目覚ましはいつの間にか夏時間に変更されていた。しかし比較的新しい壁時計はまだ冬時間の儘だ。いつになったら変わるのだろう?電波が上手く届いていないのだろう。もう一日変わらなかったら、取り外してバルコンに持ち出してやろうか。
先週のベルリンからの放送録音を聞いた。次期音楽監督キリル・ペトレンコが五年ぶりにフィルハーモニカ―を振る演奏会の二日目である。第一印象は、交響楽団が編成を切り詰めて大ホールで演奏する、牛刀割鶏の如くの問題の多いモーツァルトのハフナー交響曲が殊の外上手くいっていたことだ ― 前日は楽員の緊張のため大分ホルンなどに乱れがあったということである。
第一楽章アレグロコンスプリトーソでのファゴットとフルートと弦の上昇音型のバランスなども見事であり、また主題がニ短調へと、展開への八分音の休止が一息置かれて大きな効果を上げていた。新聞評などはこうしたことを含めて可成り視覚的と言及するが、こうした近代的な管弦楽でモーツァルトを演奏する場合、結局譜面の深読みしかないのではなかろうか?
なるほどカール・ベーム指揮ベルリナーフィハーモニカ―の録音はそうした演奏形態での歴史的な頂点であったろうが、自らモーツァルト指揮者では無いと自認するキリル・ペトレンコ指揮でモーツァルトの交響曲形態があからさまにされることは喜びである。アーノンクール指揮などの演奏を楽譜を前に聴くとその演奏の出来に失望しないまでも、天才作曲家の交響曲としての価値の再認識までには至らない。その意味からもメヌエット楽章トリオでのクレッシェンド指示の弾かせ方も中庸なものとして、明らかに表現すべき主体がそこに如実に表れていると感じられる ― 正しくそこがサウンド的なものだけではなくて、古楽器演奏でも如何にアマデウスの創作意思に迫れるかということでしかない。
コーミシェオパーにおいての連続上演でも批判もあり、ミュンヘンでただ一つ大成功となっていないモーツァルトのオペラセーリア「ティートスの寛容」の演奏実践であるが、敢えてここで選曲されたのも、既に分かっている2019年夏のザルツブルクデビューやルツェルンへの客演を先行したものだというのは理解できる ― するとバーデンバーデンと同様に2018年はまだ客演指揮者が振るということである。サイモン・ラトルにおけるハイドンの交響曲までの意味は持たないとしても、モーツァルトの交響曲が、少なくとも選りすぐりの交響曲が次期監督の指揮で演奏されて、現代のモーツァルト演奏実践を代表することになるともいえよう。するとミュンヘンでもモーツァルトのオペラ公演が2020年までに取り上げられる可能性も高い。
二曲目のアダムスの曲に関しては、なぜ現監督サイモン・ラトルがこの作曲家を取り上げることにしたのかは一向に分からないと改めて思わせた。なるほどラトルは武満作品を頻繁に取り上げていて、それと比較してということになるのだろう。指揮者の選曲としてはまあまあ聞かせどころを用意したということでもあろうか。客演指揮者としてのレパートリーとしてはまずまずだろう。
お待ちかねの悲愴交響曲に関しては、新聞評などでは ― 恐らく初日のものが多いのだろうが ―、予想通り充分にフィルハーモニカ―が演奏出来ていないことが指摘されていて、放送のものはそれよりはよくはなっているのだろうが、まだまだミュンヘンの座付きのようには上手くいっていないのは明らかだ。それ故ではないだろうが、ミュンヘンから座付きのソロオーボイストのグヴァンゼルダチェがエキストラとして入っており、アカデミーの助っ人は完全締め出されたと書かれている。それだけでなく、通常は練習会場に楽員は入れるのだが、特別の身分証明書を出してそれが無いと入室も出来ないようにしてあったと書いてある。
座付き管弦楽団ではないので、そもそもの目標とされる程度が全く異なるのは当然としても、最初からとても高い実践が求められていればこそ、ミュンヘンで行ったようにまたバイロイトでもあったように本格的に要求に応えられるようになるには何回もの演奏会が繰り返されなければならないのは周知の事実である。少なくとも今回のプログラムで、バーデン・バーデンではもっと上手くいくようにと期待したいところは幾つも散見されるのである。(続く)
参照:
時間が無くて焦る日々 2017-03-23 | 生活
否応なしの動機付け 2017-03-19 | 生活
先週のベルリンからの放送録音を聞いた。次期音楽監督キリル・ペトレンコが五年ぶりにフィルハーモニカ―を振る演奏会の二日目である。第一印象は、交響楽団が編成を切り詰めて大ホールで演奏する、牛刀割鶏の如くの問題の多いモーツァルトのハフナー交響曲が殊の外上手くいっていたことだ ― 前日は楽員の緊張のため大分ホルンなどに乱れがあったということである。
第一楽章アレグロコンスプリトーソでのファゴットとフルートと弦の上昇音型のバランスなども見事であり、また主題がニ短調へと、展開への八分音の休止が一息置かれて大きな効果を上げていた。新聞評などはこうしたことを含めて可成り視覚的と言及するが、こうした近代的な管弦楽でモーツァルトを演奏する場合、結局譜面の深読みしかないのではなかろうか?
なるほどカール・ベーム指揮ベルリナーフィハーモニカ―の録音はそうした演奏形態での歴史的な頂点であったろうが、自らモーツァルト指揮者では無いと自認するキリル・ペトレンコ指揮でモーツァルトの交響曲形態があからさまにされることは喜びである。アーノンクール指揮などの演奏を楽譜を前に聴くとその演奏の出来に失望しないまでも、天才作曲家の交響曲としての価値の再認識までには至らない。その意味からもメヌエット楽章トリオでのクレッシェンド指示の弾かせ方も中庸なものとして、明らかに表現すべき主体がそこに如実に表れていると感じられる ― 正しくそこがサウンド的なものだけではなくて、古楽器演奏でも如何にアマデウスの創作意思に迫れるかということでしかない。
コーミシェオパーにおいての連続上演でも批判もあり、ミュンヘンでただ一つ大成功となっていないモーツァルトのオペラセーリア「ティートスの寛容」の演奏実践であるが、敢えてここで選曲されたのも、既に分かっている2019年夏のザルツブルクデビューやルツェルンへの客演を先行したものだというのは理解できる ― するとバーデンバーデンと同様に2018年はまだ客演指揮者が振るということである。サイモン・ラトルにおけるハイドンの交響曲までの意味は持たないとしても、モーツァルトの交響曲が、少なくとも選りすぐりの交響曲が次期監督の指揮で演奏されて、現代のモーツァルト演奏実践を代表することになるともいえよう。するとミュンヘンでもモーツァルトのオペラ公演が2020年までに取り上げられる可能性も高い。
二曲目のアダムスの曲に関しては、なぜ現監督サイモン・ラトルがこの作曲家を取り上げることにしたのかは一向に分からないと改めて思わせた。なるほどラトルは武満作品を頻繁に取り上げていて、それと比較してということになるのだろう。指揮者の選曲としてはまあまあ聞かせどころを用意したということでもあろうか。客演指揮者としてのレパートリーとしてはまずまずだろう。
お待ちかねの悲愴交響曲に関しては、新聞評などでは ― 恐らく初日のものが多いのだろうが ―、予想通り充分にフィルハーモニカ―が演奏出来ていないことが指摘されていて、放送のものはそれよりはよくはなっているのだろうが、まだまだミュンヘンの座付きのようには上手くいっていないのは明らかだ。それ故ではないだろうが、ミュンヘンから座付きのソロオーボイストのグヴァンゼルダチェがエキストラとして入っており、アカデミーの助っ人は完全締め出されたと書かれている。それだけでなく、通常は練習会場に楽員は入れるのだが、特別の身分証明書を出してそれが無いと入室も出来ないようにしてあったと書いてある。
座付き管弦楽団ではないので、そもそもの目標とされる程度が全く異なるのは当然としても、最初からとても高い実践が求められていればこそ、ミュンヘンで行ったようにまたバイロイトでもあったように本格的に要求に応えられるようになるには何回もの演奏会が繰り返されなければならないのは周知の事実である。少なくとも今回のプログラムで、バーデン・バーデンではもっと上手くいくようにと期待したいところは幾つも散見されるのである。(続く)
参照:
時間が無くて焦る日々 2017-03-23 | 生活
否応なしの動機付け 2017-03-19 | 生活