噛みつき評論 ブログ版

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バカのひとつ覚え

2019-05-05 22:17:45 | マスメディア
 山道で、木の枝などに赤や黄のテープが巻きつけてあるのに気づかれたことがあるかも知れない。道を示す標識の役割をするもので、マイナーな山道や主要路でも迷いやすいところに設置してあることが多い。ほとんどのテープ標識はほぼ適切な場所にある。私もテープ標識に助けられることが少なくない。

 ところがこれをわざわざ剥がしていく人間がいるそうなのである。京都でそのような例を2カ所聞いている。話を総合すると、彼らはテープや標識が自然を壊すという理由で剥がしているらしい。自然保護が大切なのはわかるが、遭難を防ぐ方が重要だと思う。優先順位が異常なのである。またストックの使用が山道を壊すといって反対する人間も少なくない。ストックの使用は歩行の安全に役立つが、安全より山道の方が大事と考えるようだ。山道なんてちょっとした雨が降れば簡単に破壊される。その破壊の大きさはストックの比ではない。

 以前にも取り上げたが、ある環境保護団体は標高約1000mの比良山にあった鉄筋コンクリート3階建ての宿泊用建物を廃業に際して完全の原状回復するよう強硬に主張した。業者は仕方なく全部を破砕の上、半年かけてヘリで麓まで運んだが、多量の燃料を使い(ヘリは1時間で数百リットルのガソリンを食う)、約4億円かかったという。現地に埋める方法よりこの空輸が自然に優しいか、ちょっと考えればわかることである。「健康のためには死んでもいい」という言葉がある。優先順序を間違うことを揶揄(やゆ)する言葉である。

 誰しも短期間であれば、不合理な考えに取りつかれてしまうことはよくある。例えばあまり必要のない商品が魅力的に見えて、欲しくてたまらなくなることなど、時々経験するが、たいてい時間が経てば冷静さを取り戻す。しかし上に挙げた人々は時間が経っても、よく言えば初志貫徹、悪く言えば頑固・しつこいために不合理な考えに取りつかれたままの状態が続くようである。どうやら一部の人間はそういう構造の脳を持っているのではなかろうか。

 初志貫徹やしつこさもある程度の合理性が伴えば美点であろう。その特質のおかげで大きな仕事をする場合も少なくない。しかし合理性が欠ければそれはタダの頑固という欠点となる。憲法9条が平和をもたらしていると考えている人間がかなりの多数に上ることを考えれば、そのような人間が決して少数でないことがわかる。このような脳の持ち主がかなり存在することが世論の不統一、社会の不安定を招くと言ってもよい。

 立場の違いに由来する意見の対立はたいていは必然的であり仕方がない。けれど多くは妥協点を求めることで解決可能である。だが認識の違いに由来する対立は厄介である。同じ現象を見て異なる解釈をするのだから、意見の一致はほぼ不可能であり、妥協も極めて困難である。例えば誰かが重病にかかったとしよう。ある人は神の罰が当たっのだから加持祈祷が有効だと言う。別の人は感染によるものだから抗生剤が有効だと言う。この場合、両者に妥協点はあり得ない。認識が全く異なるからである。

 認識に違いによる対立は、ばかばかしいことだが、現実には大きな社会の不安定要因である。なぜ認識の違いが生じるのだろうかは、実に興味深い問題である。むろん理由はひとつではないだろう。教育や育った環境なども影響するに違いない。しかし人間の特定の性向、ひとつのことを信じればそれが脳の中で大きな位置を占めるといった特定の形質も影響しているかもしれない。ある家族はほぼ全員が信心深い、あるいは家族の多くが熱心な○○主義者である、などの例を見かける。親から子へと受け継がれる、DNAで決定される遺伝的形質の一つかもしれない。

 こんなことはむろん仮説に過ぎないが、社会の中の一定割合の人間は何かに頭を占領されやすい性質を持っていると考えてもよさそうだ。だったらどうすればよいのだ、と問われると困るが、現状の正しい認識が問題解決の基本であるから、無駄にはならないと思う。一度信じると他の考えには耳を貸さない人は昔から存在するようである。昔からある「バカのひとつ覚え」または「アホのひとつ覚え」という言葉はそれを示唆している。日本の野党は「護憲のひとつ覚え」で、いつまで経っても現実認識がまともにならないが、それは野党の構成員の頭の特性によるのかもしれない。