旅行に出かける前にリースリングを飲み干した。早くから開いていたファン・フォルクセム醸造所の2015年アルテレーベンである。残りが少なくなってパイロットワインとしての機能を果たすかどうか怪しくなってきたが、一本ごとに変化があるので楽しく、参考になる。酸はしっかりしているが、ミネラルは全開になってきて、若干粉っぽいのだが、スレート特有のおかしな味筋ではなく、底に固まっているような焦点の定まらないミネラルである。地所もアルテンベルクなどに近いことから赤スレート系の暈けたミネラルで、辛口にはどうかとも思わせるが、それはそれで開いてくると楽しいだろうと思わせる。それを感じさせるだけ充分に糖を落として醸造するようになってきているということで、モーゼル流域でも上質の辛口として恥ずかしくないものである。
そして苦みを感じさせるそれがまた深みを与える。苦み走ったとかいう言葉もあるが、これは比較的女性的な味筋であるので全開になって果実風味とのバランスが楽しみとなるということである。日本などでは甘いリースリングが云々とか批判されたモーゼル流域のリースリングであるが、酸とバランスをとるその残糖以上に重要なのがこの苦み成分であるミネラル風味である。このミネラル風味が綺麗に表出されない限り高級ワインとしての体を成さない。
食文化の味の中で「旨味」だけは日本の専売で世界語になっているが、嘗ては日本でも味の極意として苦みが愛されていたと思うのだが、ファストフードや人工甘味料などの味覚の汚染でアメリカ風の苦みなどの無い味が好まれるようになっているのかもしれない。そうなると苦みの極意などというものも分からなくなってくるのだろう。土井勝先生の「甘みは旨味」はあらゆる意味で誤りであったというのが結論となっている。
再び音楽に戻って、作曲家リヒャルト・シュトラウスの自作自演の「アルペン交響曲」を久しぶりに聞いてみた。ここに「苦み」はないのだが、ミュンヘンの宮廷座付き管弦楽団の音が良い。その楽器を駆使して楽譜に書き込んだ音符を忠実に弾かせているのでそのもの作曲の意図がよく分かる。そして指揮者としても一流で、朴訥としたテムポ運び乍ら揺ぎ無いテムポ運びとなっている。それにしても戦前のドイツの管弦楽はこうした響きだったのかと思わせ、現監督ペトレンコもこうした響きを可能な限り取り戻して後に伝えていくことにも留意しているのだろう。弦楽の合奏だけでなくて、木管も金管もツボにはまった音色を再現するための努力をしているのはオペラ公演でも聞き取られて、それなりの尽力をしているのが分かるからである。
そのように推測していくと、ベルリンのフィルハーモニカ―もクラウディオ・アバドの時代に音響の機能性をものにしたが、サイモン・ラトルの指揮でもまだまだ音響面でつるつるてんてんな面も残っていて ― ランランなどと共演しているようではどうしてもそうなる ―、今後はピエール・ブーレーズが示したような弦の強靭なサウンドの特徴にもう一つ今日的な深い音色などが試されるのだろうか。少なくとも楽譜の読み方が20世紀後半のようなフォン・カラヤンを代表するような流線型やまたは一筆書きの落書きのような読み方からは変わってきているので、管弦楽団の音響としても文化芸術的な成果を期待したくなるところである。北アメリカや極東などにもあるような音響だけでは欧州文化としては成立しない。そのためにも新しいサウンドを含んだ同時代の作曲家の作曲を遅れずに演奏していくことが重要なのである。
参照:
2015年アルテレーベンの出来 2016-09-17 | ワイン
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
そして苦みを感じさせるそれがまた深みを与える。苦み走ったとかいう言葉もあるが、これは比較的女性的な味筋であるので全開になって果実風味とのバランスが楽しみとなるということである。日本などでは甘いリースリングが云々とか批判されたモーゼル流域のリースリングであるが、酸とバランスをとるその残糖以上に重要なのがこの苦み成分であるミネラル風味である。このミネラル風味が綺麗に表出されない限り高級ワインとしての体を成さない。
食文化の味の中で「旨味」だけは日本の専売で世界語になっているが、嘗ては日本でも味の極意として苦みが愛されていたと思うのだが、ファストフードや人工甘味料などの味覚の汚染でアメリカ風の苦みなどの無い味が好まれるようになっているのかもしれない。そうなると苦みの極意などというものも分からなくなってくるのだろう。土井勝先生の「甘みは旨味」はあらゆる意味で誤りであったというのが結論となっている。
再び音楽に戻って、作曲家リヒャルト・シュトラウスの自作自演の「アルペン交響曲」を久しぶりに聞いてみた。ここに「苦み」はないのだが、ミュンヘンの宮廷座付き管弦楽団の音が良い。その楽器を駆使して楽譜に書き込んだ音符を忠実に弾かせているのでそのもの作曲の意図がよく分かる。そして指揮者としても一流で、朴訥としたテムポ運び乍ら揺ぎ無いテムポ運びとなっている。それにしても戦前のドイツの管弦楽はこうした響きだったのかと思わせ、現監督ペトレンコもこうした響きを可能な限り取り戻して後に伝えていくことにも留意しているのだろう。弦楽の合奏だけでなくて、木管も金管もツボにはまった音色を再現するための努力をしているのはオペラ公演でも聞き取られて、それなりの尽力をしているのが分かるからである。
そのように推測していくと、ベルリンのフィルハーモニカ―もクラウディオ・アバドの時代に音響の機能性をものにしたが、サイモン・ラトルの指揮でもまだまだ音響面でつるつるてんてんな面も残っていて ― ランランなどと共演しているようではどうしてもそうなる ―、今後はピエール・ブーレーズが示したような弦の強靭なサウンドの特徴にもう一つ今日的な深い音色などが試されるのだろうか。少なくとも楽譜の読み方が20世紀後半のようなフォン・カラヤンを代表するような流線型やまたは一筆書きの落書きのような読み方からは変わってきているので、管弦楽団の音響としても文化芸術的な成果を期待したくなるところである。北アメリカや極東などにもあるような音響だけでは欧州文化としては成立しない。そのためにも新しいサウンドを含んだ同時代の作曲家の作曲を遅れずに演奏していくことが重要なのである。
参照:
2015年アルテレーベンの出来 2016-09-17 | ワイン
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音