楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

聖ベルナルドのことから…

2014-08-20 19:45:00 | Sisterのねごと


今日は聖ベルナルド修道院長教会博士の記念日です。聖ベルナデッタの名前は、この聖人の名前「ベルナルド(Bernard)」に縮小辞「-ette」がついたものです。ちなみに、セントバーナードという犬もこの聖人の名前(英語読み)から来ています。スイスの山奥にあった同名の修道院で、雪山救助犬として飼われていたとか。

11世紀初頭にフランスで生まれ、クレルヴォーの修道院に入り、後に、大院長として指導と模範によって修道士たちを完徳の道へと進ませたそうです。

人を育てるというイメージは、先生や親、何かの責任を負っている人たちの役割のように思いがちですが、今この世に生きている地上の人はすべて、次世代やその次の世代を育てる使命を帯びています。ことばや説教、時々体罰(!?)だけでは人は育ちませんね。

背中で教えるという表現があるように、共に生きる中でこころが触れ合い、共鳴し合うとき、年齢や考えの相違には関係なく、その出会いから影響を受けていくようです。それを「学ぶ」というのでしょうか。

知識や処世術ではなく、真理と向き合う真摯な姿勢こそ、身に付けてゆきたいものです。

この聖人はきっと、そのような「背中」をしていたのでしょうか。



星を眺め、隣人を眺め、自分を眺めて

2014-08-19 12:04:00 | Sisterのねごと


時々、人がこんなことを言っているから言動に注意した方がいいかもなどと親しい人から助言してもらうと、「誰がそんなことを言ってるの!?」と犯人捜しに集中してしまう人がいます。

その人と言った人とを喧嘩させるようなことになりますから、答えられませんよね。

誰でもいいから、とにかく人の目にはそう映っているのだということがわかって、自分を客観的に見れるでしょうと言うのですが、そう簡単ではなさそうです。

「誰が」より「何を」を受け止める勇気と謙虚さがほしいですね。



時々星空を見上げて、宇宙の壮大さからはおおよそかけ離れた自分の住む小さな世界のゴタゴタを忘れることが大切です。

ちょっとリセットできたら、自分が地に足を付けて生きていかないといけないのは、この惑星の上の、この国の中の、この地域での、こうした具体的な顔を持った人々との関わりですから、必要に応じて適度な距離を保つ智恵も持ちながら、今日という一日を歩いていきたいものです。

ホームページ更新のお知らせ

2014-08-18 15:07:00 | ホームページ関係
ホームページ「恩学堂縁習室」の「徒然に思うこと」に「人の心のダークサイド(1)」をアップしました。

最近映画や小説で人のこころの闇の部分を描写しようとした作品が気になります。自分の中にも確かに広がる闇の部分と、どう向かい合っていけばよいのかなど、何回かに分けて思いつくまま書いていきたいと思います。

イエスに従うって?…ちょっと聖書から

2014-08-18 10:41:00 | Sisterのねごと


聖書を読んで黙想していると、本筋とは違っていろいろなことも考えます。人によっては「雑念」と読んだりするんでしょうが、これもまた自分の内側から出てくるもので、「雑」に扱ってはいけない、自分をよく知れるきっかけです。

マタイ19章16-22節の話ですが、現代でたくさんの財産を持っているというと、宝石、金塊は別にして、「持っている」内容は大半が紙類ではないかと思います。金融機関に預金している通帳類、紙幣の束やその他有価証券でしょう。かつては紙のお金そのものが存在しなかったので、財産というのはほんとにかさばる家具装飾品類だったのでしょうか。それを全部売り払って換金せよというわけです。もちろん金貨に換えたらそれを貧しい人にあげなさい、と。

この話は、イエスに究極の指導を受けて、ついにできないと諦めて去っていった青年のことで、話の展開として、そこに注目するようになっているようです。けれども、最初から読み直してみると、最初は青年の問いから始まり、イエスは普通の指導をしています。いきなり極端なことを言ったりしていません。

そんな事なら全部守っているのに、まだわたしに欠けていることがあるのですかと問い続けるから、究極の指導が来たのかも知れません。

「殺すな…」という「掟」を本当に守っているのかどうか、わたしたちも時々自らに問う必要があると思います。嫌いな人を心の中で何度ひっぱたいたり蹴ったり、あっさり否定したり、時には自分の心の世界から亡き者にしたり、人を思い通りにしようとしたり、嘘をついたり、大切なはずの人を悲しませたり、興味のない人を簡単に見捨てたり…していることでしょう。これらをみな守っていますと、とても言えない日常の心の闇です。究極の福音的勧告はとても大切ですけれど、まだまだ基本的なところでモタついていて、遠い道程でもあります。

そんな“わたし”をも受け止めてくださる主に感謝と信頼を持って、この一日を過ごせますように。



★以下、当該箇所★

さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

8月15日…

2014-08-15 11:05:00 | Sisterのねごと


日本では太平洋戦争の終結の日である今日、世界のカトリック教会では「聖母の被昇天」をお祝いします。

5世紀からすでに聖母マリアの記念日として祝われていたこの日は、8世紀に入ってマリアの被昇天を記念する日となっていきました。キリスト教の歴史の中で由緒あるお祝い日の一つです。

同じく聖母マリアをお祝いする12月8日に始まった日米の戦争、多くの人の血が流れた悲惨な年月でしたが、涙しながら見守り続けた聖母が、そして神さまが、いらっしゃったのでしょう。

人間の自由意志の前には神は無力と言いますが、人とは違う時の刻みの中で、忍耐強くわたしたちの回心を待っていてくださることに感謝します。

戦争というのは、どこからともなく始まるのではなく、今日の“わたし”が目の前の“誰か”と対峙するところから始まります。そんな事を思いながら… 平和のために祈ります。