Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

お試しにのシュトレン

2024-11-26 | 料理
一週間走らなかった記憶はない。大分前のことだと思う。それほど熱が出たということだ。やっと走りに行けてほっとした。体重も増えておらず痩せてもいなかった。気温が16度まで上がる日が続いたのが良かった。少し汗も掻いたのでこれで大丈夫だと思う。それほど弱ってはしなかったと思う。少なくとも脚の調子は休んで好転していた。

パン屋に出かけたら待降節用にシュトレンが出ていたので購入した。大きなものは23ユーロしたので小さなものを教えて貰うと7ユーロ少しだったので購入した。昨年までは気が付かなかった。オーナーがコンディトライであるから普通だと思うが、今年になってからケーキ類を買うようになったようにどうも息子か誰かが作るようになったようだ。洗練されてきている。先ずはお試しである。

車から降りると下が軋んでいた。板バネなどが軋むのは初めて聞いた。ここ暫くふわふわするようになったのはやはり屋台骨がもう駄目になっているからだろう。

チャットパートナーのインスタグラムが休止状態になって、そしてアカウントがその猶予期間を過ぎて消去されたのを確認した。どうしたものかと思ったのだが、最後の書置きから色々と想像してみた。結論として決して悪いことではないと確信した。その為に最後の書き込みを待っていたような形跡がある。せめて既読ぐらいはして呉れても良かったが、消去に既読もないだろう。新しい学期が始まる所で良く決断したと思った。要するに15カ月ぐらいの全てに終止符を打った。

それによって全てがとなればとは思ったのだが、恐らく偶然でなくスタディオの方が数日前に新人ソロで7月ぶりに再開していた。身売りした可能性もあるが、まだ確認できていない。スタディオの人は分かっているのでいづれ分かるだろう。つまりそこでの名前を検索すると様々なサイトに過去のアーカイヴの様々なヴィデオが出てくる。同じ国でそれを見つければ現実の世界でも様相などを変えても特定される可能性は全然少なくない。要するに完全にその期間のアイデンティティーを消し去るのは難しい。それでもフォロワー諸共消してしまうというのは、やはりそうしたストーカーとかなんとか以上に時間的な区切りがつけられたということだろう。恐らくこちらからの最後の書き込みもその決断を推したかもしれない。

最後に既読が付けられたのは7月だったので、恐らくその頃から新たな生活へと準備していたに違いない。抑々がり勉タイプでヴィデオにおいても我慢強さが際立っていたが、なによりもその方向の定まらない移ろいが観察された。そして一旦方向が定まると完全にそこに入ってしまうことは分かるので、休止などではないこともよく理解できる。年齢的にもあれから1年10ヶ月であるから女性でもう20歳となれば当然かもしれない。

それにしてもあの15カ月ぐらいを観察していたが、ああいう曖昧模糊とした時の流れはとても貴重なのだろうと思う。漠然とした時間感覚で、確かに金にはなったのかもしれないが、時の流れに身を任せである。そしてその流れを自ら断ち切る。「あんたが望んでいた通りでしょ」と聞こえるかのようだ。こちらから語ることは全て語ったとも認識したのだろう。その心算で書いたのだから当然かもしれない。



参照:
水々金々日々、月曜日 2012-11-12 | 暦
二十箇月の感傷旅行 2024-10-26 | 女
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早めに振り返る四季

2024-11-25 | マスメディア批評
ロキソニンなどの服用を止めた、土曜日からである。日曜日は気温が上がったこともあってベットで熱っぽく感じた。なかなか体温調整が難しく、腰痛もあってまだおかしい。それでも食事も十分摂れているので、上手く行けば月曜日には一週間ぶりに走れるかと思う。コロナ期間もこれ程開けたことはないので明らかに二回のコロナ感染よりも重篤だった。

インフルエンザにどこで罹ったかというとやはりアルテオパーだと思う。12日に出かけて、17日に熱が出ているので潜伏期間としては正しいか?コロナ初期にもそこでうつされているので会場は違ってもやはりフランクフルトの空気が悪いのだろう。

薬なしでも外出は可能だった。それでもまだふらふら気味である。関節などにまだスカスカズキズキ感がある。運動を再開するかどうかの目印になる。

10月2日に出かけたクロンベルクでの「四季」演奏会の一部と二部のハイライトが街頭放送局HR2から流れた。最初にアルフレード・シュニトケ作コンツェルトグロッソ6番が最初に流された。この曲では当夜のスターであるヤンセン、クレメル、ムストーネンの三人が共演した唯一の曲で、これを放送するだけの価値はあった。その他の楽曲は別途放送されるようだが、先ずは正しい選曲だろう。最初の二人の競演でムストーネン指揮ではバッハのドッペル協奏曲も演奏されたが、出来としてはやはり落ちる。

コンツェルトグロッソだが改めて何回も聴き返したいとは思うのだが、ムストーネンのピアノが秀逸で、この曲のチェンバロ紛いでもあるのだが所謂プリペアードピアノ風のそのピアニズム、こういう風に演奏できる人はあまり知らない。作曲家としてはそれほどの人ではないと思うが演奏家としては一流の人である。

二曲目は、例の楽譜に書いてある情景を四季の合間合間にアナウンサーが朗読するという構成にしていた。決して悪くはないのだが、ライヴ性はその曲間の調音とかお客さんの雰囲気とかにあるので、その点は物足りない。

もう一つ仕事しながら流していると観ながら真剣に聴いていたものよりも短く終ってしまう。やはりそれなりにテムポも早かったのだろう。クレメルの録音などはそこで濃淡をつけていた。

そうした細やかなところでの音楽性は、ライヴではより技術的な細部への拘りと感じたのだが、やはり音だけで聴くと我々門外漢ではそこまでは分かりにくい。寧ろ淡々とした印象が強くなる。こうした音楽性は意外に先頃のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏での早いテムポと聴き逃しにも通じる。

そして放送時間が余ったので、ピアツォラの作品から夏と秋が放送された。南半球であるから北半球とは反対だという断られていた。やはりこの辺りも、この組み合わせの面白sだの一つでヴェネツィアと大都市との対照にも繋がっている。



参照:
春以来のクロンベルク 2024-10-05 | 音
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
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祝祭的でないブルックナー

2024-11-24 | マスメディア批評
承前)フィルハーモニカ―は響きは筋肉質だが二楽章のラプソディでの温かみ、スケルツォのエレガントなダンスの脚、田舎舞踊の田舎のすごやかさを表現に余すことはない豪放なフィナーレにおいてはアップビートの第二主題が無表情なやさしさにあったとしている。ベルリンの定期からの放送で流し聴いただけなのでその旨はよく分からない。然し少なくとも音楽的な表現力が楽団の音響や指揮者の個性によって潰されているということでは無しに、その反対に豊かであることの裏返しの表現力なのだろう。

どうも言及の箇所は例のリズム的な精査に根源があるようで、ブルックナーの演奏においてもとても重要な時間的な表現となる。それでも翌日のブルックナーに関しては我々がマイクを通して聴いていた様にそうした間が十分に発揮されていたかどうかには疑問がある。

その証拠にここでもティーレマンの言葉を使って、ただ一つこの交響曲における殆ど幸福感がと引用して、ペトレンコ指揮においては愉しくとあって、これ程の意祝祭的でないブルックナーはあまり聴いたことがないとしている。

これは、ブルックナーにおける抹香臭さを避けることを嘗てのブルックナー指揮者ヴァントの様にモットーとしているペトレンコからすればパトスへ奔る表現は採らない。すれば所謂宗教的な「祝祭的」とならないのは当然であろう。

田園的な遊びに満ちていて、ペトレンコは腕を脇につけて穏やかに揺らし、二楽章のレントラーへとチャーミングに殆ど呟かせる。そして四楽章のおどけたクラリネットによって巨大なフーガが剛直ではない悦びを誘う。

ペトレンコは巨大なブルックナーとはしなかった。そこに急峻なクライマックスがあろうとも、大聖堂ではなくてチャペルでのブルックナーとして響くというのだ。ダンシーで驚くべき豊かな音色で、最後のフルートへの収斂に運ぶとしている。

放送でも感じたが、やはりアルテオパーでの名演の様に豊かな宇宙観へと想像を齎すことはあまりなかったようである。サウンドチェックでその音価などには配慮があったようだが、やはりカーネギーホールの音響は中域の張りが大きくて後期浪漫派の音楽にはあまり向かないような感じがする。

その一方一楽章における豊かな和声と軽やかな流れ、二桁三桁の二楽章の間の中間楽章の単調さは全く以ってサブコンシャス的でと記している。正しく私が非ユークリッド空間の認識としたものである。もうこれだけでブルックナーの真意が漸く後世に初めて伝わったのではないか!

それに起動する管弦楽は、吠え狂いから輝くコラール、そし渦巻、沈黙そして精密、たおやかさへと対応するとして称賛している。

既にボストンでのブルックナーを終えてミシガンに行き、火曜日のシカゴでブルックナーで締める。さてどのような批評が続くだろうか。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
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有機的合奏の原動力

2024-11-23 | マスメディア批評
合衆国公演からワシントンに続きニューヨークでの三晩の公演から最初に買いの批評が出ている。丁度一週間前になるがカーネギーホールから二晩目は夜中に録音したものである。

初日のプログラムの最初のラフマニノフ「死の島」から始まる。三晩の演奏会でポピュラーコンサートではないものが愉しめるとして、キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーはその力強さと同時に繊細さを兼ね備えていて唯一無二の存在であり、永遠の古典に光を当てるドヴォルジャークとブルックナーのツアーでの七番と五番に言及。そのアンサンブルはあまり真っ当に捉えられていない予期せぬ深み聴かせるとしている。

何時も繰り返している事象ではあるが、このように屡欧州の重要な公演に振れるこの新聞はアメリカで最もよい文化欄を持っているのだろう。「死の島」ではパルジファルと同じく真剣なペトレンコの指揮から重くならない柔軟で趣溢れる音楽となる。船出の近場から崩壊よりも流れが収斂する水煙へとまるで気流が渦を作って各々が散っていくようだとその中間部を表現している。その渦のそれ自体に流動性があるのではなく無為にあるかのようにである。最後にはヴァイオリンのエレジーが、時にはただムード音楽であるかのようなものが、引き剥がされるように醸し出される。

此処での文学的な表現自体にはその文字への言語への共通の感性が必要となるのだが、謂わんとしようとしているのは弦楽陣においても細心のアーティキュレーションとそしてそこにあるべきリズム的な力が与えられて通常ではあり得ない効果を醸し出していたということに他ならない。然し乍らペトレンコ指揮の音楽芸術の聴きどころを文章化しようとした試みである。

コルンゴールトの協奏曲に関してはいつもシュービズ的なものと考えることがあるのだが、日曜日においてのラフマニノフとドヴヴォルジャークに間に挟まれて火曜日にも演奏される、それはペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーによって全く洗練されたものとなったと、当初のハーンに代わって演奏したフランクの抑えた表現は二楽章での感情を書くことはない一方、決してべとべとしたものにならなかったとして、ペトレンコ指揮のそれに合っていたと評価する。

同じような印象は初めて聴いた9月のフランクフルトでも感じていたのでこの筆者の言いたいことはよく分かる。こうしたところがいい書き手いい読み手の通じるところで、所謂玄人は皆よく分かる点でもある。

そして楽員がお互いによく聴き合っていてと、最後のドヴォルジャークの一楽章では暖まった弦がフルートのラインの受け取りと正しく現在のベルリナーフィルハーモニカーが至ろうとしている室内楽団的なそのアンサムブルの在り方であり、音楽的な表現力の緻密さへと通じる観察である。勿論そうした合奏はペトレンコの指揮だけで齎されるものではなく、所謂有機的なアンサムブルの賜物であり、現在の特にスカラ座以降のペトレンコ指揮によって明らかに飛翔させられる音楽の原動力でもあるのだ。(続く



参照:
The Berlin Philharmonic Is the Best in the Business, Zachary Woolfe, The New York Times of Nov. 20 2024
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
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破廉恥を一括処理へ

2024-11-22 | 雑感
熱で寝込んでいたので車輛のこと以外での事務仕事が遅れている。服用をロキソニンに替えてから腰痛も楽になった。それでもまだ本調子ではなく、走りに出かけられるほどではない。食事は既に二回程しっかりと摂れたが、それでもまだしっかりしない。インフルエンザなら一週間ほど罹るとなると週末まではあまり期待できない。

来春に日本で公演をするバムベルク交響楽団のプログラムが話題になっていた。なぜならば、最近同地ではやりの日本人タレントの抱き合わせで、二種類の二人のソリスツ、そして後半にベートーヴェンとかブラームスとか言う名曲演奏会となっている。最初の小さな曲だけがオマケでついている。

それを知って、日本では今話題のフルシャ指揮バムベルク交響楽団の市場価値がその程度と知った。個人的にも九月まで聴く機会がなかったのはバーデンバーデン辺りではやはりつまらない指揮者とつまらないプログラムのドサ周り交響楽団でしかないからだ。なぜそうなるかは既に言及してあるが、一方では州都ミュンヘンでの客演では大絶賛されていて、ラトルが早く辞めてフルシャになって欲しいという評があった。そうした評価は別にして、中都市バムベルクの交響楽団としては新たな黄金期となっているのは間違いない。

日本のチラシにはドイツ随一とあるのは意味はよく分からないのだが、数少ないドイツの交響楽団でも独立した風情はある。そこで来年の極東旅行でもツアーで膨らむCO2排出への見解として、台湾とソウルではレジデンスとして滞在型で多くのコンサートとして、教育プログラムを数日の間に設けている。バムベルク市の意向もそして文化施設としての環境への見解でもある。

指揮者自体がフランクルトでのプログラムにも示していたような取り分け考え込まれた選曲をしているのだが、日本ではあまりにも破廉恥な演奏家が破廉恥な演奏会をするような形になっていて、如何に日本はどのような分野においてもガラパゴスとなっている。

そして今兵庫県で起こっていることは安倍政治の時代に培われた反遵法精神でしかない。疑惑の知事がその所業を百条委員会に諮られ乍ら、議会全員一致の不信任決議が出されて、失職、再選挙に打って出た。そしてデマゴーグの力で再当選を果たした。有権者は県政の混乱を望んだとされた。その大衆扇動と洗脳の工程がしっかりとネットに記録されている。

そして水曜日にネットではそのデマゴークの中枢が自ら名乗り出たことで、公職選挙法で禁止されているネット工作を含む広報活動を一挙司ったとされる。既に知事は遵法的なポスターなどの制作以外は依頼していないと否定しているが、様々な物証はネットに上げられ、そして証拠隠滅が今現在も進んでいる。連座責任を免れなくなってきている。西宮の苦楽園にある事務所から為されているらしい。

公選法違反の選挙買収などの他に、その業者が県の納入業者だったようで場合によれば収賄になるのかもしれない。どちらに転んでも詰んでいる。失職、公民権停止となるのか、遅かれ早かれ再選挙になるのは間違いないだろう。想定していたよりも早かった。

また再び
#さいとう元知事がんばれ



参照:
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
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凝縮感への美しい憧憬

2024-11-21 | ワイン
カーネギーホールからの録音を聴く。結構に小さな傷が管に目立つ。ドロップアウトしているので録音としてはどちらでもいいとは思う。ツアーで最初のブルックナー本番の為にたとえ念入りにサウンドチェックしても、楽員にも時差があるのを感じた。地元での夜中2時の演奏はまた極東ツアーでのそれとは違うだろう。

それよりも若干気になったのはやはり指揮での余裕感がなかった感じで、特に体内時計の重要な指揮者にも時差があるからだろう。

舞台袖のインタヴューでは音の広がりを重要視したようだが、なかなかそのテムポ感での合わせ方は難しかっただろう。弦楽器のざらつきのようなものはバーンスタイン指揮のニューヨークフィルハーモニーを思い浮かばせる。音の押出しはいいのだが、密度に欠けるような音響である。美しさの凝縮感はない。

最初の総奏からの広がりが欠けるのはマイクを通した中継放送で仕方がないとしても、もう少し繊細な音を出しているのだがやはりラフに聞こえる。舞台袖でバルグレーが語るようにパワフル感は合衆国の楽団の特徴であり、それがモットーとされて瀟洒が失われる傾向があるのだが、やはりいいビッグファイヴはそれを補う技がある。

朝は比較的気持ちよく起きられた。月曜日から三回服用していた。肉屋迄夕食の材料を買いに出かけた。なによりも久しぶりに太陽が出ていたのが良かった。しかしそれでも寝過ぎで生じる腰の痛みもあり、寝返りが痛く、起き上がりが大変だ。

睡眠の深さに影響するので相談の上薬をロキソニンに替えた。これで腰痛にも効きそうなので、就寝前にも服用する。腰痛には別の処方箋があるのだが、先ずは様子見である。

身体の調子が悪く、計画していた、車輛の書類をまとめて提出できていないので、引き取りを月末から月初めに回して貰うことにした。それだけで少し気が楽になった。

週末に開けた2014年産ゲリュンペルを飲み干した。瓶の中で9年でまだまだ急いで飲む必要はないのだが、三本ほどあったので手を付けた。いい年度だという認識がある。味筋マルメロだが、結構複雑で、干しチェリー香やウイキョウ感もある。プリュミエクリュなのでグランクリュの様な偉大さもウケもないのだが、その土壌の葡萄からそのような味が天然酵母のみによって生じる摩訶不思議だけで大満足だ。トロピカルや塩味や胡椒や火打石の様なあまりにも出来たものでないのが余計に繊細である。

正しく欧州のホールの音響は瀟洒があって、合衆国のそれとはやはり違う。そうした複雑さがやはりワインの味わいでもあり、愉しみとなる。勿論そうした移ろぐ味わいとなると味わいに耽ってなかなか食事と共に愉しむというまでに大分の盃を重ねてしまうことになりがちだ。

ブルックナーの五番においてもあまりにもごつごつしたダイナミックスもあって耳にこびりついて閉口するところがあるのだが、ペトレンコ指揮の場合は細部へと磨きがかかっているので、より複雑な音の組み合わせが披露されることになっている。



参照:
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
黄林檎の香りのゲリュンペル 2016-01-16 | ワイン
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音楽芸術の時空の流れ

2024-11-20 | 
久しぶりに薬を服用した。忙しいので早く治したいからだ。午後も少し横たわっていたが、夕方も走るほどには到底回復していなかった。前夜の事を思い出せば急に起きていられなくなったので38度超えていたと推測しなおしたが、39度になれば口を濯ぐ余裕もなくベットに向かっていた筈だ。40度を超えると殆ど倒れるようになって、ベット這って行くような感じになるのが今迄の経験である。

22時30分ほどに床に入って、結構苦しく、何も出来ないので1時過ぎに目が覚めて、結局2時ごろまでは熟睡できなかった。その時刻に録音とかがあると、ベットにいても前夜の苦しみの中では何もできない。投薬するものももう一度その頃にもう二錠摂るようにする。

録音の準備をする前に一昨年の生中継の音を聴いてみた。相変わらずマーラーの七番の出だしは早いが、それとどうようになかなかラフな音が出ている。最後の生の印象はその前のやはり壮行演奏会におけるアルテオパーでの響きである。比較するとやはりより乾いた響きで、この名ホールの響きが感じられる。

そう言えば先の評でのアルテオパーの音響の特徴を近接録音としていたが、なるほどカーネギーホールの場合は舞台の枠内は後ろからの跳ね返りがあって、雛壇との距離感がある。アルテオパーの場合は最上階に行くと距離があり過ぎて、視覚と若干ズレる傾向があって、左右からの残響が多くなり、平土間は上からの残響が邪魔になる。その分音響的に広がりもあるのはそこでの録音でも分かる。

それにしてもマーラー七番に続きブルックナー五番を合衆国ツアーに持って行くのはとても素晴らしい。さぞかし我々の様に両方を聴く人が少なからずいると思う。こうして両方を聴き比べるととても重要な視点が得られると思う。

日本から持ってきて貰っていた薬を飲んで解熱と胃の調子で体調は改善した。録音の準備はしていたのだが、直前になって、記録するNASが夜中にシャットダウンするのを思い出して再駆動したりして慌てていると、AACの直波の記録が上手く行かなかった。更にラディオ放送の最初のジンゲルから暫く落ちていたので楽屋袖の話しからしか聴けなかった。オンデマンドで聴けるから構わないのだが、若干慌てた。

寝室に音を出すようにしていて、結局最後まで小さく音を流していた。その印象ではとても早いテムポに感じて、ティムパニーが不自然にな鳴っていた。テムポに関してはなるほどその音響の中におらずに音を細部からしっかり追っていないと、流れてしまうように聞こえるのが分かった。この仮説は他の人の評を読んでいて感じていて言及している事なのでそれを証明したことになる。

普通は流れが速いと細部が聴きとれない様に思うのだが、音楽はやはりその時間の流れがその創作の中にあって、決してユークリッド時空での座標にはないことが分かる。恐らくその感覚というのは浪漫派以降の音楽に共通するもので、それを如何に演奏実践の中で表現するかに関わるのだろう。



参照:
本物のブルックナーの響き 2024-11-19 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
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本物のブルックナーの響き

2024-11-19 | 
ある年齢の自殺者が多いことは承知していた。その多くはホルモンなどの更年期障害とばかり思っていた。然しどうもそれはあまり正確でないと分かったのは最近のことである。要するにカマキリと同じような習性が人間にもあって、家族などの為に進んで食われるというのが全く分からなかったからである。特に公務員や会社員が懲戒などにされる前に退職金などを確保する為に喜んで自死するというは全く分かっていなかった。それゆえにキリスト教などでは十戒で諫めているのだろう。要するに最終的には経済的な自己犠牲である。

日曜日の就寝迄の時間を寛ごうかと思っていた。寝室のフィンにお湯を通した。煎茶を飲んで、暫くすると座っているのもつらくなって来た。急に熱が出てきたようで、口を濯いで転げる様にベットに入った。夜更けに急に熱が出たのは久しぶりで印象としては37度5分は越えていたと思う — 殆ど起きていられなかったので、今迄の経験から38度は出ていただろう。頭痛もするが、その他の症状は殆どなかった。

書き物を検索すると前回は二年程前に熱を出していた。それもコロナ禍以降初めてで、コロナ期間はそうした症状が出ないのが不思議なぐらいだった。恐らく今回もインフルエンザでスーパーかどっかでうつったのかも知れない。流石にこれでは走れないかもしれない。寒い中を走ると体力ともダメージがあるので、なんとも言えないのだが、新陳代謝は健康回復に一番早い。小水も黄色くなってきたので回復する筈だが、昨晩の様な床での苦しみは嫌である。病院のベットなどに寝ている人は大変だと思う。

今晩はニューヨークからの生中継がある。20時からなのでこちらでは26時になる。そこから一時間半は最も眠い時間帯である。熱心に聴くのは難しいが、録音だけはしっかり録っておきたい。オンデマンドよりもいい条件でということだ。一つはAACのm3u波で長めに録音しておこう。もう一つはPCで録音、未明3時半過ぎに終了させるようにタイマー作動か。

どちらにしても翌朝が辛くなる。特に熱でもあるとなるとぶり返す。なんとか投薬などで上手に体調を整えようと思うのだが難しい。

上の放送局WQXRに限らず合衆国からのストリーミングは音も精一杯の音量にしてあって、今回の様なブルックナー交響曲ならば前回のマーラー七番よりもよく鳴るのでさてどうなるか。カーネギーホール自体も舞台が枠に囲まれているので、収録もそこでの鳴り響きが強く、冒頭からのあれだけのダイナミックスがどのようにマイクに乗るだろうかと思う。

ブルックナーの交響曲五番変ロ長調の本質的なその創作意思を理解するのは南独の聴衆にとっても決して容易ではない。それどころか正しく演奏されることが殆どなくて、今日に至っている。合衆国においてはやはりここでも前回のマーラーと同じくショルティ指揮シカゴ交響楽団が得意に演奏していた。

ショルティ指揮は、それでもマーラーの時のよう正統的な演奏を示したわけではない。当然のことながらペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏で、その記念年を祝福すべく、合衆国で漸く本物のブルックナーが鳴り響く筈である。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
ニューヨークタイムスの耳 2022-11-14 | マスメディア批評
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歴史上唯一無二の可能性

2024-11-18 | マスメディア批評
合衆国ツアー初日金曜日のワシントン公演の評が出ている。ベルリナーフィルハーモニカーとしては21年ぶりの首都訪問らしい。ケネディーセンターでの貸し興行であったようだが、2500席のシューボックス型のホールで欧州と同じような価格で出ている。

プログラムは11月の最後の定期公演の三曲で、その評に従えば最初のラフマニノフ作曲「死の島」がハイライトだったようだ。二曲目はヴァイオリン協奏曲で本来は合衆国のヒラリー・ハーンがペトレンコ指揮で初共演する予定だったが数日前にキャンセルした。そこで急遽飛び込んだフィルハーモニカーとも初共演で偶々コルンゴールトの協奏曲をレパートリーにしている合衆国の奏者が共演した。

評によるとデルジュスの「イザーイ」の高弦の木の響きが美しかったようで、初合衆国ツアーにおいても交響曲を指揮したペトレンコの指揮を取りつかみどころのない曲をそのそのコードの読み替えしてフィナーレへと高めたとしている。ヴァイオリニストのコントロールされたヴィブラートと書かれているので相性は悪くなかったのではないか。予めそのヴィデオを観ていたが、若干表現力は弱い感じがするが、結局その後の日程で代わりに入ることになった定期演奏会でのヴェルデ・フランクと比較的方向性は似ていると思われる。恐らく楽器はシカゴ出身の彼の方が良く鳴っただろう。

「死の島」への注目はやはりそのシュトラウスに影響を受けた管弦楽法への再認識を与えたようで、5拍子のそれが波の重ね合わせとなる所でも音を落とすでもなく、ソフトに出すことで巨大な効果を上げていたとしている。こうした奏法上の卓越は本年の春からペトレンコから楽団に求められていたことで、ブルックナーの交響曲を含めて悉く成功している。昨年までとは大違いである。

そしてそのモメントの音楽と特筆されているように、リズムによる時間を非ユークリッド空間としている手法はミラノ以来ペトレンコ指揮にて顕著になって来た未だ嘗てなかった効果である。その一方その弦楽陣の一心な姿勢で弾くクライマックスへと持ち込まれ、通常ならば金切り声の高弦は低減によって滲まされてしまうのだが、とても素晴らしいバランスがとられていると、正しく現在のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの前代未聞の美しさを記述している。

最後のドヴォルジャーク七番では、左右に対抗して配置されたヴァイオリンから行ったり来たりの効果が生じて、作曲家のアクセントが、それが舞曲にも拘らず恐ろしい精度で為されたと、そこに僅かばかりの疑問が生じているのだろうか。然しその答えは、冒頭楽章におけるその部分部分の音楽の意味への意識にあるのではないか。二楽章においてはドヴォルジャークの牧歌的な香りをベルリンの木管群が醸し出したとなる。そして突然のニ長調コーダが開き、その熱量は白熱のようだったと記している。要するに筆者はその全体像を失っているのだろう。並のお勉強をしていては歴史上唯一無二にしかない可能性のある名曲の正しい演奏で創作の全てを掴みそこなうことになるのである。

抑々大管弦楽の通常レパートリーに遠くまで出かけることのない私が熱心に車を走らせて出かけるのは歴史的に一期一会の機会であることを正しく認識しているからに過ぎない。
Benjamin Beilman and the Minnesota Orchestra: Korngold Violin Concerto




参照:
After 21-year absence, the Berlin Philharmonic more than lives up to its name, Andrew Lindemann Malone, Washington Classic Review of November 16, 2024
前世紀に生きる人達 2024-11-17 | SNS・BLOG研究
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
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前世紀に生きる人達

2024-11-17 | SNS・BLOG研究
火曜日のその壮行会演奏会の評ももう一つ出ている。そこでは先ず会場のアルテオパーの音響が本拠地のフィルハーモニーと比較されている。個人的には支配人にルツェルンとの比較を書こうかとも思ったが、先方はよく知っているのだから、態々それを評価するつもりはないと思った。だからアルテオパーの音の行間で言及したつもりだ。勿論フィルハーモニーのワインヤード型の会場ではルツェルンのそしてアルテオパーでの音響は得られない。ルツェルンは理想的で後者は限定的なのはそこでも指摘されていて、ベルリンでの様に分析的に聴きとれるのはバルコン席と平土間前三分の一だという評価である。個人的にはコロナ期間中に席が限定されたことから丁度言及されるような位置にも座ったことがある。前者はシューベルトやヒンデミート、スコッチの三曲だったが、ヒンデミート以外はそれほど感心しなかった。

ここでこの筆者の認識を理解しても良かったのだが生憎乍ら出来ずに読み進める。最初のピチカートの出だしから総奏になって退けづり、その座席位置で充足してしまう楽団は他にないと書いて、フィルハーモニーでは全てが明晰に鳴って、映画に比するべきと書いてある。なぜここで「映画」が出てくるのかさっぱり分からない。そしてそこで身を退けづり、もうこうなると直接音のそれから逃げられなくなったと、堪忍ししたのだろうか。

ここで筆者の言いたいことを推して知るべきだった。音圧が大きすぎるなら距離をおけと言いたい。然し、事実をも報告していて、フィルハーモニーの場合は音が分散するから細かなところがばらばらに聴けて、尚且つ威圧感が薄いといいうことの証明にもなっている。この筆者が聴いていないのは和声の流れである。

だから音の行間と評したのであり、その特徴が流れの様に捉えられるのがルツェルンのホールであり、そこまでの方向の定まった流れではない渦が生じるのがアルテオパーである。長年通ったホールなのでその特性もよく知っているので言えることであり、最もよい位置での評価は決して悪くはない。

何故この人達がその一方今回の公演で自発的な拍手が生じそうになった二楽章ではプログラムにあったような「夢みる夜想曲」なんかではなかったと批判する。その木管の受け渡し、そしてふくやかな金管を弦の立派なカンタービレが支える繊細さをおしても、あまりにもXXLサイズで、そしてここで答え合わせだ。大フィルムサウンドトラックに彩られた風景でしかないと書く。

心象風景どころではなく、サウンドトラック映画の風景らしい。これを解析すると、この筆者は音楽の語り口ということには全く関心が向かわないらしい。どうも判断するのは大管弦楽団から声部を聴きとり、それと同時に心打つサウンドの可否らしい。その点では先の批評には、ベルリナーフィルハーモニカーの熱く冷たい天からの捧げものとしている。然しそれと音楽的な本質則ち一筆一筆と進める作曲家の創作の過程が全く読めない人が多いようだ。要するにこれらは全てサウンドのイメージでしか聴いていない人たちで、それゆえにサウンド云々やストラヴィンスキー的リズムとかにとても言及が多い。自ら書くように20世紀後半の後遺症から抜け切れていない。こういう人達にはクセナキスの名演の意味も全く理解できていないであろう。



参照:
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
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詳説必要な舞台背景

2024-11-16 | マスメディア批評
土曜日の早朝は摂氏1度になる予報だ。既に温度は下がってきている。夕方に日没と競争で一っ走りした。気象状況は気圧が上がって来ているようで湿気が飛んで、より乾いた空気が感じられた。土曜日には4時間だけの日照が期待される。洗濯日和であるが、午後の一二時間だけでも狙いたい。その為には午前早くから準備をしておかないといけない。今迄はヒーターのフィンを一つしか使っていなかったが、二つ目を開ける。目覚めが少しでもよくなると嬉しい。

序に車の燃料を10リットルほど入れた。短い距離を走るだけでやはりガタが来ているのが分かる。エンジンとその足元が一緒になってふらふらするのである。漸く二十九万五千キロメートルを越えた程度であるのだが、本当に足腰が弱ってきている。使用年間からすれば満足したが、距離としては一寸残念だ。年間一万二千八百キロメートル程度の走行になる。新車の最初の数年はそれ以下しか乗らないと5年で六万キロぐらいか。十年ぐらいは殆ど修理費無しで過したい。

先月の「ばらの騎士」の日本からの批評がネットで出て来た。短い旅行評であるが、興味深い感想があった。リンクを張るので引用はしないが、新たな視点がある。先ず、ザルツブルクでの共同制作でその舞台美術に苦情している。その背景への違和感ということらしい。

今回はミュンヘンからの隣のおばさんと同様に先ず初日ではそのようなことを考えずに席を選んで、指揮がしっかり見える天井桟敷の捨てても勿体なくないを席を取っていた。だから、背景なども殆ど観ていない。然し、それゆえに歌手のグロイスベェックの乗った車の横で駐車場で再終幕のヴィデオを観ていた。

そしてここで筆者は、その違和感をして、背後にプロジェクターで映される映像が密度もあって質は高いが、舞台に比べてどんどん大きくなったからだとも読み取れる。

ペトレンコ指揮の精密画の様に作り込まれている音楽に対して耳が傾いているとその背景が説得力を持つようになっているというのだ。

個人的には舞台のドラマと音楽つまり言葉から歌そして演技による迫真性・劇性にしか興味はなく背景に関しては補助的な環境設定でしかないと感じる面があるので、そこまでの印象を得たことは殆どない。それでも素晴らしい舞台美術賞は何時も推薦している。そして今回のクッパ―のヴィデオもミュンヘンでの「レディーマクベス」の舞台美術にも印象は残っている。バイロイトでのシュリンゲンジーフ演出「パルジファル」のデューラーのウサギもその通りだ。

それでも音楽と舞台に美術が特にプロジェクターがというのは、最近では「アシジの聖フランチェスコ」に合わせたエンゲル指揮の合唱と音楽ぐらいだったかもしれない。プロジェクターが盛んに使われ出したころには批判が多かった。なぜならば映画的になってしまうからだが、今こうしてそれと音楽とを同等に観察するような視点があることに気が付いた。勿論背後の縮尺やその効果に関しては感想ではなく詳説が必要ではないか。美術館ナヴィというサイトでの執筆である。
Saint François d’Assise - cf. 58m28s



参照:
すべてが異次元に洗練されていた! キリル・ペトレンコが指揮したミラノ・スカラ座の《ばらの騎士》, 香原斗志, 美術館ナビ 2024年11月16日
時とは不思議なもの 2024-11-03 | 音
ブロブの720種類の性差 2023-06-25 | 歴史・時事
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お話しにならない耳

2024-11-15 | マスメディア批評
車の保険を決断した。2500ユーロは自責事故の場合に自払いする。これで大分掛け金が落ちる。それでも数年間支払うと結構な額になって保険会社はある程度の事故の修理費がそれで賄える。

最初のオファーが自己負担が500ユーロだったのに比較して掛け金も4割近くになった。その毎年の差額で、駐車場でつけられるような細かな傷は直せる。もしくは二年分で可也のものも直せると思う。その差額で泣き寝入りして自分で修理しておけば掛け金も上がらない。

フランクフルトでの演奏会の評が二種類ネットに出ている。双方とも大した文章でも内容でもない。然し一つの方が明らかに先入観念で聴いていて、音楽を知らないのが分かった。

大まかにいうと、その耳は細かなところを表現すればするほど全体の大きな構成がそして音楽の核心が表現されないと思っている。こうした耳に最もあたる批判は「月を指す指を見る阿保」若しくは「木を見て森を見ない」である。

要するに正確に音化されることでこういう耳は細かなところに気が逸れてそれが全体でどのような意味を持っているかが再構成できないのだ。筆者に言わせると脱構造化するのがペトレンコの音楽らしい。

そのようなものを読む前にアルテオパーの支配人に感想を書いておいた。そこで書いてあることと全く正反対のことである。

「我々はそこで鎮静して心象風景を観照する ― 特に二楽章では、その他の楽章に並んで、ベルリナーフィルハーモニカーの伝統的なそして一心な演奏法を成就した。キリル・ペトレンコのスカラ座デビュー以降の より自由でより柔らかな拍打ちは、アルテオパーの音の行間により多くの音楽的な表現力をそして音色の多彩さを齎した。なんと素晴らしい!2015年11月がもう既に待ち遠しい。」

このように書いた。スカラ座まで行って聴いてきたのだなと思うだろうが、元ベルリナーフィルハーモニカーの芸術顧問にはその聴き方の違いは分かる筈だ。

もう一つの批評は、楽団をランク付けして、他方を貶めるようなことはしない中立であるという、これまたそのようなことと音楽の表現やその方法、そして伝統などが全く分かっていないことを吐露しているようなものである。

要するにこうした技術的に優れていることと音楽的な表現ということとの関係が全く分かっていない人はドイツでも物書きの中にも少なくないということだろう。端的にいうとブルックナーがどのようになにを創作して行ったかの過程に全く想像が及ばないということでしかない。それによって、こうしたブルックナーはバロック的な構築の精神を失って見難い巨大な建造物でしかないと表現するものだから、到底お話しにならない。



参照:
BERLINER PHILHARMONIKER – KIRILL PETRENKO. Eine Konzert-Sternstunde !, Gerhard Hoffmann, Merker vom 13.11.2024
Bruckner unter Hochspannung, Alexandra Richter, Bachtrack vom 14.11.2024
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
バックステージは如何に 2024-09-30 | 女
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寂寥感溢れる心像風景

2024-11-14 | 文学・思想
ペトレンコの指揮は変わった。スカラ座以降は少なくとも変わった。11月12日のフランクフルトでの合衆国ツアー壮行演奏前には前の週の定期演奏会最終日でのもう一つのツアープログラムのラディオ中継しか聴いていない。然しそこに共通したものはあったかもしれない。最も変わったのは拍の刻みのゆったり感で、そこで楽団のアンサムブルの自発性が引き出されているようだ。的確さはあってもやはり呼吸感がより演奏者のものになってきている。

車を当夜のアルテオパーの地下駐車場に入れて、片付けものをしてから、二楽章の楽譜をもう一度確認した。往路では一楽章からの二楽章迄を何回か繰り返していた。渋滞などもあってあまり集中できなかったので二楽章を繰り返した。四楽章での動機の扱い方で不明確なことがあったからだ。そして座席に着く前に初めてプログラムを2,50ユーロで購入して捲ってみた。そこで初めて知った、二楽章が最初に書かれていたことを。

この交響曲の難しさはそこにあって、各楽章間の連関がそれほど単純ではなくて、その意味合いが捉えられなくて、一貫した印象を持ちえなくしている。それもこの二楽章の内容自体がファンタジーに飛んだものであるという指摘は正しい。

プログラムには「トリスタンとイゾルテ」の三幕との関連にも振れてあるのだが、やはり最初の始まりのニ短調こそは今回の公演での迫真に迫る表現あった ― 危ぶまれた一楽章終了時に静まり返っていたのだが、二楽章終了時に少しだけ拍手が始まりかけた所以である。モーツァルトのレクイエムのそのものの響きである。それはそのアンサムブルの慣れと試行錯誤によって為されたものであると同時に指揮者の指導の下で掴んだ核心でもあった。それは「嘆きの調べ」である。

そしてそれが第二主題の慰めによって解消される。そうした構造でしかないのだが、それが浪漫派の真骨頂であるとともに、則ち新ドイツ派とされるヴァ―クナーやリストの純音楽から離れたその流派に対して、後期浪漫派への重要な転機にもなっている交響曲ではないかという仮説が生ずる。

同時にこうした作曲家の心像風景こそは、クラシックオタクの元祖宇野功芳が開拓したブルックナー人気の核にあったものだ。そしてそこでのハンス・クナッパーツブッシュ指揮による交響曲八番を評した「真実の詠嘆と自然の寂しさ」、「本当の寂寥」などそこでの記述がここで全てがこのペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの壮行演奏会で表現されていた。

そうした受け留められ方は決して日本での心情だけではないということは、既に先月のリヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」のヨーデルの使い方などでも紹介した通りである。それが慰めによってエクスタシーへと高まるとすれば孤高の男寡たちにウケること間違いなしである。そしてその高揚感こそがカトリック信仰でもある。

この二楽章を書き上げた時には既に終楽章と一楽章の構想は決まっていたというのが、論文などを見るとあるのだが、この二楽章と一楽章の導入部との繋がりにおいて作曲の過程を知ると合点がいく。つまりなぜ唯一無二の中世的な風情の序奏が付けられているのかが、そこから導き出されていて、恐らく終楽章での構成に沿って完成されたものだろうという予想がつく。(続く)



参照:
大らかに響き亘る伽藍 2024-09-03 | 音
アウトバーン走り絞め 2024-11-13 | 雑感
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アウトバーン走り絞め

2024-11-13 | 雑感
アウトバーンの走り絞めだった。幸いなことに心配されたようなお湿りもなく、気温も摂氏3度以下とはならなかった。直線では時速230kmまでは出せたが、それ以上は無理だった。それよりも高速の僅かなカーヴでも挙動が安定しないので170kmでも走行が怖い。勿論最早信じられないブレーキディスクを庇う為に急ブレーキは掛けないようにしている。それでも三四回は強めに踏んだ。それ以上に踏むと急ブレーキになるようABSが誤作動することは知っている。つまりブレーキがコントロールできない。

挙動が安定しないのは前輪のシリンダーのコイルが折れているからだろう。然しそれだけではないバンクがある。この車両の最大の欠点で箇所で、2000年当時はまだまだBMWのカロッセリー技術には及んでいない面があった。そのBMWも新中古車で10年程で三十万キロを越えて、直線走行は出来なくなっていた。

エンジンは徐々に吹きが悪くなってきていたのでそのような節約走行をしていたのであまり気が付かなかったのだが、追い越しや寄せなどのタイミングが合わせ難い。それは市街地でも空気が溜まって吹かない時を除けば信号発信は問題がないのだが、回避とか車線変更などではもたもたする。昔爺さんが帽子を被ってメルセデスを運転していたら要注意というのがあった。そうした状況になっている。

車に合わせて運転しているのだが、やはりこちらの視神経から脳への情報とそこで判断するときにそれを手足に送って機械が動くまでのタイムラグがフィードバックされて判断されている。あり得るのは年寄りになるとその神経の伝達の遅れがあるうえに古い車を乗っていると更に判断に安全指数が掛けられるということのようだ。その双方の遅れがどれぐらいか。

遅れが1秒に近いとなると、最近の試乗したかった車で言えば3秒以内で時速100kmまでを出していることを考えればその差は大きい。正直私自身の場合は、新しい車で動きに関しては大きな二輪車ぐらいの運動性はあるので、可也身体の如く動かせるようになる。余計に自身の神経もされるかもしれない。その点ではアウトバーンにおける神経はブレーキを掛る早さと、動体視力ぐらいで、前方の車のきょどに関しては見ているので視力だけの問題である。だから最高品質のヘッドラムプと視界だけで最高速度と高い巡航速度への影響はあまりない。四輪駆動はやはり心強い。

往路では何時もの経路が閉鎖されていて、30分以上余分に時間が掛かった。前回の訪問時に電気自動車の充電ステーションで場所を取られていたので早めの18時40分ぐらいに入庫したが、階下は殆どなかったようだが、嘗てとは異なって混んでいた。

そうした渋滞でもイライラすると怖い状況は表れる。ナヴィも無料のいい加減なものを使っているので取捨選択してしか使えない。これも全く次元は変わる筈だ。

往路でライトバンタイプの新車と同じ白い車を抜かした。やはり白いと夜目に幅広く感じた。走行感は後ろから見ていても安定していた。帰路も飛ばして無事22時53分に帰宅できたのでよかった。あとはひたすら何ごともなく乗り換えるのみだ。



参照:
雨降って足元が温まる 2024-11-12 | ワイン
木霊する時の隆盛 2024-08-20 | 歴史・時事
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雨降って足元が温まる

2024-11-12 | ワイン
雨が降って、想定外の寒さだ。気温が上がらず、湿気だけがあって、我慢し難い。火曜日も厚着をしていかないと駄目だ。燃料も入れておいて、外であまりうろうろしない様に準備しておこう。

夕方まで雨が降っていたが、日没前の30分ほどは上がる様子だったので、数十分前に燃料を20リットル入れて、雨上がりに走りに出かけた。158セントだったのでまずまずだった。これでフランクフルト往復は問題ない。あと何回給油するだろう。

丁度雨上がりで準備運動して濡れた道を走って上に着いた時には暮れていた。然し雲が晴れたので視界はそれほど悪くはならなかった。然し森の奥から独特な呻き声が聞こえて来た。あまり聞いたことがない、自分自身が苦しんで走っているときのような声だった。イノシシの声でもなく、シカ類でもない。よく分からなかった。低い声なのだが但しそれ程大きな身体のようではなかった。それにしてもこの時期になるとトレイルランニングシューズのゴアテックスの優秀さに気が付く。何よりも濡れた道でも足が冷たくならない。そして暖かい。夏はよくないらしいが、これだけでも足の故障を防げる。何よりもである。

帰りに肉屋に寄って買い物をして、水曜日迄の用意をしておく。帰宅時にオイル不足のシグナルが出ていたので、序に200㏄給油した。残りは100㏄でこれで先十年程はエンジンオイルを購入することもないと思う。前回のオイルフィルター交換から既に三万キロ以上走っている。長持ちさせないだけなら殆ど手入れが要らないことを知った。勿論点火プラグなどもそれ問題がない。前のBMWの時には三十万キロまでしっかり金を取られていた。この差は大きい。

フランクフルトのアルテオパーでのブルックナー交響曲五番、まだお勉強できていない。どこ迄間に合うか。アルテオパーでの解説では、最初のピチカートの始まりをモーツァルトのレクイエムとの類似性で述べていた。そうした論文があるのは分かるのだが、抑々それがカトリックにおける何処から来ているかの方に興味があるのだがそこには言及がない。それよりもバロック的な対位法ともあり、それどころかデューラーの「星の力」との親近性にも述べられていて、なにがなんだか分からない。正直アルテオパーのこのおばさんはあまり為にならない。勿論そのレクチャ―を覘く価値もない。その時間に一つでも動機の扱いを確認しておいた方が為になる。

週末にボルド―ワインを開けた。久しぶりのサンテミリオンのグランクリュである。1996年の状況を知りたかった。色合いもそれ程落ちていなかったように全然悪くはなかった。価格は忘れたが一本30マルク以上はしていたと思う。流石に違う。最初20年程のバランスは決して良くなかった。分離したようなエアーリングの必要を感じるものであったが、今は開けて直ぐに香りも風味も酸味も感じられて取り分け新鮮な感じがあった。飲み頃とは言えないのだが、まだ急いで開ける必要もないのを確認できてよかった。コルクの状態も悪くはなく、流石にと思う。

サンテミリオンのボルドーの方はメドックのものよりも果実風味さえしっかりしていれば長持ちする。メドックのしっかりした芯はないのだが、食事によればこちらの方が合わせ易い。また買い付けにいつか出かけたいと思う。



参照:
信仰告白交響曲 2024-11-11 | 文化一般
冬場に楽しめる生活 2016-10-09 | 生活
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