「"観客型民主主義"が医療を破壊する」と題する舛添要一厚生労働大臣の小論が中央公論9月号に載っています(拙記事のテーマはこの一部を拝借しました)。舛添大臣はここで「マスコミに袋叩きにあい、大幅な見直しを迫られた」後期高齢者医療制度について説明を試みます。
この中の『「観客型民主主義」を改めよ!』という節では、やや八つ当たり気味ながら興味ある見方が示されているので、一部を引用します。
『報道側だけに問題があるわけではない。テレビでみのもんた氏や古舘伊知郎氏が政府や役所を手厳しく追及し、怒っている姿を見て喝采しているだけの国民にも問題がある。こういう無責任な国民のありようは「観客型民主主義」と言えばわかりやすいだろうか』
さらに軽症者の救急車利用などの例を挙げ、
『医療費を無駄にしているのは自分自身であるという視点が欠落してはいないか』
『今の日本では、自分が汗をかくことによって日本が良くなる-という原則が忘れられてはいないか』、述べます。
そして対照的な例として、兵庫県のケースが紹介されます。これは母親達が「県立柏原病院の小児科を守る会」を結成し、不急の受診を控えることで、地域の小児医療を大きく改善した例です。ここでは母親達は従来の受身一方ではなく、当事者として行動しています。
まあこんな調子で国民の側に自覚を求める内容です。勇気ある本音の発言であり、主張されていることは納得できるのですが、政治家らしくない正直な発言だけに、部分的・恣意的な引用によって、氏にとって不本意な批判がなされることも想定されます。
「観客型民主主義」とは大変うまい表現です。私はこれを国民の「当事者意識の欠如」とほぼ同義だと解釈しています。つまり、一人ひとりが社会の成員であり、社会での役割を担わなければならないという意識の欠如であります。思い出したのはケネディ大統領の就任演説(1961)の有名な一節です(当選前ならとても言えないことですが)。
「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」
これは国民に対し、国家の成員としての役割を求めたものです。半世紀前の米大統領の訴えは、舛添氏が「観客型民主主義」として批判し、国民に求めたことと大変よく似ています。
舛添氏はどちらかというと「観客型民主主義」の主体である国民に目を向けておられますが、私はその国民に強い影響を与えたテレビに、より注目したいと思います。NHKの国民生活時間調査によると、日本人のテレビ視聴時間1日平均約4時間だそうで、その影響力は他を圧倒します。
民放は視聴者に視てもらうことが何より大事ですから、耳ざわりのよいことを並べます(なぜかNHKも含め)。視聴者に反省を促したり視聴者を批判するようなことは決してしません。国民の権利を強調しても義務を強調することはありません。視聴者に嫌われることは売上げの低下を意味するからです。事件や事故、社会問題が生じたとき、悪者にされるのは一般視聴者以外の特殊な誰かであり、それは企業経営者であったり、官僚や政治家であったりします。
視聴者は常に観客、つまりお客様として扱われますから、不愉快にさせられることは決してありません。「消費者は王様」と言う言葉も同じ背景から出たものでしょう。毎日4時間、お客様扱いを受け続けたことが無責任「観客型民主主義」の原因のひとつとなった可能性があるように思います。むろん、原因はそれだけでなく、義務よりも権利を強調してきた戦後の教育にも求められるでしょう。
「観客型民主主義」の原因のひとつをテレビの商業主義だと考える確証があるわけではありません。仮説というより思いつきのレベルであり、それを論証する手段も思い浮かびません。ただ王様 ・お客様と毎日おだてられていては、まともな考えの人間にならないことは恐らく間違いなかろうと思う次第であります。
(参考 医療崩壊を推進するマスコミ報道)
この中の『「観客型民主主義」を改めよ!』という節では、やや八つ当たり気味ながら興味ある見方が示されているので、一部を引用します。
『報道側だけに問題があるわけではない。テレビでみのもんた氏や古舘伊知郎氏が政府や役所を手厳しく追及し、怒っている姿を見て喝采しているだけの国民にも問題がある。こういう無責任な国民のありようは「観客型民主主義」と言えばわかりやすいだろうか』
さらに軽症者の救急車利用などの例を挙げ、
『医療費を無駄にしているのは自分自身であるという視点が欠落してはいないか』
『今の日本では、自分が汗をかくことによって日本が良くなる-という原則が忘れられてはいないか』、述べます。
そして対照的な例として、兵庫県のケースが紹介されます。これは母親達が「県立柏原病院の小児科を守る会」を結成し、不急の受診を控えることで、地域の小児医療を大きく改善した例です。ここでは母親達は従来の受身一方ではなく、当事者として行動しています。
まあこんな調子で国民の側に自覚を求める内容です。勇気ある本音の発言であり、主張されていることは納得できるのですが、政治家らしくない正直な発言だけに、部分的・恣意的な引用によって、氏にとって不本意な批判がなされることも想定されます。
「観客型民主主義」とは大変うまい表現です。私はこれを国民の「当事者意識の欠如」とほぼ同義だと解釈しています。つまり、一人ひとりが社会の成員であり、社会での役割を担わなければならないという意識の欠如であります。思い出したのはケネディ大統領の就任演説(1961)の有名な一節です(当選前ならとても言えないことですが)。
「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」
これは国民に対し、国家の成員としての役割を求めたものです。半世紀前の米大統領の訴えは、舛添氏が「観客型民主主義」として批判し、国民に求めたことと大変よく似ています。
舛添氏はどちらかというと「観客型民主主義」の主体である国民に目を向けておられますが、私はその国民に強い影響を与えたテレビに、より注目したいと思います。NHKの国民生活時間調査によると、日本人のテレビ視聴時間1日平均約4時間だそうで、その影響力は他を圧倒します。
民放は視聴者に視てもらうことが何より大事ですから、耳ざわりのよいことを並べます(なぜかNHKも含め)。視聴者に反省を促したり視聴者を批判するようなことは決してしません。国民の権利を強調しても義務を強調することはありません。視聴者に嫌われることは売上げの低下を意味するからです。事件や事故、社会問題が生じたとき、悪者にされるのは一般視聴者以外の特殊な誰かであり、それは企業経営者であったり、官僚や政治家であったりします。
視聴者は常に観客、つまりお客様として扱われますから、不愉快にさせられることは決してありません。「消費者は王様」と言う言葉も同じ背景から出たものでしょう。毎日4時間、お客様扱いを受け続けたことが無責任「観客型民主主義」の原因のひとつとなった可能性があるように思います。むろん、原因はそれだけでなく、義務よりも権利を強調してきた戦後の教育にも求められるでしょう。
「観客型民主主義」の原因のひとつをテレビの商業主義だと考える確証があるわけではありません。仮説というより思いつきのレベルであり、それを論証する手段も思い浮かびません。ただ王様 ・お客様と毎日おだてられていては、まともな考えの人間にならないことは恐らく間違いなかろうと思う次第であります。
(参考 医療崩壊を推進するマスコミ報道)