『(イラク戦争では)3月20日の開戦直前に日本の大手メディア(新聞、テレビ)は「記者の生命の安全を守る」という理由でバクダッドから横並びで一斉に退去した。爆撃される一番危険な場所はフリーランスに任かせてしまった。米国、英国、フランス、スペイン、ドイツなど世界各国の記者の多数がバクダッドにとどまって取材を続けたのに比べると、最重要な取材現場から一斉集団離脱したのは日本だけであり、いわば、オリッピック出場を自ら棄権した形で、日本のメディアの特異性・臆病ぶりが際立たせた。
(中略)
かつてベトナム戦争報道では日本のメディアは世界の注目を浴びた。ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)や北ベトナムの姿を従軍取材などで深くえぐり、戦争の真実を報道して米国はもちろん、世界の世論形成にも大きな影響を与えた』
これは前坂俊之氏の文章からの引用です。イラク戦争当時、既に日本の大手メディアは安全に対する配慮を報道の職務より優先させていたことがうかがえます。各社一斉という行動様式も不気味ですが、非難を避けるためには有効であったでしょう。赤信号、みんなで渡れば怖くないというわけです。
今回の新型インフルエンザでは日本の過剰な反応が指摘されています。米国では日本のマスコミの大騒ぎを見て、日本で流行しているインフルエンザは米国とは別種の強毒性のものだろうと誤解されていた、という話がありました。今回の新型インフルエンザ騒動も日本のメディアの特異性を示したものと理解することができます。
最初に感染者が見つかった大阪府立高校には多数の報道陣が群がり、記者らは校長に詰問調の質問を浴びせていました。その後、この高校には匿名の抗議が多数寄せられたそうです(5月23日朝日新聞文化面)。感染に対して過剰に敏感な空気が醸成された結果と言えるでしょう。
22日現在で感染者1名の京都では278校が休校となっています。各学校の判断によるものと思いますが、インフルエンザの症状の軽さと感染の広がりが限定的なことを考えると、過剰な反応という印象は拭えません。大学の場合、京都大学は「現状では休校にする水準に達していない」として休校していませんが、他の45の大学は休校しています。
休校の解除後、補講があるとしても完全な回復は難しいと思われ、生徒や学生は不利益を受けます。部分的にせよ、学校の職務が放棄されることになります。多くの学校が休校という過剰な反応を示す背景には、流れに逆らって感染者を出したときのマスコミの非難を恐れる気持ちがあるのではないでしょうか。群らがった記者から詰問されるような目には誰だって遭いたくありません。
紛争地域での取材は危険がつきものであり、かつては危険を冒して職務を全うすることは賞賛の対象でありました。しかし、バクダッドを退去した日本のメディアは職務より安全を優先させました。価値観の大きな転換がうかがえます。
僅かでも安全を損なう可能性のある行為は厳しく非難され、安全のためという名目があれば誰も反対できないような風潮が作られました。マスコミは事故のたびに原因者を追求しますが、それには安全の基準が高い方が強い非難が可能であり、記事に強いコントラストがつけることができます。過剰な安全志向の一因は恐らくそんなところにあるのでしょう。
過剰な反応だと学校や自治体がわかっていても、休校のためにマスコミから非難を受けることはありませんから、学校としては休校が無難な選択です。マスコミの圧力が判断を左右したと言えるのではないでしょうか。
世界の中で突出していると言われている日本の騒ぎ方ですが、それは数十日間にわたるマスコミ各社による一斉のトップ報道の当然の結果です。バクダッドからの一斉逃亡は報道に関する使命感の相対的な弱さを示すものであり、過大なインフルエンザ報道は状況を冷静に判断できず、報道の反作用による社会の不利益を考慮しない無責任さを示すものです。どちらも世界の標準から大きく外れた体質が生み出したものと思われます。
(中略)
かつてベトナム戦争報道では日本のメディアは世界の注目を浴びた。ベトコン(南ベトナム民族解放戦線)や北ベトナムの姿を従軍取材などで深くえぐり、戦争の真実を報道して米国はもちろん、世界の世論形成にも大きな影響を与えた』
これは前坂俊之氏の文章からの引用です。イラク戦争当時、既に日本の大手メディアは安全に対する配慮を報道の職務より優先させていたことがうかがえます。各社一斉という行動様式も不気味ですが、非難を避けるためには有効であったでしょう。赤信号、みんなで渡れば怖くないというわけです。
今回の新型インフルエンザでは日本の過剰な反応が指摘されています。米国では日本のマスコミの大騒ぎを見て、日本で流行しているインフルエンザは米国とは別種の強毒性のものだろうと誤解されていた、という話がありました。今回の新型インフルエンザ騒動も日本のメディアの特異性を示したものと理解することができます。
最初に感染者が見つかった大阪府立高校には多数の報道陣が群がり、記者らは校長に詰問調の質問を浴びせていました。その後、この高校には匿名の抗議が多数寄せられたそうです(5月23日朝日新聞文化面)。感染に対して過剰に敏感な空気が醸成された結果と言えるでしょう。
22日現在で感染者1名の京都では278校が休校となっています。各学校の判断によるものと思いますが、インフルエンザの症状の軽さと感染の広がりが限定的なことを考えると、過剰な反応という印象は拭えません。大学の場合、京都大学は「現状では休校にする水準に達していない」として休校していませんが、他の45の大学は休校しています。
休校の解除後、補講があるとしても完全な回復は難しいと思われ、生徒や学生は不利益を受けます。部分的にせよ、学校の職務が放棄されることになります。多くの学校が休校という過剰な反応を示す背景には、流れに逆らって感染者を出したときのマスコミの非難を恐れる気持ちがあるのではないでしょうか。群らがった記者から詰問されるような目には誰だって遭いたくありません。
紛争地域での取材は危険がつきものであり、かつては危険を冒して職務を全うすることは賞賛の対象でありました。しかし、バクダッドを退去した日本のメディアは職務より安全を優先させました。価値観の大きな転換がうかがえます。
僅かでも安全を損なう可能性のある行為は厳しく非難され、安全のためという名目があれば誰も反対できないような風潮が作られました。マスコミは事故のたびに原因者を追求しますが、それには安全の基準が高い方が強い非難が可能であり、記事に強いコントラストがつけることができます。過剰な安全志向の一因は恐らくそんなところにあるのでしょう。
過剰な反応だと学校や自治体がわかっていても、休校のためにマスコミから非難を受けることはありませんから、学校としては休校が無難な選択です。マスコミの圧力が判断を左右したと言えるのではないでしょうか。
世界の中で突出していると言われている日本の騒ぎ方ですが、それは数十日間にわたるマスコミ各社による一斉のトップ報道の当然の結果です。バクダッドからの一斉逃亡は報道に関する使命感の相対的な弱さを示すものであり、過大なインフルエンザ報道は状況を冷静に判断できず、報道の反作用による社会の不利益を考慮しない無責任さを示すものです。どちらも世界の標準から大きく外れた体質が生み出したものと思われます。