旧知のおっさんと世間話をしたときのことです。震災後に広まった"絆"という言葉の不快さが話題になりました。そのおっさんは歯の浮くような感じがあるといいます。私も"絆"という言葉は恥ずかしくて口にできず、多くのマスコミが"絆"という言葉を恥じらいもなく連発するのを、不快感をもって眺めていました。
世の中にはストーカーや腐れ縁のような、困った"絆"もありますが、"絆"は一般的にはよい意味で使われます。それなのにこの言葉に対して不快感をもつ人が少なくないのはなぜでしょうか、
野口悠紀夫氏は著書「超 文章法」の中で不快感を与える表現として、"ふれあい"や"共生"などを挙げています。私は"絆"や"癒し"をその仲間に追加したいと思います。
"絆"、"癒し"、"共生"は依存性を強調し、自主性を軽視するから嫌だという人もありますが、まあそれもあるでしょう。しかし私はむしろそれらの単純な言葉がものごとの一面だけを強調して、全体をよく見せようとする欺瞞が潜んでいるような気がしてなりません。きれい事で誤魔化そうという態度です。ここにはひとつのキーワードで全体を特徴づけようとする態度に共通するいい加減さがあります。
また"愛してる"などという言葉を従来の日本人はほとんど使いません。日本にはそのような気持ちは言葉で表すものではないという文化があり、"絆"にも似たような感覚があります。「あなたとは強い絆で結ばれている」などと無理に言おうものなら強い恥ずかしさに耐えなければなりません。
さらに、それらのはやり言葉を臆面もなく使う人間の、言葉に対する無神経さ、軽さのために言葉のイメージが悪くなってしまったという部分もあるでしょう。
むろんそれらの言葉を平気で使う人が少なくないように、素直に受け入れる人も多くいることでしょう。私などが単にひねくれ者であるだけのことかもしれません。まあどうでもいいことをあれこれと書き連ねました。
世の中にはストーカーや腐れ縁のような、困った"絆"もありますが、"絆"は一般的にはよい意味で使われます。それなのにこの言葉に対して不快感をもつ人が少なくないのはなぜでしょうか、
野口悠紀夫氏は著書「超 文章法」の中で不快感を与える表現として、"ふれあい"や"共生"などを挙げています。私は"絆"や"癒し"をその仲間に追加したいと思います。
"絆"、"癒し"、"共生"は依存性を強調し、自主性を軽視するから嫌だという人もありますが、まあそれもあるでしょう。しかし私はむしろそれらの単純な言葉がものごとの一面だけを強調して、全体をよく見せようとする欺瞞が潜んでいるような気がしてなりません。きれい事で誤魔化そうという態度です。ここにはひとつのキーワードで全体を特徴づけようとする態度に共通するいい加減さがあります。
また"愛してる"などという言葉を従来の日本人はほとんど使いません。日本にはそのような気持ちは言葉で表すものではないという文化があり、"絆"にも似たような感覚があります。「あなたとは強い絆で結ばれている」などと無理に言おうものなら強い恥ずかしさに耐えなければなりません。
さらに、それらのはやり言葉を臆面もなく使う人間の、言葉に対する無神経さ、軽さのために言葉のイメージが悪くなってしまったという部分もあるでしょう。
むろんそれらの言葉を平気で使う人が少なくないように、素直に受け入れる人も多くいることでしょう。私などが単にひねくれ者であるだけのことかもしれません。まあどうでもいいことをあれこれと書き連ねました。