噛みつき評論 ブログ版

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経済学はイデオロギーか?

2009-03-17 09:10:48 | Weblog
 中谷巌氏の「転向」が話題になっています。新自由主義の主導者であった中谷氏は懺悔の書「資本主義はなぜ自壊したのか」を著し、グローバル資本主義、新自由主義政策は貧困や格差社会を生み社会の絆を破壊したとして、自説からの決別を表明しました。この懺悔書は13万部も売れたそうで、「転向」をも商機とされる才能はやはり尊敬に値します。

 「転向」に対しては非をみとめる正直さを評価した評価がある一方、「経済情勢が変わるくらいで立場を簡単に変えるべきではない」「彼らの政策で首をつった人もいるかもしれない。倫理的・道義的責任を自覚しているのか」(松原隆一郎東大教授)という批判があります。(03/14朝日新聞)

 また、経済学者の佐和隆光氏は次のように述べています。

「米国の経済学者は、自由で競争的な市場を万能視する新古典派か、市場の不完全性を前提とするケインズ派、そのいずれかに与(くみ)するのかを、思想構造も含めて選択している。ところが、日本の経済学者の多くは、理論を支える思想構造には全く無頓着である。
 それにしても不思議なのは次の点だ。つい数ヶ月前までフリードマンを奉っていた日本の経済学者、経営者、政治家の多くが、世界同時不況のの襲来後、今度はケインズの前にひれ伏すようになった。他方、昨年9月に金融安定化法案を否決、12月に自動車産業救済法案を廃案に追い込んだ米上下院議員の多くは、自由で競争的な市場の敗者を国が救済することを『否』とするフリードマンを奉り続ける。その首尾一貫性に対し、私は心よりの敬意を表したい」(03/11日経新聞)

 経済学はどうやら宗旨変えが許されない世界で、一旦なんとか派に属したならそれを守り抜くのが美徳とされるようです。主君や神に対する忠誠を一生涯貫くのが賞賛されるのと同じです。しかしこれはまったくおかしな話で、本来、経済学は思想でも宗教でもなく、社会科学なのです。誤りに気づいて、正しいと思う方へと修正することに何の遠慮がいるでしょう。

 しかし倫理的・道義的責任は別の問題であります。新自由主義に基づく規制緩和が主な原因となった金融危機は、世界に大きな混乱をもたらしました。これには中谷氏だけでなく、同類の学者や流れに乗ったマスコミも責任を免れることはできません。

 ケインズは政府の役割を重視し、フリードマンは市場重視で、対称的な立場をとりますが、現実的に妥当な解はどちらかではなく、恐らく両者の主張の間にあると思います。宗教のように○○派を問題にするのは現在の経済学が科学というより、イデオロギーの側面を強く持っているためでしょう。佐和氏の発言のとおりなら、「志操堅固」な米国の頑固学者も困りますが、一斉に同じ流れに乗って政策に影響を及ぼす「軽躁」な日本の付和雷同学者・マスコミらも困ったものです。

 近年、わが国の経済学者の多くは新自由主義を支持し、国の政策に影響を与えました。それは経済成長に寄与した反面、所得格差の増大をもたらしたとされています。そして同時に所得税の累進税率を緩和させ、さらに格差を拡大させました。背景には格差の増加を是認する考えがあったと思われます(逆にもしそれが予想外のものなら、初歩的な見通しを大きく誤ったということになります)。格差という社会の基本的な問題に経済学が関与した例と理解してよいでしょう。

 経済学が社会の経済現象を解明する道具としての役割を超え、イデオロギーとして社会政策や価値観にまで影響を及ぼすことには違和感を抱きます。経済学に社会思想まで期待すべきなのでしょうか。経済学がイデオロギーという側面を強く持てば、その影響は合理的な範囲を超える危険があります。社会の体制まで変えようとするのはマルクス経済学だけでたくさんです。