『 坂本龍馬と船中八策 』 茶園勝彦
「 坂本龍馬と船中八策 」 は日本の茶園勝彦さんの作品である。
自らアーティストでありながら、このあしや砂像展で砂像プロデューサーも担当している。
土佐の出身である坂本龍馬は、対立していた薩摩藩と長州藩を仲介し、薩長同盟を成立させた。
武力に頼らず平和的な倒幕を理想とした龍馬は1867年に船中八策を示し、
朝廷のもと徳川家を含めた連合政権の樹立を目指した。
後藤象二郎とともに大政奉還を江戸幕府に勧め、ついに徳川慶喜に受け入れさせた。
新たな歴史が開かれようとしたその時、龍馬は暗殺され、
その先の夢を見ることは出来なかった。
船中八策は、江戸時代後期、龍馬が起草したとされる新国家体制の基本方針。
龍馬は、前土佐藩主である山内容堂に大政奉還論を進言するため、
長崎から兵庫へ向かう船の上で後藤象二郎にこの案を提示した。
それを海援隊士・長岡謙吉が書きとめ、
のちに成文化したものが「船中八策」とされている。
ただし、原文書や写本といったものが現存しておらず、
詳細な成立過程を証明する資料もないため、
龍馬が作成に係わっていない可能性があることも指摘されている。
また、元々のオリジナルは上田藩士で軍学者でもある
赤松小三郎の構想だとも言われている。
原文
一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六策 海軍宜シク拡張スベキ事
七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事
八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
土佐藩が公武合体から非佐幕へと政治姿勢を転換した背景には、
時代が薩長同盟により倒幕へと傾いていき、
薩長に遅れをとったことへの焦りがあった。
幕府存続かつ土佐藩の地位の確保できる道はないかと
模索していたところに出てきたのが船中八策だった。
そして、後藤象二郎から前土佐藩主・山内容堂へ「船中八策」が進言され、
容堂は徳川慶喜に大政奉還を建白した。