Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

時代のテールランプ

2024-12-10 | アウトドーア・環境
水曜日はジンデルフィンゲンまで電車で出かける。シュトッツガルトの駅がどうなっているのか知らないが、前回の記憶では地下鉄に乗ったと思う。

車庫は水を撒いてモップで入口へと流すだけだ。今の車では森の駐車場までは最後の走行だった。溝があったりで乗り心地も悪いが、そのガタガタ感も玄武岩の上での足元の滑り感もこれでおさらばだと思った。それでも国道での走り心地はやはり全然悪くはない。

戻って来てから未だ捨てられていない潰したボール箱を重ねて奥へ追いやり、そこから水を撒いて水を追いやる。最後の三分の一ぐらいで5リットルがなくなった。特に壁との角に砂類が浮いてきて、モップで泥が動いてきた。それを押し出す。

更に継ぎ足した5リットルで、入り口横の砂の山を掘り出して、外へと流す。土曜日に綺麗に掃いていたので流すのに苦労するような量感ではなかった。汚れた水も綺麗に流れた。これ以上は掃除機で吸えるぐらいだ。油汚れ部分にシャムプーをかけてブラシで擦る。そして直ぐに乾いて来る。匂いもなにも全くないので、地面で寝転んでも全く問題がないぐらいになる。ボルダーリングのマットで寝れる。

そして新車になるとそこで内燃エンジンをかけて排ガスを出すこともなくなる。同じスクエアーには12件住んでいるが、既に二件は電気を使っているので、これで三件目になる。数年経つと過半数になると思う。つまり排ガス量が減少する。生活環境が高まる。これだけで嬉しい。

「くるみ割り人形」の一曲だけは親族や友人の死亡で書き加えられたとあった。「運命の動機」、「スペードの女王」とそれらの創作に触れているとどういう趣で作曲されているかは直ぐに分かるようになる。然し実際にはそうした曲でもただのエンタテーメントとしか受け入れられない場合が多い。特にこのバレー曲の場合はクリスマスへの作品として捉えられているとなるとそれ以上の感興も思い浮かばないのであろう。

それだからこそそうした創作の意図をも何も知らないでも伝える様な演奏でなければ全くの価値がないことが分かる。それをして作品の本質と呼ぶ。それ以外はフェークでしかないのである。エンタメを否定はしないのだが、フェークに付き合わされるのはかなわない。抑々仕事が得るとかそうしたホビーであれば違うのかもしれないが劇場でもホールにでも態々出かけてそうした偽物に付き合うことほど無駄な時間はないのである。人生の無駄である。

だから今までに熱心に通ったのは十代の時の一年間だけで、その時の目的に適うだけでそれだけでよかった。そのような事は今後ともあり得ない。こちらに移住する時も音楽祭のあるシュヴェツィンゲンに住処を探したぐらいで、近所に住んでいたらとか、大都心に住んでいたらというのはあるかも知れないが、それ以上に個人的には時間の無駄でしかない。

もうあの時代は、つまり化石燃料を消費することが豊かさであった時代は漸く終焉を迎えたと実感するようになった。如何にそれで、これからは無駄のない気持ちの良い社会に住みたい。



参照:
瀟洒で尚且つの感情表現 2024-12-09 | 音
幼子を迎える準備 2024-12-08 | 生活
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瀟洒で尚且つの感情表現

2024-12-09 | 
天気は回復した。それでも床から離れ難かった。灼けた腕は軽く筋肉に乳酸が残っている程度であるが、軽い疲れになった。ランニングだけは週三回でも習慣づいているので疲れは感じないが、肉体労働は慣れていないとやはり疲れとして感じる。それを習慣付けるだけの時間も価値もない。

SNSで流れて来た「くるみ割り人形」のパデュデユからそのヴァルトビューネでのアンコール全体を聴こうと思った。指揮者のペトレンコは二回登場しているが、ピアニストのトリフォノフが前夜のハムブルクで故障したということでキャンセルとなって全てのプログラムが意味を無くした。然しこのアンコールは見事であった。

他の演奏なども比較してみたが、やはりその歌い口が見事で、きっちりとアンコールの為にしっかりと付けている然しその背後にはその復活祭でバッチリと練習を積んだ「スペードの女王」がある。逆にそれがあったからチャイコフスキーのこのバレー音楽の短い曲をここで披露したのだろう。その感情表現やそのアーティキュレーションは見事にフィルハーモニカーの血と肉になっている。

そういう指揮は彼のムラヴィンスキーには出来なかったことは直接比較した交響曲五番や六番二楽章で確認済みで、その及ばなかったのは瀟洒で尚且つその感情表現である。そしてその任を継いだヤンソンスが2002年に同じヴァルトビューネで同曲を指揮している。これまたロシア帝政の最後を継いだムラヴィンスキーと比較するとまさしくプロレリアータの文化表現として最大公約数的な音楽表現がそこで為され誰にでもどこでも演奏可能なカラヤンサウンド並みの音響として目されている。それてもその他のソヴィエトの音楽家のそれと比較すると高品質なのでザルツブルクでもミュンヘンでも日本でもウケたに違いない。それに匹敵するような指揮者がソヴィエトには育たなかったいうことの裏返しでもある。

そしてNASを探すと実況中継とアーカイヴ化された二種類の映像があった。どうもデジタルコンサートホールでのハイレゾでは観ていなかったようだ。年末までの券が残っていおるのでいつ使うか。年末の中継はTVと両方あるのでどのように使うか。新年になれば大分使えるただ券がある。

車の登録がまだ済んでいなかった。理由は支払い遅行などで流された時に未登録なら損失無しになるが、登録済みならそれだけで10%ぐらいは経済的な損失が出るからだろう。そこで心配になるのは予約番号が念のために第二希望を探しておいた。丁寧に探すとい英語的にはもう一ついい文字列が出て来た。独逸では異なる英語の意味になるのであまり人気がないのだろう。現在はチャットの省略語が沢山あって、二文字となると結構な意味が見つかる。



参照:
全面対決の終焉のレーベル 2022-06-14 | マスメディア批評
験担ぎの三位一体 2024-11-05 | 雑感
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幼子を迎える準備

2024-12-08 | 生活
土曜日11時過ぎから車庫を掃除した。1時間ぐらいの心算だったが、終わって戻ってくると14時だった。先ずは要らぬものを分類するにも掘り返さなければいけなかった。そして分類して直ぐに捨てられないものはもう一つの車庫に運ぶことにした。そして床を開ける様に積み替えたりもした。最奥はワインの空箱で、再訪するときには戻すのでそれほど増えないのであるが、ご無沙汰している醸造所や使える郵送箱や御進物箱は取っておいてある。だから溜まる。

そこでそれらを動かさない様に足元だけを掃除機などを入れて掃除して、塵を入口の方へとブラシする。同時に天井も左右の壁もブラシする。思っていたほど蜘蛛の巣は張っていなかった。眼鏡はスポーツ用のもので帽子とマスクは欠かせなかった。

然し容積は可也あるので隈無くブラシするだけで汗を掻く。悪いマスクでは余計に眼鏡が曇る。外した時にゴムが切れたので車においてある使いさしの良いものを使う。やはり違う。

車をその儘で置いていたが、車庫の前に停め直して本格的にブラシとなる。枯葉や塵の一部などもあるが、やはり細かな砂状のものが多い。アスファルトやタイヤのゴム類も混じっているのだろう。汗を掻いているとそこの上に住んでいるカトリックのおばさんが前を通って、「クリスマスのお掃除かい、其の儘隣のうちの車庫もやって欲しいわ❣」と語った。言うだろうなとこちらも考えていた通りである。正しく幼子の納屋のお掃除である。それだけで十分だ。ブラシは最後にちびって殆どなくなっていた。

車の上をヒーターのお湯のパイプも通っている。その上側の埃も落とす。前に前に塵の山を押していく。油の滲みも細かさ砂で少しは吸い出せているか。量としては普通のスーパー袋にすっかり収まる程度である。黒くなった蜘蛛の巣は戸口の廻りで、これでそれ程気にならないほど粗掃除は出来た。水曜日迄にもう少し綺麗にする余裕があるかどうか。

水洗いすべきか。実はそこを前に使っていた夫婦にベビーがいて、どうもそこで放尿させたようで、最初は助手席側の壁が匂っていた。今は消えているのだが、ざっと水で流しておくのも悪くはないと思っている。

復活祭の新制作「エレクトラ」をArteからダウンロードした。何時からあがっていたか記憶にない。どこかに保存してあるかと思ったがなかったので先ずは確保しておいた。来週までのオンデマンドとなっているので、もしかすると年末にデジタルコンサートホールでハイレゾ再生が可能となるかもしれない。どうも映像はまた観ていないようなのでじっくりと観てみたい。

車庫を掃除して思うのは、やはり結構な長さがあることで、以前考えていた様に全てを除去すれば二輪車を奥か前に駐車しておくことは可能だ。左右は入口のドアの開閉もあるので、幅が2メートルを越えるような車であると出し入れが不自由になる。入口の開閉に問題があったが、ドア止めの穴を掃除機で吸ったら結構締まりがよくなった。夜分に帰って来てあまりどたんばたんしたくない。要らぬことで近所の顰蹙は買いたくない。



参照:
車庫掃除予定の週末 2024-12-07 | 生活
空気羽根で床を上げる 2024-04-25 | テクニック
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車庫掃除予定の週末

2024-12-07 | 生活
なんとか水曜日には車を引き取れそうだ。最後までとても長引いた。なにもかも予定通りに進んで新車で戻って来れればここ数年の終結となる。抑々今の車になってから23年間は決して良い時期ではなかった。ゲン担ぎではないのだがこれで以って新たな期待をしたくなる。車ごときではあるのだが、住居の不動産に次ぐものでやはり生活に大きく関わる。そして数年ごとに乗り換えるだけの興味もない。今回でもとても長い時間を費やした。生活感からすると履物などよりも重要で、移動の殆どはその質に係わっているからだ。

さて車庫の掃除は、大分床に土が溜まっていて、掃除機では吸えないのでモップで寄せて取り去る必要がある。壁際に集まっている塵類と車の真下にタイヤやシャーシにくっついてきた土の二種類があって、エンジンの下はエンジン油沁みもある。箒が必要かと思ったが、ブラシとモップの二種類があったので、なんとか寄せて取りされると思う。さもないと買い物に車を走らせると罰金の危険性がある ― 水曜日迄残るは二回のみの走行で終わりである。モップで床の油汚れをシャムプーして雨の時に誤魔化して流して仕舞えば良いだろうか。今は使っていないもう一つの車庫も床に味醂の酵母がついているのでそれもブラシで洗って仕舞いたい。

後者の土の中には融雪剤の塩が残っている可能性があって、出来る限り除去しておきたい。兎に角錆に繋がるようなものは極力避けたいのだ。その他の塵やエンジンオイル類、塗装に使った襤褸切れ類も処分しなければいけない。残っている不凍液はまだ使える。蜘蛛の巣も張っているのでそれも掃って、ワインの箱以外は殆ど撤去することになる。当分は掃除などはしないので、やれるだけやっておく。車庫の電源を上手に使えるかどうかも重要なのでその辺りの準備もしておかないといけない。

そして車から車検類以外は全て取り出す。小銭が落ちていないかも徹底捜査しないといけない。Nokiaの電話は下りる時に撤去するが、ナヴィも初期化して仕舞う。

扉が風で閉まるとか云々はまた新たに考えておく。今迄はパーキング補助がなかったので、早くから左右の角などを擦ったり、後ろも色がついたりしているが、今回は避けられるのではないか。自動で入れるように左右の邪魔なものも除去する。

履き掃除にはコロナ期間に貯めた悪い方のマスクを着用する。塗装の時に使おうとしたら直ぐにゴムが切れた。消耗品とは言いながら質が低すぎた。もうこうしたことも全て捨て去りたい。なにもいいことがなかった。それを十代で過していたとしたらやはり気の毒だ。

自動運転の操作も研究しておかないといけない。自動運転に関しては見ながら試乍ら走ると余計に危ない。

週末にはまだナッツのパンが残っている。そろそろ乾いて来るので、アヒルの脂でも付けて食する。朝食で摂るのだが、ワインに合わせてもおいしい。



参照:
健康そうでなにより 2024-12-06 | 料理
ドライには戻れない 2024-12-04 | 生活
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健康そうでなにより

2024-12-06 | 料理
また陽が陰って冷えて来た。部屋の電気が必要になると暖房も強めに入れる必要が出てくる。もう数週間の辛抱である。

あまり記憶にはなかったが行きつけのパン屋でナッツ入りパンがあった。火曜日でもなかった気がするので季節ものだろう。栗入りの様には甘くはないが、やはり季節柄健康的で嬉しい。身体が欲するのである。

先週はシュトレンを購入したが、今回はゲヴュルツクーヘンとする。グリュンヴァインの様にシナモンやチョウジ、ノクズク、ショウズクの様なものが入っている。カカオとかアーモンドを入れて出来上がる。これも健康そうでなによりである。そして量が多くて安いのがまた嬉しい。

ホウレン草を食した。土がついていて新しかったので早速料理した。肉類無しにエリンギと卵で炒めた。やはり菜食では腹が減る感じがある。特に運動した後ではもう少しのガッツリ感が欲しい。

一週間ほど熱を出していてお腹も壊していて食欲が落ちていたが体重は一向に減らなかった。アルコール量も減っていたと思い、甘いものも寂しいぐらいに足らなかったのだが、やはり減量しない。肥満体質なのは子供のころからなので仕方がない。

料理用のワインを購入した。大抵はリッター瓶で一番安いが葡萄のしっかりした白ワインを購入する。今回は地元のリースリングがミュラーテュルガウも高く、フランス製のシャルドネを購入した。通常瓶であるが価格はリットルにして3.5ユーロだから良しである。見るとモーリッツハインリッヒというエルトヴィルの業者が出来合いの原料樽を混ぜてそこで造っている様だ。なるほど培養酵母を上手に使っている。フレッシュなので結構飲める。ヌードルぐらいにはとなる。

さて来週には車を取りに行きたい。後半ならば雪も降っていないようなので、最初からの融雪剤の影響は避けられるか。やはり乾いた道を走りたい。日時が決まる前に先ずはカレージの床を掃除しておこうかと思う。これは雨が振る時ぐらいの方が水で流しやすい。今使っているガレージならば上手に使えれば自動駐車システムが使いやすいかと思っている。自動運転の操作も受け取る前から少し調べておかないと不安である。

シュトッツガルトまで出かけるのにコートを着て行くのかどうかなども検討。マフラーと手袋とで何とかならないかと思う。動きがいい方が電車に乗るにも便利で、どうせ工場見学すると暑い。

ヴァイツェンビーアを半年ほど高価な69セントを購入してきたが再び55セントのものでアルコールも5.4%と少し上がった。大変うれしい。運動のあとはヴァイツェンがいいのだが、ここ暫くは若干高めであったので、これで再び気持ちよく飲める。



参照:
ライヴエレクトロの奔り 2024-12-05 | マスメディア批評
パーティ券は要らない 2022-03-26 | 生活
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ライヴエレクトロの奔り

2024-12-05 | マスメディア批評
ジャージの寝具は暖かい。重量は増えて、その上にベットカヴァーを掛けるので寝返りは打ちにくくなる。それでも朝の寒気を感じないので熟睡度は違うようだ。その分床を離れ難さは更に高まった。布団カヴァーの内側に余分に掛けたカヴァーが破れていたので替えた。以前から使っていた古いカヴァーをそのように使っている。枕もこれでより清潔感が。

びくびくしながら車を動かした。パトカーとすれ違うとびくっとする。後ろにつけられると場合によっては停止を命じられる。車検の色が12月までしか残っていないから、じっくり観察したら4カ月を超えていることが分かり、罰金をとれる可能性が強いからだ。

それ以外は走る時にワイン地所に立ち寄るだけだ。アウトバーンならば後ろにつけられない様に上手に立ち回れるかもしれないが普通の街道では無理だ。減点も嫌だが罰金も嫌である。あと三回乗るかどうか。それでも燃料を15リットル入れた。どこかで余分に使ってもう一度給油に行くのもやばい。出来れば夜道を走りたいぐらいだ。折角100kmぐらい走れる燃料も入れたので一寸余分に走らせたい思いもある。

駐車場に停めると以前よりも車を一瞥して語る人が増えて来た。もう数年でオールドタイマーとして趣味の車になるからだが、こちらはびくびくする。車検ぐらいで通報する人もいないだろうが気になるのだ。

先日から淹れる紅茶が急においしくなった気がする。セカンドフラッシュで最初の半分はそれ程感動的ではなかった。色はいいのだが、何かコクが足りなかった。然しここにきてセカンドらしく紅茶臭い味が強くなって来た。あれは酵素による酸化熟成の味だと思うのだが、敢えて冷蔵庫の中で保管しているがやはりそれがなぜか強くなっている。以前はお茶は常温で缶の中で保管していたが、やはり異なって、いつまでも新鮮さが愉しめるのは、紅茶も同じである。煎茶も抹茶の様に冷蔵庫で保存するようにしている。然しそれでも熟成が進む可能性は予想していなかった。兎に角、今はとても美味く、安くて大満足だ。

先月のベルリンのコンツェルトハウスでの批評を見つけた。内容は曲が分かるともう少し想像できるが、ドイツ初演でオリジナル「スティルポイント」は1948/49年のBBCの女性エンジニアのダフネ―・オラームの電子音楽で、2018年に今回もLPを回したイラン系の女性DJフェシャカレキによって復刻再演されていたようだ。管弦楽を録音したLPを変調させて、生の管弦楽団のそれとで更に変調させていくという所謂ライヴエレクトロニクス音楽の奔りの曲らしい。50分もある大曲である。

短い映像はインスタグラムなどで紹介されていてマルチメディアでの表現としてその空間が芸術されたのは分かった。あの中に使われ演奏されたルネッサンスのデプレの曲がそこまでの空間効果を生み出さなかたっと指摘されているが、書き手もいうようにそれは自然と限界もあるということだろう。

DJとの共演ということでケルンでセクハラで下りたロート氏の企画を急遽エンゲルが代わりに振った「メルティングポット」と同じようにクロスオーヴァーものかと思っていたら全然違うバリバリの試みだったようだ。さて車があったら態々出かけたかどうかは分からない。その質は高かったようであるが。
Daphne Oram - Still Point(1948)(2016)(Avant-Garde)(Early Electronics)(Musique Concrete)




参照:
Unterwegs in Ätherwelten – Berliner Konzerthaus, Alexander Keuk, NMZ vom 25.11.2024
Experimentelle Musik, immersive Elektronik und Lichteffekte, Marleen Hoffmann, Berliner Morgenpost vom 23.11.2024
今後へ問いかけインタヴュー 2024-06-13 | マスメディア批評
生で接する慣れ親しみ 2021-12-07 | 生活
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ドライには戻れない

2024-12-04 | 生活
前回床屋に行ったのは9月19日ごろ。二月以上伸ばした。まだサマーカットに近かったので、それほど伸びてはいないが、流石にうなじが襟に掛る。冬季はあまり行きたくないのだが行かない訳にはいかない。新年1月末の旅行にどれぐらい伸びているかだけで、一先ずは何も考えないで良くなる。

以前はあまり気にしなかったのだが、やはりいい歳して適当にしているとみっともない。清潔感も無くなるので気を付けるようにはなった。特に寝具などの汚れとかで枕の汚れとかは散髪していないと気になる。

だから散髪で寝具を交換して上手くいけば新春らしくなるまでジャージのカヴァーを使えると思う。寝室に薄く暖房を入れていても足元が冷えたりするので、カヴァーだけではペラペラの布団では暖まらない。深い熟睡は昼間に重要である。

走ると久しぶりに左足の土踏まずが痛んだ。そうなると愈々走るのが苦しい。それでも初めてのゴアテックスの保温のお陰でより厳しい条件は避けられている。真夏はまだ分からないが、冬季に関しては素晴らしい。その価格差の価値は既に取り返している。

ベルリナーフィルハーモニカーのストリーミングのデジタルコンサートホールが待降節始めに無料ヴィデオを出した。今年は例年のアトフェントカレンダークイズがないのかと思った。然しあるようで、昨年の様に48時間券をまた貯めたい。

年末までのただ券もあるので、必要なものはそこで観ておく必要が。新年は1月18日、31日の生中継がある。その二つとも観れるといいが、アトフェント券は15日までに溶かさないといけないので、間に合うかどうか。その次の2月15日は別途考えなければいけない。その次は復活祭なのでそれに合わせるだけだ。

床屋では腕利きのおばさんが上手に刈ってくれた。どのようにしようかというから(今時期の)ワイン地所の様にというと直ぐに分かった。要するに要らぬものを掃除しておく感じでみすぼらしくなるのは仕方がない。端から今年最後だねというので、そりゃそうで2月半も放ったらかしてあったからで、次のお手入れは春めいてからになる。少なくとも新年で冬の陽が射すようになってからである。葡萄は下から水気を吸うようになっている。おばさんがいうように落とすである。

幸いなことに朝から陽が少し出ていたので裸にヤッケを引っかけて出かけても死にそうにはならなかった。雨降りの暖かい日を選んだつもりだった。散髪後も腹は減っても結構ぽかぽかしている。寝具もジャージに替えた。これで暖かく厳冬期を越せるだろうか。

今年は床屋でマグカップを貰った。中には予約の時に貰ったチョコボールが二個入っている。それだけでも喜ばしい。最近はチップを3ユーロ程払っているのだが、まあまあ、それだけでも価値はあるだろうか。コロナ期間から強制的にウェットカットになったので、これでなれて巧く行くとドライには戻れないと思う。



参照:
永く記憶に残る熱狂 2024-09-19 | 音
巻き起こる大小の乱気流 2023-01-11 | 文化一般
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創作美への観照

2024-12-03 | 文学・思想
承前)指揮技術の卓越はなにも見た目だけではないだろう。そこで筆者はシカゴから報告している。そこでバランスを崩しそうになったところで、この楽団らしくなかったのは、マーラーかのようにティムパニーがとどろき管が吠えるスケルツォノ部分で、我々もフランクフルトで気が付いたところだ。

それをしてこの管弦楽団らしくないとしていて、最初のパユとマイヤーの出だしの延長でもあって ― メムバー表にないからジャコーをパユと取り違えているようだ ―、ヴィオラセクションの後ろで掛け合っていると特記している。筆者は舞台後ろに座っていてあまり確認できなかったのか。

そして彼らは好きで演奏しているだけではない。それは言うが易しであると語り、語らないよりも語り合うように音楽をしていると注釈している。

正しくペトレンコの言葉として挙がっている「誠心誠意に演奏するようになるように」の意味であった。その言葉は四楽章のベートーヴェンに準えたフガートや二重フーガ―として凝縮して為されるところである。それでもその表情は優しくと記しているので舞台奥からだろうとの推測となる。

合衆国ではベルリンの経費削減などに関しての関心が高く、そのことをしっかりと報告している。それは合衆国のビッグファイヴの経営状況が悪いからだろう。ベルリンにおいてもそれは当然のことのように営まれているのではなく、シカゴで火曜日に2452席を売り切ったのでもそうではないとしている。

前のズーム会見の記事でも言及されていたのだが、ストリーミングの時代にライヴ中継を受けていてもそれはライブの実演には至らないものである様に、脱メディア化を越えて如何に世界に向けてのアピールと同時にお客さんに来て貰うかがビッグファイヴでも課題になっているということだ。

今回の合衆国ツアーでのペトレンコ指揮の特徴は構造的でそして奏者への自由度が高く、テムポは早いがあまり窮屈ではなかったとなるだろうか。その反面、一部の聴衆が求めていた主観的な情感の期待にそぐわなかったという批判もあっただろう。

そのことに関してもベルリンでの初日から続くティーレマン指揮との比較ということで語られた。玄人の批評でもベルリンでよりも明らかに評価が高かったのは、その壮行演奏会でのフランクフルトからの流れ則ち「誠心誠意演奏できるようになった」楽員の慣れが大きい。そのことは8月の初日の演奏会前に支配人ツェッチマン女史が放送で語っていた通りである。まだ完成していなくてもペトレンコの言葉通り「ブルックナーは発展する」のその(合衆国ツアーに向けて)目標は見えていると語っていたことだ。

改めて付け加えると、交響曲五番でブルックナーの浪漫派から後期浪漫派への道は定まり、より形式的な伽藍が出来上がった。それに関してチャペルと評される所以は、それはまさしく浪漫的独白に対しての後期浪漫的な形式に則った美の観照ということだろう。残念乍らこれを上手に表現していた書き手はいなかった。(終わり)



参照:
フルトヴァングラーに倣い 2024-12-01 | マスメディア批評
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
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3Eの意味するところ

2024-12-02 | 生活
待降節初日である。そろそろ片付けて行かないといけない。新車輌も引き取りに行かないといけない。支払いから、床屋に出かけてである。結構な事務仕事がある。バーゼルにも出かける時間もない。

車輛の番号は先予約番号の3の後ろにEをつけることにした。2015年からの法律で、電化推進でその番号で土地土地で便利を受けれるというのだ。ハムブルクではバスレーンを走れるらしい。無料で充電できるところもあるようだが、実際に使えるのかどうかも分からず、2026年にはその法律も終えるので、具体的な有利はあまり分からない。

然し駐車に関してはそれで無料で駐車出来るところや充電していなくても駐車可能となるところもあるようだ。充電も割引もある所もあるらしい。以前は番号取得に30ユーロの追加料金を払わなけれんばいけなかったようだが、今は無料になっている。

欠点としては自らが例えば333などを選択した場合最後に余分にE入って好まれないなどがあるらしい。然し今回の選択番号が土地の三文字、選択二文字に続いて数字は3のみだったので、更に後ろの文字が入る。3Eは反対方向に字が開いているので視覚的には落ちつくので悪くないと思った。ある意味番号の特殊性が強調される。

抑々は電気自動車のEであるが、水素自動車とハイブリッドで一定の条件を満たすとそれをつけられる。自分自身の読み方ならばEco,Efficiency,Evolutionぐらいか。Eで始まる言葉は沢山あるExponentialもあるがやはり数学的にeをオイラー数とすると3eは8,15ぐらいとなるか。

そろそろ来年の予定も立てて行かないといけない。未定なことも多いのだが、追々決めて行かないといけない。車が駄目で控えていたオーストリアにも行きたいが、さてどうなるか。そろそろ可能性を調べておかないと出遅れる。今年はキャンセルなどで当てが狂ったが少なくともヴュルツブルクに宿泊できたのは良かった。

車が替えて変わるのは、一先ず路上往生することがなく、ナヴィのシステムが高度化するので、目的地までの計算がし易くなる。走行距離も400kmを超えると厳しかったが、大分楽に走れるようになるのではないか。トランクスルーでの仮眠も試してみないと分からないのだが、三時間ほどの熟睡が可能になると宿泊無しで長距離往復運転可能となるかもしれない。

とても期待しているのはバッテリーが大きくなることからの仮眠時の室温調整やネットの利用でないかと思う。ホットポインツをどれぐらい使えるかも大きい。

床屋は今回出かけておくと新年になってから1月末のハノーファー行きの前に出かけるだけで十分だろうか。予約に立ち寄った木曜日の夕方は誰もいなかった。そろそろ忙しい時期だと思ったから急いで予約を取りに行ったのだが、若干当てが外れた。それでも待降節になれば混んでくるのだろう。床屋と同時に夜具も厳冬期用に替える。



参照:
お試しにのシュトレン 2024-11-26 | 料理
燃えたぎる掃除機 2024-07-21 | 生活
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フルトヴァングラーに倣い

2024-12-01 | マスメディア批評
この冬初の零下となった。放射冷却である。屋根に霜が着いていた。零下四度となっている。

ベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアー前のズーム会見の記事を読んだ。初めは知らなかったがAPの記事が各地で複製されていたので読めた。昨年の日本公演前にも同じような会見をしていたので、もっとも手っ取り早い広報なのだろう。

英語で行われたのか若干その引用が曖昧であるが、要旨はよく分かった。52歳と語って、二年前にそこで演奏したマーラーへの考えから今回のプログラムであるブルックナーへと繋いでいる。

ユダヤ系とあって、十年二十年前はより興味があって、マーラーのその疎外感や何処にも家がなくて故郷がなくてと語り、きっと変わったのかもしれないと、恐らく自身の家庭事情を思い浮かべている。そこでブルックナーへと傾倒したと。

ソヴィエトでは無縁だったが、第二の故郷オーストリアでの青年時代に出合って、そこの山々、そして料理など知って少しづつ身近になって行ったと語る。要するに自分の住処と感じるようになったということだろう。

具体的には、1942年のフルトヴェングラー指揮の五番交響曲を参考にした様である。このことは此処でも言及した語り口の巧さがそのものであって、改めて比較してい見ると面白いかもしれない。
BRUCKNER: Symphony No. 5 in B flat major / Furtwängler · Berliner Philharmoniker


その他にも、マーラーをブルーノ・ヴァルター指揮、「ばらの騎士」をエーリッヒ・クライバー、クレメンス・クラウス指揮と挙げていて、成程前者の冒頭のテムポ運びはスカラ座で指揮したそのものである。
Richard Strauss - Der Rosenkavalier (Erich Kleiber - 1952)

Richard Strauss - Der Rosenkavalier (Clemens Krauss – 1953, 1936)


管弦楽団との関係において、100人の楽員が寄れば100通りの考えがあって、100通りの望みがあると答えると、楽団長でホルンのドールが楽員各々に更に多くの考えがあると口を挟む。

そしてそこでは信頼して多くを語らないと、そして見ていて、止めずに練習すると語る。ブルックナーはそして発展するのだと語る。それは奏者が全身全霊で演奏できるようになるというルーティン化の成果だろう。

そして過去の録音でその伝統を記録するの容易ではなくて、ステップアンドステップで試みていくしかないと語っている。それが楽団によって引き継がれるものと考えている様だ。やはりベルリンのフィルハーモニーをシューボックス型にしなければいけないという考えに至るだろう。

何はともあれ25回目の合衆国ツアーを二度目のペトレンコ指揮で大成功裏に終えたと言えるだろう。



参照:
Kirill Petrenko Finds Leading the Berlin Philharmonic Means 100 Opinions and 100 Expectations, AP
全身全霊で演奏する 2024-11-30 | マスメディア批評
音楽の楽しみ方の教示 2023-11-16 | 文化一般
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索引2024年11月

2024-11-30 | Weblog-Index


誠心誠意に演奏する  2024-11-30 | マスメディア批評
歴史的交響楽ホールの実践  2024-11-29 | 音
束の間の晴れ間に  2024-11-28 | ワイン
深く息をついてから  2024-11-27 | SNS・BLOG研究
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誠心誠意に演奏する

2024-11-30 | マスメディア批評
ベルリナーフィルハーモニカーがシカゴに来るとなると皆がメモ片手となる。火曜日の聴衆の中には多くのシカゴ交響楽団のメムバーが楽譜を手に混じる。同地でのメインイヴェントのオペラ公演などよりも注目を集める。

ブルックナーの演奏は様々な、どこに山谷を持ってくるかが決め手で、ペトレンコの場合は何処で落とすかで、ペトレンコの場合はマーラーでと同じように決して独白的ではなく、ディスカッションなのだと書く。これはブルックナーの交響曲において、ピチカートが戻ってくるときの扱い方に表れるということらしい。

つまり、ベルリナーフィルハーモニカーのその精妙な演奏は周知として、チェロの最初の歌の微妙さは、通路を挟んだ隣人の息が聞こえるような演奏で、そのように繰り返されてピアニッシモとなればドールのそれとが囁きでしかないと改めて驚愕している。大げさではなく、そしてそれらの模様を奏者が詩の一節を歌うようなものとしている。

ここは他の批評にもあった一楽章導入出だしの扱い方があったが、恐らく他のボストンの聴者が書き込んでいた様に、フランクフルトからも繰り返すことで更に精妙になると共に、奏者自体が全身全霊で同じイメージを持って音が出されていることが分かる。

特に二楽章での次から次へと沖の波を越えてのサーフィンでの残照の様なものを記しているのは、正しく私が時の芸術としたものであり、その発想自体は動機のポリリズム的な扱い方に端を発するだろう。

ここで一昨年にシカゴ交響楽団でブルックナーを得意としているとされるティーレマン指揮の八番交響曲との比較が為される。それは多かれ少なかれ独白的であり、それが強いられたとするのは、曲は異なっても同様に終楽章で回帰する第九交響曲の形式をとっていることからの比較としている。この点に関してはこのブルックナーの交響曲を十八番としていたドレスデンのシュターツカペレでの演奏で二楽章の浪漫的な歌い込みだけに賭けていて、その方向感が分からない主観的なそれを批評しているので、正しくそれは浪漫的独白としてもよいだろう。

そのスケルツォの早いテムポではまるでマーラーの様なグロテスクさでティムパニーとブラスが吠えて、バランスも昔のフィルハーモニカーにあった様に最終的に崩れたりしたが、とても興味深かったとしている。

然し他では見られないぐらい管弦楽団は指揮を見るのと同じぐらい他のきかっけに気を配っていて、ペトレンコは抑えるのではなくて、腕を脇に付けて微笑むとある。正しく特にスカラ座デビュー後に変わったと指摘する「抜き」であって、指揮の名人域に入ってきている。

それ以前の公演地でも最小限の動きで指揮と言及されていて、明らかに二年前の怪我で椅子に座っての指揮のその秋の合衆国初公演の時とは大きく異なっていることに気が付かれた様である。

そして、11月初めとされるペトレンコの言葉、「この交響曲を誠心誠意に演奏できるようになる様に」が引用されている。(続く



参照:
Review: Berlin Philharmonic makes another sublime stand at Symphony Center, Hannah Edgar, Chicago Tribune of Nov. 27, 2024
歴史的交響楽ホールの実践 2024-11-29 | 音
見事なシカゴの音楽会批評 2022-11-20 | マスメディア批評
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
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歴史的交響楽ホールの実践

2024-11-29 | 
承前)ボストンの批評ではテムポ以外にも拘りがある。それは楽器配置で、左右に広がった第一と第二ヴァイオリンである。それは前回の同地でのコルンゴールトの交響曲でも同じだったが、今回はブルックナーの時代の配置であって好ましいと書かれている。

ここでも繰り返して言及しているが、その配置であるとワインワード型のホールであるベルリンの本拠地では音抜けしてしまう。下手奥のコントラバスのチェロを後ろから支えるその低音の跳ね返りの十分ではないからだ。これは本年一月にも通常配置では確認したが直接の音が前に出るだけになる。すると中域のヴィオラと含めての和音の底となっていくだけである。

然し世界的にも有名なボストンのシンフォニーホールとなると、シューボックス型で舞台が枠に囲まれている。写真や録音で知る限りよく鳴るホールで、現地で体験した人などはそのものボーズのスピ―カーのようだという。つまり、音に包まれる感じが強いのだろう。その前に演奏したカーネギーホールでも中域が張った感じがするが、ここはより箱が鳴る感じらしい。

すると左右に大きく広がる音像は望まれるべきものであり、掛け合い、そして音が上手に重なるので、筆者が好ましいと書くように、そのい会場のアコースティックと共ブルックナ―の描いた音像となる。

フィナーレのおどけたクラリネットで、第九交響曲様に前の楽章を振り返ったあとで、フガート主題が始まるのだがそれをして、トリオにおける「子供の情景」のようだとしてそのコミカルさを指摘。三主題から一楽章の主主題が重ねられて、対位法の花火のコーダへと。

ここでペトレンコ指揮は早く祝祭的だ、変ニの第二の主題は弾み、その中間のそこかゆっくり目には殆ど目をくれない。ヘ短調の第三主題は荒れ狂う。そのしゃっきり感はフーガの様相を性格づけていて、更に息づくことで、コラールでの休止をよりドラマティックにしていたとする。主題が戻ってくることで、二つのフーガ主題を聴き分けられるようにして、展開部の終わりでは棘の効いたリズム十分に流れを堰止め無い。コーダでの次から次への投下で変ロ長調の主題へと終末的な祝祭に至る。

そこでの管弦楽団の演奏を称して偉大という以外に付け加えることはないとしている。それでも最後のコーダがもう一つ大きな音でもよいのではないかとしている。ペトレンコ指揮のブルックナー解釈は、最初に書いていた様に月並みな誰でもやるような演奏実践の常套手段には組せずに、ブルックナーの本質であったと結論付ける。それはそのテムポ運びであり、重量感であり、対位法的な扱いであり、構造的な描き方であり、その個性であるとしている。

そしてペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカは、水曜日のブルックナー五番で歴史上最も優れた楽団がやるべきことを正しくやっているとしか言わざるを得ないと結んでいる。



参照:
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
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束の間の晴れ間に

2024-11-28 | ワイン
天候回復で穏やかな日々だ。病明けで煮豚も食した。これで完全回復である。コラーゲンでお肌もつるつる。

週末のメドックのピュイヤックの1998年ものを開けた。98年物は酸が表てに出てあまりバランスはよくないと思ったが、今回開けてみるととてもよくなっていた。色もなんとか保っていて、駄目になった印象はない。まだ数本あるので、限度まで楽しめる。おかしな強靭さを感じない分食事にも合わせやすい。

月曜日に走った疲れの残り方が違ったのでやはり一週間休むと身体が変わるのは実感した。運動しないばかりか殆ど歩いていなかったのも大きいかもしれない。心理的にも勿論あまり良くない。それでもまた習慣になるとペースがつかめて来る。長い11月を過ごして小春日和というには早いが待降節前に束の間の晴れ間だった。

それでも朝が辛い、早めに就寝した筈でもなかなか床離れが悪い。疲れが残る感じであるので、やはりぐっすりと就寝することが必要だろう。なかなか許される状況にないので厳しい。

送る郵便があったので切手の在庫などを調べた。ポストに投函する1000gまでの郵便は2,75ユーロ掛り、それが二つあるので、追加で切手を発注していく必要があったからだ。然し調べてみるとそのサーヴィスが殆ど無くなっていた。冬にはあったのだが、緊急性がなく、追加購入したいものを買いそびれた。残っているものを保存用にしなければいけない。

恐らく発行数を減らして、在庫を極力抱えない様にしているので額面の高いものしか残っていない。シートで買いにくいものである。今後は適当な額面の良いものは早めに十分購入しておく必要がある。

今回の送料では安い記念切手を何枚も貼るのは惜しいので、ネットでの券を購入して貼り付けることにした。二つで5,50ユ―ロである。会計書類なのでそれでよいだろう。

一時はバターが品薄でなかなか特売品が買えなかった。それも落ち着いてきたようで最新のものは期限が2月15日迄なので安心して使える。パンもバター以外のものを塗ればそれ程使わないのだが、古いものは料理にも使うので、やはり消費量は少なくない。

ダルマイーヤのプロドーモも次の特売の暮れまでには確保したが、それまでに切れることもある。丁度クリスマス時期なので、ミュンヘンで6月に購入したとっておきのものを開ける時だろう。

最近はワインの消費を落としているのだが、そろそろ待降節間の開け方なども徐々に計画して行かないといけない。クリスマス用に肉類の注文もあり、また出来る限り試ながら徐々にいいワインを開けて行きたいからでもある。次の温かそうなときに散髪の予約も入れておかないといけない。



参照:
お試しにのシュトレン 2024-11-26 | 料理
放射冷却の待降節初日 2023-12-04 | 暦
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深く息をついてから

2024-11-27 | SNS・BLOG研究
水曜日のボストンでの批評が出ている。同地の音楽ブログのようだが、前回もそのサイトを読んだ。前回は、マーラー作曲七番交響曲ではなく、もう一つのコルンゴールトの交響曲のプログラムだった。つまり今回初めてペトレンコ指揮の真価が問われるところとなった。その通り、ユダヤ系の筆者がその合衆国での音楽の流れの視点から書いていたりした。それに比較すると今回は交響曲における指揮者の構成力と等される見識が試されることになった。それは一夜のプログラミングによって語れれる物とはまた異なる楽曲の創作への深い視点が要求されるものだ。

筆者のゲンツ氏はケルティックと文学をハーヴァードで学んだようであるが、楽曲への個人的な視点は明白である。恐らく録音評などもしているのだろう、楽章ごとの演奏時間や主題のテムポそしてその動きに注目している。炬燵記事の音楽ジャーナリストと言えるかもしれない。

先ずは、ベルリンとは異なってボストンでこの曲が演奏されるのは珍しくて、1959年、2007年の演奏とゲストとしてはマゼール指揮クリーヴランド管弦楽団以来としている。要するにブルックナーはあまり人気がないということだろう。然し今回はネット販売で完売していたので指揮者と楽団、ブルックナーにとっての成功と書いている。

比較としてネーヴェ・ヤルビの採ったテムポで62分の演奏、チェリビダッケの90分そしてその中間にあるベーム、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュらの中間では、アレグロは早過ぎず、二楽章は遅すぎずの70分ほどが適当だという認識から入っている。

そこで、結論からするとペトレンコ指揮では一楽章は若干早くても、二楽章は若干遅くても、フィナーレのコーダはもう少し大きくても良かったのではないかとしている。要するに個人の評価基準は録音比較でしかないかもしれない。然し細かなところでの拘りはあって、20分掛った一楽章でのテムピ運びにおいて、主題でピアノからフォルテシモへの繰り返しで多くの指揮ではそこで吹かすのだが、楽譜にはそうなっていないと、ペトレンコ指揮の正しさを指摘している。二主題でも悲しみはあっても後悔とはならない、三主題の加速は伝統通りとしている。それらを以って、構造的な把握を評価している。これをその指揮技術的なこととはせずに音楽的と考える筆者である。

二楽章は16分のようで、ポリリズムの扱い方が今迄には聴かれたことがないとしていて60メトロノームはアダージョの限界であるが、その「とてもゆっくりに」は、マーラー自身がアダージェットを交響曲五番で使った様に、マーラー自身の指揮に合わせるとそのもの16分になるだろうと算数をしている。つまりカラヤンの22分やチェリビダッケの24分は間違いとなる。

13分の三楽章では電光石火のスケルツォとその後のレントラーのヴァルツァーへの流れなどを、多くの指揮者がテムピを落としてしまって、レントラーが更に遅くなることがなかったと評価している。

ブルックナーの言葉として、最初に「大切なことを話す時には、いつも深く息をつくのだ。」と提示されているので、テムピとその拍の関係には直接言及されていないが、間違いなくそこに気づきがあったのだろう。(続く



参照:
Petrenko & Berliners Triumph in Bruckner 5, Jeffrey Gantz, The Boston Musical Intelligencer of Nov. 21.2024
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
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