三斎池(さんさいいけ)ー中津城跡ー
慶長5年(1600)関ヶ原の戦などの功によって
黒田長政は筑前五十二万石となり、如水とともに中津を去った。
黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と
豊後の国東(くにさき)・速見(はやみ)の二郡の領主として入部した。
忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元(おきもと)を小倉城においた。
慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更した。
元和6年(1620)家督を忠利(ただとし)に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。
翌7年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を黒田氏の後を引き継いで行った。
この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。
工事は、山国川の大井出堰(おおいでぜき)ー三口(みくち)ーから
水道を城内まで導く大工事であった。
その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。
忠興の号”三斎”の名を冠して 「 三斎池 」 という。
現在は、中津上水道を引いている。