Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

蝶々の少女売春の悲惨

2025-01-28 | 文化一般
承前)そのプログラムでベルリナーフィルハーモニカーによる委嘱作スルンカ作曲の超有機新作が演奏されますが、一体何処があなたを確信させたところでしょうか?

先ず新しい作品の場合には一人称によるメッセージがあることで、容易くは管弦楽団に任せるとはならないところなのです。其処ではコルレーニョで、あそこではフラジオレット奏法とか、何よりもその創作家の独自性が分かることを尊重します。それはまたただ単に和声的に響くかもしれない。2023年にはリザシュトライヒの「イシュヤルタ」を初演しました。彼の素材は全然特に変わったものではないのですが、個性があります。

作品のどこにそうした個性を見出すのでしょうか?ある種の感受性でしょうか?

それだけではないです。多くの作曲家は生きていて、個人的な接触がその評価に役に立ちます。

復活祭のバーデンバーデンでは、その後ベルリンで蝶々さんをベルリナーフィルハーモニカーで指揮しますが、取り分けとくべるな特徴があります。先ずはピンカートンとの関係での自己犠牲、そして最後には自死する。この特徴や役をどのように思いますか?

先ずは役に取り分け求められるものであり、それは持っている声だけにではなくて、まず一幕において、蝶々さんには素朴以上に大きな存在でないとということが求められます。抑々彼女が語る様に15歳の少女でしかないのです。その強さの背後には、彼女には揺るがすことがない結婚や愛に対する理想への強い想いがあるのです。そうした二重性のある不屈で最強の強靭さが難しい役としています。当初のそうした素朴さは、慣習からあるべき姿であるものがただ外面的に演じられる。彼女の環境は、現在での少女売春となんら変わらない人身売買の恐ろしい社会状況でしかありません(注五)。

ということは、最終景での決断は既に最初から定まっていたということですか?

その通り、最初から最後まで一貫して彼女は強い意志的で情熱的です。それは、彼女を玩具にした人に子供を授けて、その人を自由に幸福にするという殆ど宗教化される自己犠牲であります。

プッチーニはその総譜に日本の音楽を散りばめましたが、それをどのように扱いますか?

そうした東洋趣味は当時一般的でした。例えば、マーラー、シュトラウス、ツェムリンスキーやドビュシーにおいても。それは統合化された中での一つの要素なので、何も特別なコンテクストがある必要はなかった。勿論蝶々さんには、アジア的ペンタトニックや中華の打楽器や日本の鐘があります。プッチーニは極東の音楽要素の模倣をしたのではなくて、悲劇の内包をそれによって果たしていて、独逸やクロアチアやオーストラリアでの話ではないということでを示しただけなのです。


注釈五、如何に日本人が着物着立てや意匠ががおかしいと苦情してもプッチーニの芸術とは嚙み合わないことぐらいは認識しないと、お話しにならないことぐらいは自覚すべきである。(続く)



参照:
鋭い視線を浴びせる 2018-07-16 | 女
「南極」、非日常のその知覚 2016-02-03 | 音

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