<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

無行動者の開き直り

2015年04月21日 10時18分24秒 | Weblog

いいんだよ。いいんだよ。気色張らないでいていいんだよ。

わたしはわたしに声をかけます。

何かしなくちゃならないなあ、怠けているばかりじゃすまないなあ。わたしは少し焦ります。

わたしは光を注いでもらっています。明るい光です。まばゆいです。其の中にわたしがいますが、わたしはなんにもしていません。行動を起こしていません。わたしに風が吹いて来ます。心地よい春の風です。風はわたしを爽やかにしてくれます。爽やかにさせて貰っているのにわたしはなんにもしていません。役立っていません。

天地の豊かさをもらってばかりでご恩返しをしていません。行動を起こしていい条件が揃っているのですから行動を起こすべきです。役に立つべきです。でもそれをしていません。

そこで、冒頭の「いいんだよ、いいんだよ、そんなに気色張らなくていいんだよ」の声かけになります。自分で自分に声をかけています。説得力はありません。どうして行動を起こさなくていいのか、質問されたら答えに窮してしまいます。

うっとりしているときには行動を起こせません。これは屁理屈です。天地の豊かさにうっとりなって、そこで万事休すになっています。わたしの行動は万事休すですが、天地の豊かさは万事生き生きとしてフル活動をしています。是を眺めて称讃を浴びせている、これも一種の行動だ、なんて開き直りをしています。おかしいですよね、そんなって。

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やっと晴れ間

2015年04月21日 09時59分24秒 | Weblog

おはようさん。やっと晴れ間を見ました。ああ、いい気持ち。このところ土が湿ってばかりだった。植物は根腐れを起こしそう。菜種梅雨らしい。日照不足の蕗がほっそりしています。でも撫子は元気いっぱいです。天候不順にも逆らわずに健気に咲いています。逆境にも強いんですね。

シャクヤクの蕾が大きく膨らんできました。鮮やかな赤が見えています。たくさんの蕾を着けています。白い蝶々がこの上を飛び交います。朝食が済んだ後で、庭をひとしきり見て回りました。

僕は今朝から数回、鼻血を見ています。気持ちが悪いです。何処かが鬱血でもしているのかな? で、ちょっと安静にしています。夜中何度も起きてそのたびにだらだら読書をしていたので寝不足をしているのかもしれません。

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よい条件がすべてよく整って

2015年04月20日 16時03分41秒 | Weblog

若い頃に室生犀星の詩を読んだことがあった。そこに蛙の恩返しを題材にした詩があったように記憶しているが、例によってうろ覚えの類いかも知れない。鶴の恩返しは演劇で見たことがあるが、蛙が恩返しをしに来るというのは斬新だった。芥川龍之介の蜘蛛の糸は、蜘蛛を助けてあげた男の物語であった。人は悪いことを数限りなくするものだが、中には善いこともすることがある。であれば、これはよい結果になって返ってくるはずである。

田舎では周囲を田圃に囲まれている家が多い。発情期の蛙は相手を求めてよっぴいて鳴く。やかましくて寝られないと嘆く人もおろうが、ロマンス音楽隊合唱をしてくれるのでなぐさめられると褒める人もいる。「げろげおろ、がろげろ」が「(お前の家に)がね(お金)あげに来る」と聞く人もいる。聞き方は自由だ。

自分は若い頃に蛙を助けてやったことがあったので、蛙はそれを忘れず、あんなに一晩鳴いて鳴いて、「あの時は有り難かった。命を助けて貰って有り難かった」とお礼を言い続けているという設定。そんなのを詩にしてあったと思う。

<よいことが重なって重なってわたしが今をよく生きている>という受け取り方がある。もちろんその逆もあろう。<悪いことが重なって重なってわたしが今を悪く生きている> 不本意だがそういう受け取りをする日もあろう。蛙の鳴き声をわたしが今聞いているというのはそのどっちなのだろう。悪の循環なのか、善の循環なのか。そのどっちでもなく乾いているか。

わたしによいことが起こるためのファクター(因子)が縦横斜め上下にずらりと列んで繋がったので、その中心核にいるわたしの今日の幸福や幸運が成り立った。とすれば? あくまでこれは仮定なのだが、もしそれが真実で、それをわたしがその真実を客観的に認め得たとすれば、どうなのだろう。わたしは眼前に広がる春の空をもっと美しく見ることができるに違いない。もっと嬉しく見ることができるに違いない。

春の空をわたしに見せる条件が/すべて整ったのだ/条件は100の100乗個も必要だった/これが一つも欠けないでぴったり揃っていた/わたしはこうやって春の空を見た/すべてのよい条件が/わたしの今日をゴールに据えて/すべてよく働いた/そしてその結果を/わたしは静かに受容した/雲がふんわりふんわり浮いて遊んだ/

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花は咲いているだけでいい

2015年04月20日 15時18分05秒 | Weblog

自利と利他は別の相、別の段階、別のベクトルのように見えるけれど、花を着けたミヤコワスレの静かな姿を見ているとまったく同一だなと思う。花が咲いたことが自利で、しかもそのままが利他になっている。自利も静かだし、利他も静かだ。ここにはあらたまった活動というのは見当たらない。そこで完成している。自利と利他が調和をしている。

己を最高にしてそこで美しい花を咲かせているその姿が見る者(他者)をして、<自分はこれほど美しい花の咲いた世界に生きているのだ>という最高の感動を呼び起こしている。そこで完了をしている。

大乗仏教では、自分が修行をして悟ったことを自己完成としているが、この自利だけでは駄目で、そこから他者に向かって動き出す活動、実践が開かれていなければならないとして、自己満足という停滞を戒めている。衆生教化の活動(これを布教活動とも)こそが衆生を救済に導いて行くとしている。そうしなければ広がりは生まれてこない。発展も見ない。仏陀の悟りは、後続を断たれて、消滅をしてしまいかねない。これもなるほどである。

ミヤコワスレを見ていてその見事な静謐さ、その見事な調和、その見事な自己完成に感動を覚えたのである。消極的すぎる見方だろうが、それを見た者が利他を誘発させられたのである。自らは活動を起こさないで他者の内に活動を起こさしめたのである。

今日のさぶろうは、少しおかしいところがある。そこに咲いているだけでいいのではないか。そこから次なる活動をしなくともいいのではないかという考えに傾いているのである。花は咲いているだけでよく、さぶろうは咲いている花を見ているだけでいい。そこで完了をしている。見るものと見られるものが相互に誘発し合って次々と歓喜の遣り取りを果たして行くことができれば、活動も実践も不必要になってくるのではないか。そういう見方に占領をされてしまっているようなのだ。

 

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拝まれて拝まれて

2015年04月20日 11時52分36秒 | Weblog

わたしが仏様のお話をしているときには、わたしの後ろ、わたしの前、わたしの両隣、わたしの頭上、足下に、もったいなくも、仏様が顕現をされていてくださっています。わたしを守っていてくださっています。後押しをしてくださっています。力を与えてくださっています。わたしはそういう仏様方をひしひしと身に感じながら、仏様にかかわるブログを書いています。

「十方無量の諸仏が百重千重囲繞してよろこび守りたまふ」ということをわたしが実践して証明していることになります。ですからわたしは諸仏の証明者です。奇しくもそういうことになっています。もったいないことです。もったいないことです。でもこれはわたしに限ったことではありません。諸の衆生がこの功徳(利益)に与って生きています。この功徳は諸仏の功徳ですが、わたしたちにそっくり譲り渡しておられます。

心配するなよ心配するなよ。案じるなよ案じるなよ。恐がるなよ恐がるなよ。動揺をしないでいいよ動揺をしないでいいよ。安心していいよ安心していいよ。明るくしていていいよ明るくしていていいよ。喜んでいていいよ喜んでいていいよ。楽しんでいていいよ楽しんでいていいよ。ここは大きな大きな安心に包まれている世界だよ。ここが涅槃界なんだよ、仏の世界だよ。こなふうにわたしの耳元で仏さま方が繰り返し繰り返し囁いていてくださいます。わたしは仏さま方に拝まれてばかりです。

この囁きを聞いてわたしはどんな行動を起こすべきか。仏様に拝まれて拝まれて、さて、わたしは何を発奮すればいいか。どんな活躍をするべきか。おろおろします。戸惑います。

今日は曇り日。わたしはこれからミヤコワスレの株分け作業をします。草丈20cmほどです。頭上にいま花冠をつけています。小さな紫の花冠です。花冠は王位を示しています。この世を王として生きる姿勢をとって鮮烈で溌剌としています。欲しい方にはお分けします。

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わが悪業煩悩は消滅す

2015年04月20日 11時34分03秒 | Weblog

令諸衆生功徳成就(りょうしょうしゅじょうくどくじょうじゅ) 諸の衆生をして(阿弥陀仏の)功徳を成就せしむ    大無量寿経より

ここを蓮如証人は、「されば無始以来作りと作る悪業煩悩を残るところもなく願力不思議を以て消滅す」と御文章に受けておられる。

わたしの所有物の悪業煩悩はわたしに始まったことではない。所有したのはそのずっと前の前の前。阿弥陀仏のご所有は願力不思議。これも現在の所有ではなく、ガンジス川の砂の数ほどの多くの諸仏が五劫の間に練りに練ってその功徳を成就されて、阿弥陀仏に引き継がれて来たもの。この<功徳成就>の中身は<わたしが往生成仏する>ことである。悪業煩悩の自己所有をそっくり手渡して願力不思議と入れ替えてもらうのだ。<成就>は<完了した>ということである。

(わが悪業煩悩は)「消滅す」とはまたなんという清々しい受け取りであろう。

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行く春を惜しむ

2015年04月20日 11時13分51秒 | Weblog

おんなどもおとこどもいてこどもいて どもどもしているここを行く春

春は楽しい。楽しいところへ繰り出してくる人が大勢だ。でもみんな揉み合って揉み合って、雪崩を打つようにいっしょくたんに、どもどもしている。今朝の新聞には磯遊びの貝掘りの写真が出ていた。春が行き、夏が来ている。

<ども(供=連れ=供回り)>を作っていると時間がわいわい叫んで大急ぎで過ぎて行くようだ。季節は深い。季節はいつも新鮮だ。季節は静かだ。人を寄せ付けないように静かだ。であれば、しんみりひとりで行く春を惜しむのは、<おとこども>ではない<おとこ>のする仕事だろう。

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だあれもいない

2015年04月20日 10時48分50秒 | Weblog

地ビールの泡(バブル)やさしき秋の夜 ひゃくねんたったらだあれもいない   俵万智

575の上の句と77の下の句に断絶がありそうなので、読者は修復を急がされる。そこに橋を渡す。するとそこにゴールデン・ゲイト・ブリッジが懸かる。これは連想というブリッジだ。

秋の夜に飲む地ビールのラベルにはモミジの絵が描かれている。空気もやや冷たい。泡もちょっとひんやりする。でも最高の飲み心地だ。酔い痴れる。気の合う友人とは夜が更けてまで楽しい語らいが続く。と思ったら停電だ。一瞬で闇になる。<ひゃくねんたったらだあれもいないぞ> 

彼女のエッセイによるとこの台詞「ひゃくねんたったら・・・」は、病気療養中の友人の台詞だったらしい。病んでいる人だけが死ぬのではない。遅かれ早かれ死地に趣く。百年もたてば、病んでいない人、健康を自慢している人も死んでいて、知らない人ばかりの百年後になっている。ではそこは空白になっているか。そうでもなくて、秋の夜長には地ビールの泡を唇に浮かばせて、3人4人5人してやっぱり楽しそうにもしているのかもしれない。

ここは不思議な居場所だ。舞台だ。俳優が毎日舞台に上がってきて演目を演じているが、次々と俳優が新しくなっていく。ここは不思議な居場所だ。古い俳優はいったい何処に行ってしまったんだろう。舞台だけが相変わらず舞台を続けていて、そこにフットライトやスポットライト、ボーダーライトが照射されて、舞台セットの風景に秋が来て冬が来てまた春が来ている。

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人は人の寿命を何に使うか

2015年04月20日 09時05分19秒 | Weblog

グリム童話に「寿命」という話があるそうです。神様が登場してきます。神様だけでは退屈で寂しいので、お話し相手を造られます。

人間がやってきました。ロバがやってきました。ロバは人間に使われて疲れています。ロバはもうこんな暮らしはこりごりだから、寿命を減らしてくれと神様に訴えます。神様は頷いて18年を減らしてロバを12年の寿命にされました。人間がそれ(ロバが捨てたロバの寿命)を拾います。これで寿命が延びて喜んでいましたが、その12年は老いと病と苦しみという生き物に、ロバのようにこき使われてしまう12年でした。とさ。

* これはその「寿命」のほんの一部の摘まみ食いでその上脚色をしています。

ロバの寿命までを追加して生きていなくともよかったのかもしれませんね。じゃ、聞きますが(自問自答がいいかな)、本来の「人間の寿命」はどんな中身なんでしょうね。どんなことをするための時間なんでしょうね。消去法で行きます。嘘をつくことじゃありませんよね。欺したり脅したり、横取りをしたり損害を負わせたり、殺し合いの戦争をしたりすることでもありませんよね。わたしだけが最上最高の幸福にいること、これでもありませんよね。こうやって次々と消去をしていって最後に残ることって? あなたはそれを何にしておきますか。

 

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なんだかいいことが待っていそうな予感

2015年04月20日 08時17分56秒 | Weblog

おはようさんです。はい、今朝のさぶろうは陽気です。(我が輩に我が輩が接すと雖も、じめじめめそめその陰気くさい、黴臭いのはご免だ)お天気がいいのです。お日様がきらきら光っています。夜中降り続いていた雨がぴたりと止まりました。木の葉の先に露の雫を垂れて、そこがきらきら光っています。きらきらが「わたしを見て」というので、じっと見ています。

庭のクレマチス(別名テッセン)がこの日を待っていたように一斉に花を開きました。純白です。いかにも清浄身という感じがしています。潔癖が過ぎているので、唇をこころもち横に引いてちょっとにっこりするようにと目配せをしてみました。美しすぎると冷たくなります。少しはだから欠損があった方がいいのです。人馴染みし易いのです。

うふ、ふふ。なんだかいいことが待っていそうな予感がします。宝船が我が港に寄港して積んでいた宝を下ろしていくかもしれません。そのときに、お茶とお菓子で接待をするくらいでいいかなあ。霞の空から天使たちが梯子を下ろして天上界のパーテイに招いてくれるかもしれません。だったらわたしは急いで準備をしなければなりませんよ。今日の一日を面白くおかしく過ごすためのラッキーカードが7枚配られて、わたしはそのうちの1枚を手に取る。手にとっても、使い慣れていないカードなので、ついついもじもじしてしまう。あと6枚も今日中に使い切ってしまわなければならないというのに。

春の装いを凝らしたシンデレラがスキップをしながらわたしに会いに来てくれるかもしれません。用心深い彼女は、最近の新型車のように自動停止装置をつけていますから、わたしを障害物扱いして1m手前で急停止します。わたしはおかしくなって笑い出します。これで緊張がほぐれてきます。蜜蜂マーヤよりもやや小さめの花虻がキューピットの役割をします。わたしは今をときめくスケーター羽生選手のように若々しくしてはつらつ元気です。こんな空想に1枚のカードを使いました。なんだかいいことが待っていそうな予感。予感だけでも嬉しいよね。

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