理由は簡単である。「維持ができなくなったから」だ。オズマの最終処分理由である。
ベアリングの代替品がない・フロントギアは何回も脱着したためガタガタ、などなど、もはや(過去の)「自転車整備士(自称)」にとっては、修復不可能となったのである。
購入したのは大学入学同時。まだクルマの免許もなく、移動手段といえば自転車、という頃である。カタログの通り、75800円が定価である。いま考えると、すべてが「メイドインジャパン」の時代であった。
オズマは当時でも人気下火だった「ランドナー」であるこのユーラシアをなぜ買ったのか? それもなけなしのお年玉貯金すべてを崩してまで。
どこにでも行ける、そう思ったからだ。輪行(りんこう;自転車を少しばらして袋に入れて電車などで運ぶ)ができるし、という理由だった。
最初で最後のロングツーリングは、東京から水戸まで。大学1年の夏休み、水戸街道を朝4時から走った。そして着いたのが12時30分ぐらいだったのをよく覚えている。
オズマは、自転車で大事故を3回ぐらい起こしているので、絶対にバイクには乗りたくなかった。それは自分の腕の未熟さ=死、を意味するからだ。だからこの自転車に可能性をかけた。
奥多摩駅までの輪行もよく覚えている。3月18日だった記憶もある。何より辛かったのが、駅から奥多摩湖までの上り坂。途中で降りそうになったが、18歳の若者にはなんとかなった。そして、その代わりの帰路のダウンヒル。バイクさえ抜くようなスピードで恐怖を感じたものだ。
購入時に、シマノ「デオーレXT」という、MTB用のブレーキに変えてより強力なストッピングパワーを作ったのはよかったが、急ブレーキの度にタイヤがスリップした。タイヤは、WOタイヤでありながら素手で交換してしまうほどだったが、いま同じ事をやれと言われてもできないだろう。
そしてクルマの免許を取得するとやはり遠のいた。自然に。それでも1年に1回フルオーバーホールをしていたので錆も出ず、かなり良好な状態だった。カバーもかけていたしね。
だが、あれから20年以上が経過した。代替部品はこの自転車を購入したお店でも用意できなかった。『サイクルスポーツ』がマイナー雑誌からメジャー雑誌になってしまう時代の変化だものネ。
そして決意である。600円の粗大ゴミとして処分された。「Combatstick」のステッカーをつけた、自転車と釣りが好きだった少年の思い出はついに消えたのである。
それでもまだ自転車は持っている。「Dahon」というブランドの折りたたみ自転車だ。しかし、購入したものの、数回しか乗っていない。工具もユーラシア時代のものではダメだ。
メタボ解消のために自転車は有効だというが、休日が少なくなったいま、どうしたものか....。