<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

どうせ暇でしょうがないんだし

2015年04月23日 09時08分22秒 | Weblog

おはようございます。みなさん。山鳩さん。

山鳩さんは、朝早くからさぶろうのほんの数メートルの近くまで来て、愛嬌を振りまいて淀川ツツジの藪に乗っかかって遊んでいる。淀川がきれいだからね。ごーぐるぐるぐう、ほっほっほと喉笛を吹いている。お天気がいいのでピクニックにでもやって来て、そこでこのきれいな淀川が目にとまって、寄り道をしたのかな。でも、ひとりじゃつまらないよね。いっしょについてきてくれる彼女がいないのかな。こういうところはさぶろうみたいだな。

(ここからは曲がり道、木の下陰の細道になる)でもね、彼女がついてきてくれても、それで楽しいばかりじゃないよね。サービスしなくちゃならないし、美人だって褒めてやらなくちゃならないし、気を遣うからね。

(ますます影が濃くなる小径になる)総じて、気持ちを合わせてぴったり寄り添ってくれる彼女なんて、そうそういないしね。みんなこの頃は女性上位だから、男性に寄り添うなんて沽券に関わるんだろうね。(沽券:売り渡しの証文、売値、転じて値打ち、品位、体面)寄り添うためには自分を小さくして相手を大きくさせてあげなくちゃならないよ。これも気苦労だろうし。あれれ、余計なこと言っちゃった。ほんとに大きさを感じる男性もいるから、これは失言だろう。

さぶろうはこうやって自分に自信がないので(実際のところ、パワーがない)すぐに拗ねてかかる。悪い癖だ。いっしょにいたいのに、一人でいる。みんなと一緒に行動すれば楽しいのに、引いて、引き下がって、しょんぼりしている。一緒に楽しもうとする勇気が起こってこないのだ。

新聞に、珍しいナンジャモンジャの木が一面白い花を着けている写真が載っていた。近く(近くといっても4kmくらいはありそう)のお寺の境内に。これからそこへ行ってみるか。ふらりと。どうせ暇でしようがないんだし。

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儚いことに変わりはない

2015年04月22日 20時10分21秒 | Weblog

宝籤に当たったらよかろう。そしたらどうしよう。大金が舞い込んだら? 舞い込んだことがないので、その後は見当がつかない。

大金持ちになったらあれこれもしてみたい。まず賭け事をしてみたい。おもいっきり有り金をはたいて、潔さを己に見せてみたい。そしてまた元の木阿弥に戻って、しょんぼり夕暮れの空を仰いでいる。

此処掘れワンワンの昔話は意外性があってわくわくさせられる。掘ったら大判小判がざっくざく出て来て、老爺はそこであえなく腰を抜かしてしまう。この夢物語はそれでお痛快である。

シンドバットも千夜一夜も笠地蔵もわらしべ長者も、成金の夢をかなえてくれる。なってみたいという願望を果たした主人公に身を重ねて己の貧乏を慰撫してみる。それでいいのだ。現実でなくてもいいのだ。現実も空想も、儚いことには変わりがないのだから。

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己の正義と相手の正義が重ならない場合

2015年04月22日 19時42分15秒 | Weblog

人のご機嫌をとるのはよそう。疲れる。じゃ、どうするか。しばらく一人でいる。ご機嫌を取って喜ばれるとは限らない。迷惑ということだってある。まるで波長が合わないことに付き合わされた相手だって、同じようにへとへとになったかもしれない。よろこばそうとしたことが、却って苦しめたことになったという場合もある。ある。相手も苦しむ。苦しませた相手にすまなく思う。

己の考えている正義が相手にとっても正義であるとは限らない。相手の利益になるはずだと思ってやったことが、不利益になった場合もある。こちらとそちらの思惑がぴったり合うとは、事前には分からない。お仕着せの独善ほどつまらないものはない。ああ、つまらないと欠伸をされるのがおちである。

午後から大興禅寺のツツジを見に行った。ツツジも己の正義を立てない。わたしも立てない。行くのは40年ぶりだった。駐車場からが遠くて、しかも迂回路を迂回して山坂を上がって行った。脹ら脛の後ろと前がたちまち硬直してしまった。杖にしがみつきながら、休み休みしながら上った。本堂の後ろ一帯がツツジ園になっていたが、そこもまた階段が続いていて、結局は入園を諦め、本堂までの坂道の、両サイドの開花を見てよしとした。

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橘かおる朝風に

2015年04月22日 13時59分15秒 | Weblog

甍の波と雲の波/重なる波の中空を/橘かおる朝風に/高く泳ぐや鯉のぼり  作詞作曲未詳「鯉のぼり」 大正2年文部省唱歌 

橘は柑橘類の総称。蜜柑の花ととってよかろう。花は甘い匂いがする。遠くまでする。甍は寺の甍だろうか。寺がそう建て込んでいるわけではないだろうから、ここは普通の民家の屋根瓦でもよさそうだ。これに雲までが波打っている。五月は空が美しい。ここへ男の子の誕生を知らせる鯉のぼりが颯爽と泳ぎ出す。鯉は出世魚。吉兆の現れを予言している。

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鼻は下を向いていた

2015年04月22日 07時13分05秒 | Weblog

妙好人(みょうこうにん)因幡(現在の鳥取県)の源左(本名は足利喜三郎 1842~1930)の口癖は「ようこそようこそ」「さてもさても」であったらしい。「ようこそこの源左を親様(阿弥陀仏)が助けてくれると誓って下さった」「それを思うとなんともなんとも有り難くてならん」という述懐である。妙好人とは浄土真宗の信を貫いた在俗の人のことである。貧乏且つ無学の人が多い。

ある日、突然の大雨に遭っての帰り、願正寺の住職に「えらいめにあったのう」と声をかけられると、源左は即座に「鼻が下を向いてついているで有り難い」と返した。なるほど、鼻が上を向いてついていたら、雨が流れ込むところであった。そうじゃなくてすんだというところにすぐさま阿弥陀仏のお慈悲を受け取れるのだ。

感無量寿経に「念仏する者は、まさにしるべし、この人は人中の分陀利華(プンダリーケ 白蓮華のこと)なり」の字句がある。親鸞聖人の「顕浄土真実教行証文類」にはこうある。「分陀利といふは、人中の好華と名づく。また希有華と名づく。また人中の上上華と名づく。また人中の妙好華と名づく。念仏の人はすなわちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の最勝人なり」

「正信偈」にはこうある。「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏は広大勝解の人とのたまへり。この人を分陀利華と名づく」 分陀利華は別名、淤泥華(おでいげ)とも。煩悩悪業の泥中に生活して、ついには仏の正覚の白蓮華を咲かせる人を褒め讃えてこう呼んだのである。

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わたしはいつもこころの声を聞いてるわ

2015年04月22日 05時52分26秒 | Weblog

おはようございます。夜明けです。障子戸(わたしの書斎は障子戸です)を開けて外を見ています。風がないようです。高くてほっそりしたリラの花枝も微動だにしていません。お天気はいいようです。

平原綾香の「ジュピター」の曲とホルストの「惑星」を昨夜は真夜中に起きて聞きました。ホルストの「惑星」はこれまでも何度も聞いて、その度に厳粛な気分になります。平原綾香の「ジュピター」は東日本大震災の後で大ヒットしていたころにわたしも聞きました。昨日はこれを久しぶりにしみじみ聞きました。歌詞(吉元由美作詞)もいいし、彼女の熱唱もいいですね。

今日は看護学校へ行きます。ここで新入生に一つの講座を受け持ちます。話の途中、真ん中くらいに休憩を入れたところで、この歌「ジュピター」をかけてみようかな。タブレットを持参して行きます。

♪ Every day I listen to my heart /一人じゃない/深い胸の奥でつながってる・・・Every day I listen to my heart /ひとりじゃない/この宇宙の(そら)の御胸に抱かれて・・・悲しいことは/自分を信じてあげられないこと・・・愛を学ぶために/孤独があるなら/意味のないことなど/起こりはしない・・・私たちは誰も/ひとりじゃない/ありのままでずっと/愛されてる・・・♪ 

” わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、ひとりじゃないことがわかるの。わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、この宇宙(そら)のみ胸に抱かれていることがわかるの。わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、私たちは誰もありのままで愛されていることがわかるの。わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、愛を学ぶために孤独があることがわかるの。”  じーんと来てしまった。 

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よそごとではない

2015年04月21日 20時26分47秒 | Weblog

こんばんは。夕食が終わりました。今夜の菜は蕗で、あっさりと煮付けてありました。わたしは芋焼酎を飲んでいい気持ちになっています。

彼の仏を何の故に阿弥陀と号するや。彼の仏の光明は無量にして、十方の国を照らすに、障礙するところなし。この故に号して阿弥陀と為す。又、彼の仏の寿命と其の人民(の寿命)も無量無辺にして、阿僧祇劫なり、故に阿弥陀と号す。   「仏説阿弥陀経」より

今夜は此処を取り上げて考えてみます。

何故、阿弥陀仏と言われるのかを説いてあります。それは何故か。1,放たれている光が無量だからである。2,放たれている光が十方の国々を照らしているからである。3,仏の光が何ものにも妨げられないからである。4,仏の寿命が無量寿だからである。5,極楽浄土に往生した人の寿命が無量寿だからである。

阿弥陀仏は、サンスクリット語ではアミターバ(無量寿)とアミターユス(無量光)から成っている。だから無量寿仏とも無量光仏とも呼ばれている。共通しているのは無量、つまり量りしれないということである。切断がないということである。(われわれの)思議を超えているということである。

切断がないということはどういうことであるか。永遠と言うことである。永遠に向上をしていくと言うことである。向上を目指して、止まっていないということである。時間的にも空間的にも広がりがあるということである。仏陀の本質は慈悲と智慧であるから、慈悲も智慧も無限で無制限で、しかもその上に無条件であるということである。

阿弥陀仏は観念ではない。顕現である。示現である。わたしに顕現されているのである。わたしに示現されているのである。よそごとではない。わたしが阿弥陀仏を生きているということである。光明が十方を照らしているのだ。しかも障礙なく、このわたしにも届いているのだ。光明も寿命も、わたしに届いてわたしをを無量にしているのだ。

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そりゃそれでいい

2015年04月21日 13時49分34秒 | Weblog

草取りをしました。日中は暑くなりました。右手で小さな農器具を握っての作業ですので、右手がやたらと酷使されます。しばらく休憩を入れました。

庭の金木犀の成長が著しいです。新しい幹がどんどん空を目指して高くなっています。やわらかい葉が縦横に伸びて横幅もふっくらして来ました。我が世の春を謳歌するという感じです。茂みを切らないと、影が大きくなって周辺の草花が日光不足になってしまいます。切るとなると、しかし、これは大仕事、重労働です。老人の手には負えません。溜息をつきます。

老人になると、「そりゃそれでいい」という解決法を多用するようになった。つまり放置しておこうというのである。手が着かなかったら、荒れる。でも、荒れるに任せるしかないのである。よしんばその時に解決したとしても、また元に戻ることもあるからである。世の中の変化に一つ一つ付き合ってはいられなくなったのだ。

 

 

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神様とお話がしたいなあ

2015年04月21日 11時21分01秒 | Weblog

わたしは神様とお話がしたいのです。人間と話をするのが嫌いだというのではありません。ここは人間界です。神様の国に行ってからそこでお話をしても遅くはないのでしょうが、ここでいまお話がしたいのです。

秘密事項を聞きだしたいわけではありません。むしろその反対です。公になっていることでいいのです。この現実世界でのありきたりでけっこうです。その方がいいのです。神様と共通の話題であることがわたしを勇気づけます。なるほどなるほどとわたしは確信を広げていけます。

わたしは神様とお話がしたいのです。神様の情報を人より先にキャッチしたいわけではありません。日常会話の「お天気がいいですね」「お変わりありませんか」でいいのです。直接に神様とは会話ができないのであれば、エンジェルと話をするという方法もあります。エンジェルは神様の使いです。代行業務をなさいます。

で、それが実現したら? それを考えてわたしはわくわくしているようです。神様もエンジェルも光ですから、眩しくて眩しくてわたしには見えないかもしれません。その輝きそのまばゆさを向こうにしてわたしは椅子に座ります。向かい合います。わたしは光にすっぽりと包み込まれてしまいます。「おはようございます」「やあ、おはよう」話が始まります。わたしのこころの温度が徐々に徐々に上がっていきわたしの全体はぽかぽかに温まっていきます。

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わたしの主張が無用になる

2015年04月21日 10時35分05秒 | Weblog

成功者は口を開くと「おれはこうした、おれがそうした」と自慢話をします。したくてしようがないようです。自分の力でそうしたと強く信じているようです。聞いてみるとたしかにその人の力に由るところが大きいようです。偉いなあ、強いなあと感心します。自他共に認めていて自信に溢れています。輝いています。彼は成功者です。

わたしにはそれがないので自慢ができません。いいなあ、成功者はいいなあ、と羨みます。いじけます。いじけている自分を慰めたり励ましたりして忙しくなります。「おれがこうした、それでこうなった。おれは、おれはおれは・・・」と矢継ぎ早に「おれ」が出て来る人に出会います。迫力に押されます。わたしにはその迫力がありません。どうしてなんだろうなあ、と悲しくなります。

でもそれ以上もあります。それ以上というのは、わたしの小ささを超えているもの、わたしの無力さを補ってあまりあるもの、わたしの弱さ悲しさを払拭してくれているもの、という意味です。そういうふうにまわりを見回してみると「それ以上」がたくさん見つかります。しかもその「それ以上」は無制限で無限大に広がっています。

たとえば山があります。若葉の山があります。光を浴びて輝いています。それをわたしが見ています。元気をもらって、わたしはにこにこしています。すると山がわたしの「それ以上」に早変わりします。すると、わたしがわたしの主張をして「おれがおれが・・・」を言い出す理由がなくなってしまいます。

ときどきこうやってわたしは「それ以上」の存在に癒やされていますが、その種の天地交流事業などはあまりにも弱腰外交に過ぎるかもしれません。

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