引き出しの奥に埋まっていた。34年前の記憶とともに。
学生時代のものはあらかた捨ててしまった。家を建て直すときに,高校・大学の教科書・ノート類は全部捨てた。
だが,講義要項と学生便覧,さらには教育実習ノート(活動報告書)が残っていた。いや,思い出したのだ。
さっそく開いてみよう。
4/23は教育実習説明会だったのか。バイトを終えて関越を高速で向かった記憶がある。
4年次は週に2コマのゼミナールが必須だっただけで,それが火曜日11:00~15:00。それ以外は,実家の電気店アルバイトだった。
個人的には「実家から金貰ってどうするんだ」という思いがあり,近所の出版社でのアルバイトを続けたかったが,それを辞めて実家を手伝うことになった。
週4日のバイト生活だったと思う。火曜日・金曜日(これは釣り研究会の部活)に大学に行き,週イチで水郷に通い始めていたから,そう,たしかに週4日のバイトだった。
それよりも,専門教育科目の内容がいまでも頭に浮かんでくる。
お亡くなりになった先生も多くなったはず。
これだよ,代数学同演習。大学に入って一番感動した授業だった。
この講義の前評判は,なかなか単位をくれないと・わかりにくいとのことだったが,3年次に自分と友人,合計10名足らず(定員120ぐらいだったのに)が毎週マジメに授業を受けていた。
その理由は,講義冒頭で「-1×-1=1の証明をやります」という実に「数学的に」美しい話だったのだ。これが出来たら大学に行った価値があると思い,マジメに授業を受け,「群・環・体」をいつもイマジネーションしながら,毎週のように先生には質問をしたし,友人達とも帰宅時の電車でも議論していた。
そして,後期の11月頃にようやく「ヤッタゼ」と「-1×-1=1の証明」が出来たのだった。単位認定が厳しいという教授だったが,毎週最前列で質問しまくり,けして寝ない(面白いので寝ない)まじめな生徒だった(これは自慢できる)ので,結局A判定をもらった記録がある。
この先生はわかりやすいようで判定に厳しかったかも。
まったく逆に,自分に「解析学の才」がないことを痛感させてくれたのがこの先生。非常に懇切丁寧に,何度も解説してくれるのだが,自分は理解が進まない。理解が半端だと前に進めないからかなり苦労した。
それでも,やはり最前列かつ毎週寝ない出席だったし,あざとく「オズマと申します!」なんて名前を売って(10名足らずではあったからみんな仲良く名乗っていた),単位はB判定だった。ちなみに,C判定がギリギリセーフの単位認定である。
『数学ゴールデン』を読むと,この学生時代を思い出すのである。高校生のときに「数学科進学なんて,教師しか職業ないぞ」と言われたが「就職のために勉学を選びません」とキッパリ高校教師や補習塾の先生に反論して受験した。
なにより,学費を出してくれた両親に感謝である。この貴重な4年間の体験は,その後社会人になってもずっと活かされた。いや,いまでも「仕事なんて,結局因数分解じゃないか」と考えてしまうし,「なんとかして同類項を探そう」なんて口癖になっている。
教育の無償化は「やる気のある生徒」には意味があるだろうが,そうでないなら無意味でしかない。自分はマジメに勉強していたので無利子の奨学金を月3万円借りることが出来たが,その返済を当然義務と感じて仕事を頑張った。お金にはそういう面もあるということだ。
なお,教育実習活動報告書はあまりにも稚拙なので公開できない。稚拙というレベルどころか「20歳そこそこの学生くんだり」が,まあ偉そうに書いていた。これで単位がもらえたから不思議だが,当時問題にした「教育自習費用」という名の2万円自己負担(1万は大学,1万は高校)に激しい憤りを書いていたのが,やはり自分なのかと思ってしまった。
数学は楽しいし,役立つっすヨ!