島がありません。ぶすっとしたそのブスなのです。反省をしなければなりません。

今日は、さて、わたしはいったい何をして過ごしましょう。とりあえずは、この役立たずの小文をブログに書いています。読者お楽しみ貢献度ゼロの。雨音が急に高くなって来ました。ヒヨドリが、畑の下りて、野菜を啄みに来ています。雨なんてものともしていません。菜の花が咲いて咲いてここは黄金の花園です。

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竹裏館で弾いた琴は、現代のギターに近かったのでは?

2018年03月08日 08時55分41秒 | Weblog

今朝このブログで王維の「竹裏館」のことを書いた。その詩の中に、「琴を弾く」場面が登場する。さて、ふっと此処で立ち止まる。竹林の中まで持参して座して弾く琴とはどんな琴なのだろう。一弦琴なのだろうか。可成り手軽なものだろう。

現在で言えばその弦楽器は、ギターのような、ウクレレのようなものだったのではないか。ふっとそう思った。だったら、フォークソング歌手のように、そこで歌える。周りとも溶け込める。いっしょに手拍子も取れる。ギターやウクレレでは、竹裏館の文人ムードにそぐわないだろうか。

彼らは一種の隠者である。世と隔絶されていたがる。そして己らの生き方こそが、時代の先端を走るかっこいいスマートな生き方だと自負している。そういうところがある。これは現代に置き換えてもあまり変わりはないのかもしれない。身を退いて世捨て人しながら、やはり、世に受け入れられたがる。

「ううう~ん、きみのその暮らしぶりは清廉で潔白で、オミゴト!」とかなんとかの世評を買って。明月と相照らし合うかの王維殿は、そこまで俗っぽくはなかったとしても。京都嵐山には、竹林とその中を貫く静寂の小径がある。わたしもそこを嘗て歩いてみたことがある。此処は勇名を馳せていて訪れる客が多い。美しい。安らげる。

こんなふうに箇条書き風にすれば読みやすいかなと思って、この頃のブログはどれも段落、チャプターを設けていますが、どうなんでしょう。わざとらしいですかね? 振り返ってみると、これはわたしの発想が飛んでいった跡になっています。

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