毎日新聞7月29日付のコラム「余録」のテーマはこのところ被害の目立つ豪雨と積乱雲です。積乱雲の説明に、お天気キャスターの倉嶋厚さんの本から引用しています。
『濃密な積乱雲の1立方メートルに浮かぶ雲粒の水量は5グラムという。雲の大きさを半径5キロ、高さ10キロの円筒形とすれば宙に浮かんでいる水量は131万トンになる(「季節の366日話題事典」東京堂出版)。どんな大軍勢も及ばない質量であろう』
私はこの131万トンが少なすぎるように感じ、計算をしてみたところ392.5万トンになりました。約3倍の差があります。円筒の容積に5グラムを乗じるだけで、小学生にでもできる計算です。
131万トンが半径5キロの範囲に降れば雨量は平均16.7mmにしかなりません。実際はこれの3倍以上になり、時間雨量100mmということもあり得ます。1立方メートルの空気は5グラムの水滴だけでなくその数倍の量の水蒸気を含んでいて、上昇気流による温度低下によって水蒸気が水になるからです。
131万トンはどんな大軍勢も及ばない質量、とありますが、これもおかしいです。大規模な艦隊ならこれに匹敵します。比喩だとしても、軍勢と重さを比べるアイディアはちょっと論理性に問題があるように思います。
コラムにあまり堅苦しく注文をつけるのは野暮かもしれません。また揚げ足取りといわれるかもしれません。しかし新聞記事に数学的な考えが足りないことはよく見られることで、この例はその象徴という意味があると考えます。確率や統計を理解する人がメディアにもう少し多ければ、BSE問題や食品の安全性に関する報道はもっと違った、より冷静なものになっていたと思われます。
このコラムからは数に対するセンスの欠如を感じます。倉嶋氏の著書からの引用であることは少し同情できますが、それは一方でお天気キャスターという権威を無批判に信じ、そのまま読者に伝えるという安易さを表します。これらはコラムの筆者だけでなく、チェック機能という新聞社の重要な能力の問題でもあります。
発電所などプラント、車両などの設計・製作は、僅かなミスが大事故につながるので細心の注意が要求されます。それに対しメディアの世界は、朝日新聞「素粒子」の「死に神」発言のように、余程の大失敗でない限り指弾されることはありません。そのことが安易な記事につながっているように思います。
1000万人(推定到達読者数)とされる読者は毎日新聞の権威を信頼(誤解?)しているわけで、間違った記事の影響は大変大きいものになります。技術的なミスによる事故は因果関係も明確であることが多く、当事者は責任を追求されます。しかし不適切な記事の影響は広く分散され、因果関係も明確でないことが多く、責任が顕在化することはほとんどありません。この辺がメディア稼業の気楽さなのでしょう。
事故や不祥事を起こした当事者に対する、完全を当然とするメディアの容赦ない態度とメディア自身のお仕事ぶりの間にずいぶんアンバランスなものを感じてしまいます。
『濃密な積乱雲の1立方メートルに浮かぶ雲粒の水量は5グラムという。雲の大きさを半径5キロ、高さ10キロの円筒形とすれば宙に浮かんでいる水量は131万トンになる(「季節の366日話題事典」東京堂出版)。どんな大軍勢も及ばない質量であろう』
私はこの131万トンが少なすぎるように感じ、計算をしてみたところ392.5万トンになりました。約3倍の差があります。円筒の容積に5グラムを乗じるだけで、小学生にでもできる計算です。
131万トンが半径5キロの範囲に降れば雨量は平均16.7mmにしかなりません。実際はこれの3倍以上になり、時間雨量100mmということもあり得ます。1立方メートルの空気は5グラムの水滴だけでなくその数倍の量の水蒸気を含んでいて、上昇気流による温度低下によって水蒸気が水になるからです。
131万トンはどんな大軍勢も及ばない質量、とありますが、これもおかしいです。大規模な艦隊ならこれに匹敵します。比喩だとしても、軍勢と重さを比べるアイディアはちょっと論理性に問題があるように思います。
コラムにあまり堅苦しく注文をつけるのは野暮かもしれません。また揚げ足取りといわれるかもしれません。しかし新聞記事に数学的な考えが足りないことはよく見られることで、この例はその象徴という意味があると考えます。確率や統計を理解する人がメディアにもう少し多ければ、BSE問題や食品の安全性に関する報道はもっと違った、より冷静なものになっていたと思われます。
このコラムからは数に対するセンスの欠如を感じます。倉嶋氏の著書からの引用であることは少し同情できますが、それは一方でお天気キャスターという権威を無批判に信じ、そのまま読者に伝えるという安易さを表します。これらはコラムの筆者だけでなく、チェック機能という新聞社の重要な能力の問題でもあります。
発電所などプラント、車両などの設計・製作は、僅かなミスが大事故につながるので細心の注意が要求されます。それに対しメディアの世界は、朝日新聞「素粒子」の「死に神」発言のように、余程の大失敗でない限り指弾されることはありません。そのことが安易な記事につながっているように思います。
1000万人(推定到達読者数)とされる読者は毎日新聞の権威を信頼(誤解?)しているわけで、間違った記事の影響は大変大きいものになります。技術的なミスによる事故は因果関係も明確であることが多く、当事者は責任を追求されます。しかし不適切な記事の影響は広く分散され、因果関係も明確でないことが多く、責任が顕在化することはほとんどありません。この辺がメディア稼業の気楽さなのでしょう。
事故や不祥事を起こした当事者に対する、完全を当然とするメディアの容赦ない態度とメディア自身のお仕事ぶりの間にずいぶんアンバランスなものを感じてしまいます。