今日は洗礼者聖ヨハネの殉教を記念する日で、マルコ福音書6章17節からの当該箇所が今日の福音になっています。5世紀から記念されるようになり、6世紀頃にはすでに、「洗礼者聖ヨハネの受難(斬首)」として教会で広く祝われていたそうです(『毎日の読書』より)。
斬首といえば先般アメリカ人ジャーナリストが残酷な最期を遂げましたが、人の尊厳と存在そのものを決定的に否定するしるしですね。日本でも、戦国時代どころか太平洋戦争の間も、兵士の首をはねるという処刑が行われていたらしいですから、人類共通の発想として、決定的に息の根を止めるには最も確実だと考えられていたのでしょう。
しかし、紛争地域での地雷敷設や平和なはずの国でのさまざまな虐待などで、苦しめながらジワジワいのちを奪っていくのも、斬首と変わらない他者の命の拒否ですね。
で、わたしたちの日常でも、こころの中で、あるいは巧みなことばで、同様に他者を“処刑”しないように、見張っていたいものです。