二年前に逝去したストロースの新しい本が出た。ストロースでもカーンではなくレヴィである。既に故人となったスター学者の新刊は、今までに出版されていなかったインタヴューなどを集めている。フランス語の原語本であるからどこまで的確にすばやく読めるか分からないが購入したい。
書評を読むとその一冊「L' Autre Face de la lune」は百歳まで生きた故人の八十歳の時での日本関連の内容が集められていて、まさに今その文化悲観に新たな視座が加わり、日本人の視点までもが俯瞰される、福島の事故に際しての出版であるというのだ。
1977年にこの社会人類学者が遅ればせながらとうとう日本を訪れてから、五回目の訪日に際して京都での講演内容が紹介されている。その内容をここで改めて取り上げる必要はないであろう。
唯一つ、「西洋ではミトスと歴史の間に大きな溝が深く刻まれているのに対して、日本ではそれが身近に寄り添っているという」視点だけを繰り返しておけばよいだろうか。
芸術家の子息として生まれ、広重の版画と西洋音楽に魅せられて育った二十世紀後半を代表する学者にとっての日本論は、日本講演で見せたような外交的なお世辞には終わらないものなのであることを書評は説明する。
日本語が読めず、日本で生を受けたわけでなく、ただの部外者として、しかも翻訳文の資料にしか触れていない者が、「世界の中の日本」についての見解を示せるものではないとする発言はごもっともなものであって、それ以上のものでもないだろう。だがそれだけではないのである。
日本の特徴をその学術的・技術的発展とその伝統の継承において世界に稀な国であると、それを2001年に対象化して日本語版「不安の滴」の前書きとして執筆している。そこでは、二つの人類への危機として、根源の喪失と人口増大が挙げられている。
そしてNHKでのインタヴューでは「時代の終焉」として、人類と自然の関係に、人類と新たな諸族との関係に、つまり創造の主と担い手でもなく徒のその一部でしかない人類に、それが訪れることを予言している。まさに福島なのである。こうした言動は日本でなされていて、それどころか植民地化した日本をあてこすりながらその一部であった朝鮮を尊重して賞賛したのであった。
そのうちに日本にもそれが訪れると、日本市民の島国根性と同一性のタブーに触れて、離散の発芽を見て取って確信したのであった。それは、日本での印象をイスラエルへの旅行以上に強く感じた学者の卓見した観察であり、知見であったのだろう。もちろんこうして、それらの原稿が纏められてしばらくして、離散してしまっている人間もいるのである。
日本民族が世界中に離散しなければいけないような事故が現実に起こり、それでも原発に何かを希望しようとするような日本人がそこにいる。通常の感覚では考えられないようなことが日本では現在進行形で起こっているのである。
参照:
Vom Zauber Japans für den Blick aus der Ferne, Jürg Altwegg, FAZ vom 30.6.2011
パニックの裏側の集団心理 2011-03-16 | 歴史・時事
なにが嬉しくて被爆したいのか 2011-03-29 | 雑感
倫理委員会初会合の召集 2011-04-05 | 文化一般
歴史に残る宰相 菅直人 2011-05-20 | 雑感
用心深い行為に隠されたもの 2009-11-08 | 文化一般
旨味へと関心が移る展開 2009-11-07 | 文学・思想
書評を読むとその一冊「L' Autre Face de la lune」は百歳まで生きた故人の八十歳の時での日本関連の内容が集められていて、まさに今その文化悲観に新たな視座が加わり、日本人の視点までもが俯瞰される、福島の事故に際しての出版であるというのだ。
1977年にこの社会人類学者が遅ればせながらとうとう日本を訪れてから、五回目の訪日に際して京都での講演内容が紹介されている。その内容をここで改めて取り上げる必要はないであろう。
唯一つ、「西洋ではミトスと歴史の間に大きな溝が深く刻まれているのに対して、日本ではそれが身近に寄り添っているという」視点だけを繰り返しておけばよいだろうか。
芸術家の子息として生まれ、広重の版画と西洋音楽に魅せられて育った二十世紀後半を代表する学者にとっての日本論は、日本講演で見せたような外交的なお世辞には終わらないものなのであることを書評は説明する。
日本語が読めず、日本で生を受けたわけでなく、ただの部外者として、しかも翻訳文の資料にしか触れていない者が、「世界の中の日本」についての見解を示せるものではないとする発言はごもっともなものであって、それ以上のものでもないだろう。だがそれだけではないのである。
日本の特徴をその学術的・技術的発展とその伝統の継承において世界に稀な国であると、それを2001年に対象化して日本語版「不安の滴」の前書きとして執筆している。そこでは、二つの人類への危機として、根源の喪失と人口増大が挙げられている。
そしてNHKでのインタヴューでは「時代の終焉」として、人類と自然の関係に、人類と新たな諸族との関係に、つまり創造の主と担い手でもなく徒のその一部でしかない人類に、それが訪れることを予言している。まさに福島なのである。こうした言動は日本でなされていて、それどころか植民地化した日本をあてこすりながらその一部であった朝鮮を尊重して賞賛したのであった。
そのうちに日本にもそれが訪れると、日本市民の島国根性と同一性のタブーに触れて、離散の発芽を見て取って確信したのであった。それは、日本での印象をイスラエルへの旅行以上に強く感じた学者の卓見した観察であり、知見であったのだろう。もちろんこうして、それらの原稿が纏められてしばらくして、離散してしまっている人間もいるのである。
日本民族が世界中に離散しなければいけないような事故が現実に起こり、それでも原発に何かを希望しようとするような日本人がそこにいる。通常の感覚では考えられないようなことが日本では現在進行形で起こっているのである。
参照:
Vom Zauber Japans für den Blick aus der Ferne, Jürg Altwegg, FAZ vom 30.6.2011
パニックの裏側の集団心理 2011-03-16 | 歴史・時事
なにが嬉しくて被爆したいのか 2011-03-29 | 雑感
倫理委員会初会合の召集 2011-04-05 | 文化一般
歴史に残る宰相 菅直人 2011-05-20 | 雑感
用心深い行為に隠されたもの 2009-11-08 | 文化一般
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