『浅草聖ヨハネ教会では10年ほど前から、職にあぶれ腹をすかせた人たちに炊き出しをしている。当初数十人だったが次第に人数が増え、最近は500人を下らない。日曜礼拝の参加者で炊き込みご飯を作り、配っている。だが最近になって、地域住民から炊き出しの中止を求められた。
「近所に座られると困る」「ごみを落としていく」。苦情が寄せられるたびに、下条裕章牧師は集まる人にモラル徹底を呼びかけ、整列やごみ拾いのためボランティアを配置し、理解を求めてきた。
炊き出しの現場を訪ねると、教会を取り巻くように工事用の囲いが置かれ、その内側に整列した人たちが順番にご飯の入ったパックを受け取り、静かに去る。
地域と失業者とを分断するような囲いを見ながら、私はしばらく考えた。この囲いを生み出したものは、何なのかと』(3/18毎日新聞発信箱の内容を要約)
囲いを生み出したものはこれだ、と単純に決めることはできませんが、関連を強く疑われるものは戦後教育とマスメディアです。逆にいうと、他に大きな影響力を持つものはちょっと見あたりません。
近所の人にとって、それが迷惑なことであるのは私にもよくわかります。それは今も昔も多分変わらないでしょう。変わったのは「やめてくれ」と堂々と発言できるところです。
炊き出しを求めて集まる人間は生存を脅かされている深刻な状況にあるのに対し、苦情を言う人間は街の美観が損なわれるというまったく深刻とは言えない状況にあります。「街が汚れるから飢えている人間に食べ物を与えるな」とは、たとえ思っていても、口に出せることではありませんでした。
そんなことを口に出せば、深刻な飢えと美観を同列に置くという非常識な考え、あるいはひどい利己主義と受けとられて、恥ずかしい思いをするかもしれないという気持が、発言を抑制していました。また、誰かがしなくてはならない救援活動を教会が行っているとき、協力しない人が多少なりとも後ろめたさを感じていれば、口出しはいっそうためらわれるでしょう。しかしいまは自分の権利だけを堂々と主張することは恥かしいことではなくなってしまったようです。
教会側が「飢えと美観、どちらが大切ですか」と住民に反論することができない社会を我々は作り上げてしまったようです。戦後教育とマスメディアは「権利」に重点を置きました。そしてメディアは「住民の権利」の擁護にとりわけ熱心であったと思います。その背景には読者に対する迎合姿勢があるのでしょう。
この「発信箱」は重要な問題を提起した優れた記事だと思います。しかし「この囲いを生み出したものは、何なのかと」という表現には、原因は他の何かであり、自分達メディアには関係がないという認識が感じられます。この囲いを生み出したものは自分達メディアであることをまず理解する必要がありましょう。人心の変化に手を貸したということを。
「近所に座られると困る」「ごみを落としていく」。苦情が寄せられるたびに、下条裕章牧師は集まる人にモラル徹底を呼びかけ、整列やごみ拾いのためボランティアを配置し、理解を求めてきた。
炊き出しの現場を訪ねると、教会を取り巻くように工事用の囲いが置かれ、その内側に整列した人たちが順番にご飯の入ったパックを受け取り、静かに去る。
地域と失業者とを分断するような囲いを見ながら、私はしばらく考えた。この囲いを生み出したものは、何なのかと』(3/18毎日新聞発信箱の内容を要約)
囲いを生み出したものはこれだ、と単純に決めることはできませんが、関連を強く疑われるものは戦後教育とマスメディアです。逆にいうと、他に大きな影響力を持つものはちょっと見あたりません。
近所の人にとって、それが迷惑なことであるのは私にもよくわかります。それは今も昔も多分変わらないでしょう。変わったのは「やめてくれ」と堂々と発言できるところです。
炊き出しを求めて集まる人間は生存を脅かされている深刻な状況にあるのに対し、苦情を言う人間は街の美観が損なわれるというまったく深刻とは言えない状況にあります。「街が汚れるから飢えている人間に食べ物を与えるな」とは、たとえ思っていても、口に出せることではありませんでした。
そんなことを口に出せば、深刻な飢えと美観を同列に置くという非常識な考え、あるいはひどい利己主義と受けとられて、恥ずかしい思いをするかもしれないという気持が、発言を抑制していました。また、誰かがしなくてはならない救援活動を教会が行っているとき、協力しない人が多少なりとも後ろめたさを感じていれば、口出しはいっそうためらわれるでしょう。しかしいまは自分の権利だけを堂々と主張することは恥かしいことではなくなってしまったようです。
教会側が「飢えと美観、どちらが大切ですか」と住民に反論することができない社会を我々は作り上げてしまったようです。戦後教育とマスメディアは「権利」に重点を置きました。そしてメディアは「住民の権利」の擁護にとりわけ熱心であったと思います。その背景には読者に対する迎合姿勢があるのでしょう。
この「発信箱」は重要な問題を提起した優れた記事だと思います。しかし「この囲いを生み出したものは、何なのかと」という表現には、原因は他の何かであり、自分達メディアには関係がないという認識が感じられます。この囲いを生み出したものは自分達メディアであることをまず理解する必要がありましょう。人心の変化に手を貸したということを。