所在地 / 長崎県長崎市小菅町
竣 工 / 1868年 ( 明治元年 )
国指定史跡 / Aランク近代土木遺産
小さなソロバンドッグに秘められた “ 近代化のエッセンス ” を漂わせる小菅修船場は、
長崎の湾に入り込む小さな谷を利用した石の斜路と簡素で美しい煉瓦の建物である。
天草石の岩壁や巻揚げ用レール。
それに巻揚げ機械も現存している日本で最初の洋式スリップ・ドッグである。
日本最古の西欧式ドック、小菅修船場は、1867(慶応3)年1月、
薩摩藩の主導によって建設が始まっている。
計画を進めたのは大河ドラマ「篤姫」で有名になった薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき)、
実務にあたったのが藩士の五代才助(友厚)であった。
そしてもう1人、グラバー邸で知られる英国商人、トーマス・グラバーが
計画・建設両面で大きくからんでいる。
商人名で申請
幕末の長崎港には外国船に限らず日本各藩の船も頻繁に出入りするようになっていた。
ところが長崎には船舶の修理、整備をする施設がない。
琉球唐物(からもの)(沖縄経由で輸入する中国の物産)を長崎に持ち込んでいた薩摩藩が、
そこに目をつけたのである。
しかしなぜ、薩摩藩が藩外の長崎に修船場を建設できたのだろうか。
幕末の長崎に詳しい長崎県文化振興課の本間貞夫参事は以下の諸点を挙げている。
一、薩摩藩が長崎に経済面で影響力を持っていたこと。
二、小菅が天領であったこと。
三、幕府が修船場を必要な施設と認めたこと。
四、そして何より、長崎の御用商人2人の名を借りて、建設の申請を行ったこと。
申請者が薩摩藩では、幕府の許可はあり得ない。
それを見越して申請者名を偽ったのだが、
受理した長崎奉行も事情は承知の上、だったのかもしれない。
建設地の小菅浦は現在の長崎港入り口に近く、狭い入り江が陸に食い込む形で延びている。
船を引き込み、引き揚げるには絶好の地形だった。
英国から技術者を招き、建設を開始する。
陸上から海中に174メートルのレールを敷き、
船架(船を載せる台)によって船を引き揚げる「スリップドック」が造られていく。
資金の分担は薩摩藩が25%、グラバーと彼の経営するグラバー商会が75%。
利益が出れば出資の割合で分けることに決まる。
ところが完成したのは1868年末、時代は明治になっていた。
このころグラバーは窮地に陥っていた。
日本の内乱が長引くと見て武器を大量に買い込んでいたのだが、
思惑が外れ、売り先を失ったのだ。
資金繰りに悩むグラバーは五代のツテによって修船場を12万ドルで明治政府に売り渡す。
今日の価格なら12億円程度、と考えられている。
ソロバンドック
修船場は明治政府の管理下に入り、
対岸の長崎製鉄所(官営の鉄製品製造所)に付属する工場となった。
以来、船舶の修理、新船の建造にと活況を示し、
細長い船架の形から 「 ソロバンドック 」 の愛称で呼ばれるようになる。
この名は長く地元で親しまれ 「 小菅修船場 」 では話が通じないほどである。
長崎製鉄所は1887年、払い下げによって三菱社の所有となり、
現在の三菱重工業長崎造船所に育っていく。
しかし小菅修船場は船舶の大型化によって業務を縮小せざるを得なかった。
第2次大戦中は軍用舟艇(小型船)の製造によって一時的に盛況期を迎えるものの、
戦後の1953(昭和28)年に閉鎖した。
いま修船場は三菱重工長崎造船所史料館の管理となり、
建設当初の姿をかなり残して保存されている。
ただ、船架は小型船用に改造され、ソロバン型よりかなり短くなった。
見学者は 「 なぜソロバンドックなのか 」 と、首をひねるそうである。
さて修船場建設の中心人物はその後どうなったか。
小松は志半ばの1870年、34歳で病没する。
一方、五代は明治政府の役人になって大阪・造幣寮の創立に尽力、
グラバーがそこに硬貨鋳造機を売り込む。
さらに実業家に転じた五代が造幣寮に硬貨の地金を納入して巨利を稼ぎ、
大阪財界の大立者に――。
修船場後日談は、こんな形で続くのである。