数日前の朝、テレ朝のワイドショーで「6日間の足どり、徹底取材」といった大きなテロップが映されていました。覚醒剤取締法違反容疑をかけられている酒井法子さんの逃亡経路を徹底的に調べようというものです。「調査報道」には違いありませんが。
他人事ながら、私はこの番組を作っている方々の気持ちが気になりました。彼らはいったいこの仕事にどんな誇りをもっているのだろうかと。放送業は業種別の生涯給与で1位です。表口から(正規で)入社する人はエリートでしょうから、それなりの自負心をお持ちだろうと思われます。
テレビは新聞と並ぶ、いやそれ以上の影響力があるメディアです。本来、ジャーナリストとしての志をもった若者がテレビ業界を目指すと考えるのが自然でしょう。しかし彼らの志を満たすような民放の番組はごく限られています。
けれど、放送の大半が娯楽ものであることは今に始まったことではなく、現在の構成員の多くはそれを承知で入社してきた人であるという見方の方が現実的かも知れません。娯楽ものを志してきた人が主流を形成するとなると、ジャーナリズムとしての機能は大丈夫かと心配になります。まあ現状はそれを裏付けているようですが。
テレビ局の形態は、新聞で言えば、大衆紙の片隅に高級紙が収まっているようなものと言ってよいでしょう。目指す目的が異なる二つの組織が同居しているわけです。視聴率を稼ぐ部門、つまり儲かる部門の支配力が強くなって、興味本位の番組が大半を占めるのは当然の成行きです。
だからこそ、民放と競争する必要性が小さいNHKの存在理由があるのだと思われます。しかしこの数年、NHK総合テレビの報道姿勢は民放に接近しているように感じます。上記の覚醒剤取締法違反事件では繰り返しトップニュースで扱い、うち1回は夜7時の定時ニュースの1/3ほどを使っていました。
このようなニュースで公共放送が民放と張り合っているようでは視聴料を払う意味が薄れます。殺人事件にも多くの時間を使い、現場の3次元模型まで制作するような娯楽化が定着しています。どうでもいいことを詳細に報道するという、民放のようなことをしてはNHKの存在理由が疑われます。
またNHK総合テレビは1年ほど前から音量の変化が大きくなったように感じます。しばしば音量調節が必要になりました。番組の紹介と番組冒頭のテーマが流れるときなど、急に大きくなるように感じます。民放のCMの真似かもしれませんが、品がありません。
NHKの現在の姿勢を見て、娯楽ものの制作に「高い志」を持つ若者が集まれば、娯楽製造装置への流れはより確固としたものになるでしょう。ここに一種の悪循環が生じると考えるのは杞憂でしょうか。
他人事ながら、私はこの番組を作っている方々の気持ちが気になりました。彼らはいったいこの仕事にどんな誇りをもっているのだろうかと。放送業は業種別の生涯給与で1位です。表口から(正規で)入社する人はエリートでしょうから、それなりの自負心をお持ちだろうと思われます。
テレビは新聞と並ぶ、いやそれ以上の影響力があるメディアです。本来、ジャーナリストとしての志をもった若者がテレビ業界を目指すと考えるのが自然でしょう。しかし彼らの志を満たすような民放の番組はごく限られています。
けれど、放送の大半が娯楽ものであることは今に始まったことではなく、現在の構成員の多くはそれを承知で入社してきた人であるという見方の方が現実的かも知れません。娯楽ものを志してきた人が主流を形成するとなると、ジャーナリズムとしての機能は大丈夫かと心配になります。まあ現状はそれを裏付けているようですが。
テレビ局の形態は、新聞で言えば、大衆紙の片隅に高級紙が収まっているようなものと言ってよいでしょう。目指す目的が異なる二つの組織が同居しているわけです。視聴率を稼ぐ部門、つまり儲かる部門の支配力が強くなって、興味本位の番組が大半を占めるのは当然の成行きです。
だからこそ、民放と競争する必要性が小さいNHKの存在理由があるのだと思われます。しかしこの数年、NHK総合テレビの報道姿勢は民放に接近しているように感じます。上記の覚醒剤取締法違反事件では繰り返しトップニュースで扱い、うち1回は夜7時の定時ニュースの1/3ほどを使っていました。
このようなニュースで公共放送が民放と張り合っているようでは視聴料を払う意味が薄れます。殺人事件にも多くの時間を使い、現場の3次元模型まで制作するような娯楽化が定着しています。どうでもいいことを詳細に報道するという、民放のようなことをしてはNHKの存在理由が疑われます。
またNHK総合テレビは1年ほど前から音量の変化が大きくなったように感じます。しばしば音量調節が必要になりました。番組の紹介と番組冒頭のテーマが流れるときなど、急に大きくなるように感じます。民放のCMの真似かもしれませんが、品がありません。
NHKの現在の姿勢を見て、娯楽ものの制作に「高い志」を持つ若者が集まれば、娯楽製造装置への流れはより確固としたものになるでしょう。ここに一種の悪循環が生じると考えるのは杞憂でしょうか。