毎年この時季になると、決まってNHK北九州放送局で放送される企画がある。
それは、北九州放送局が視聴者の方にそれぞれの桜の思い出を募集して、
その中からいくつかの 「 桜の思い出 」 を映像をまじえて朗読する番組であるが、
そのほとんどが、 「 お涙ちょうだいの 」 亡くなられた方との桜にまつわる思い出である。
100人居れば、桜に対する100の思い出があり、
人それぞれの桜がある筈である。
ボクの桜の思い出は、亡くなられた方の思い出ではなく、
これからを生きる希望に満ちた思い出である。
それは沖縄県伊是名島での出発 ( たびだち ) の 「 もうひとつの桜 」 である。
『 もうひとつの桜 』
あれは五年前の三月の終りのことである。
沖縄県北部にある伊是名島にグスクの探訪に行った帰りのフェリーで、
沖縄本島へ向う人たちのなかに、見送り人と紙テープをつなぎ
手を振る女性の姿があった。
お互いの想い出にひたる時間はアッという間に過ぎ、
岸壁から “ 先生 先生 ” を連呼する子どもたちの声をかき消すように
汽笛が鳴り、接岸していた船が少しずつ離れて行くと、
手に持っていた紙テープが切れて風になびき、
それに乗るようにフェリー待合所のスピーカーから森山直太朗の 『 さくら 』 が流れた。
その歌に今までこらえていたものが一気に解けたのか?
教師と思われる女性は “ ワーッ ” と泣き出してしまった。
その光景をデッキで見ていた僕も、思わずもらい泣きしてしまった。
伊平屋・伊是名・渡嘉敷・座間味など、沖縄の小さな離島には小中学校しかなく、
中学校を卒業すると、ほとんどの生徒は進学や就職のため、
生まれ島を離れて行かなければならない。
それは、小さな島からの新たなる出発 ( たびだち ) である。
「 人生は、桜の花びらのように白く淡くひるがえりながら、
咲いては散り、散っては咲いて、出逢いと別れを繰り返す。 」
二月に沖縄を賑わした緋寒桜も終りを告げ、
「 もう見ることもない 」 と思っていたが、
感動で心が震えるような 『 もうひとつの桜 』 に出逢えた時間 ( しゅんかん ) だった。