聖書を読んで黙想していると、本筋とは違っていろいろなことも考えます。人によっては「雑念」と読んだりするんでしょうが、これもまた自分の内側から出てくるもので、「雑」に扱ってはいけない、自分をよく知れるきっかけです。
マタイ19章16-22節の話ですが、現代でたくさんの財産を持っているというと、宝石、金塊は別にして、「持っている」内容は大半が紙類ではないかと思います。金融機関に預金している通帳類、紙幣の束やその他有価証券でしょう。かつては紙のお金そのものが存在しなかったので、財産というのはほんとにかさばる家具装飾品類だったのでしょうか。それを全部売り払って換金せよというわけです。もちろん金貨に換えたらそれを貧しい人にあげなさい、と。
この話は、イエスに究極の指導を受けて、ついにできないと諦めて去っていった青年のことで、話の展開として、そこに注目するようになっているようです。けれども、最初から読み直してみると、最初は青年の問いから始まり、イエスは普通の指導をしています。いきなり極端なことを言ったりしていません。
そんな事なら全部守っているのに、まだわたしに欠けていることがあるのですかと問い続けるから、究極の指導が来たのかも知れません。
「殺すな…」という「掟」を本当に守っているのかどうか、わたしたちも時々自らに問う必要があると思います。嫌いな人を心の中で何度ひっぱたいたり蹴ったり、あっさり否定したり、時には自分の心の世界から亡き者にしたり、人を思い通りにしようとしたり、嘘をついたり、大切なはずの人を悲しませたり、興味のない人を簡単に見捨てたり…していることでしょう。これらをみな守っていますと、とても言えない日常の心の闇です。究極の福音的勧告はとても大切ですけれど、まだまだ基本的なところでモタついていて、遠い道程でもあります。
そんな“わたし”をも受け止めてくださる主に感謝と信頼を持って、この一日を過ごせますように。
★以下、当該箇所★
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。