Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

芸術の多彩なニュアンス

2019-04-15 | 文化一般
9時20分過ぎにバーデンバーデンから帰ってきた。オペラと同じ時刻に始まって、予定では7時45分に終わるところが、シェーンベルク後のミヨーのアンコールと最後の拍手で駐車場を出たのは8時15分を過ぎていた。

9割も入っていなかったが、とてもいい演奏会だった。全ては駐車場に下りるところで後ろを向いて女友達に話しかけるおばさんの言葉に尽きる。「よかったね、ファツェッテンライヒで二楽章、三楽章もだけどそれよりも」。この言葉は私の脳裏には浮かんでいなかったが、膝を叩きたくなる表現で、残念ながら彼女に声を掛けなかった。

まさしくこの夜の山場はそこにあって、完全燃焼の演奏ではなかったのであの盛大な拍手の本心を知りたかった。その分、四楽章もベルリンの初日よりもアゴーギク的にもとても抑えられていて、ある意味次の段階に入っていた ー 支配人が楽団が指揮にまだ充分に応えられているとは言えないが、聴きものだという意味である。勿論、日曜日もあり、更に夏のツアーもある。

最後に一人だけ二回も立たせたのはホルンのドールであったということも、その課題を明らかにしていた。三楽章のホルンでもどうしても上ずる方へと音が流れるが、シェーンベルクからとても抑えていて、注目の的となっていた。そして先ずは高く評価したい。

シェーンベルクにおいても明らかに非力なコパンチンスカヤに合わせるためのとても難しい課題を皆がこなしていて、その代表的な立場にこのドールがいたからである。同じ会場で聴いたミヒャエル・バレンボイムのヴァイオリンは協奏曲の主題を提示して主導するだけの力量があったのだが、この女流には無理であった。それをカヴァーする為に如何ほどに難しい弱音などが要求され、柔軟な奏法が要求されていたことだろう。とんでもないがギーレン指揮の放送管弦楽団では叶わなかった精度であった。

チャイコフスキーにおけるニュアンスの豊かさとは、ある意味一昨年の「悲愴」におけるあのヴァルツァーよりも高度な音楽性が要求される。そしてそれを評価する聴衆がバーデンバーデンに集うというだけで幸せに感じる。要するに音楽通であったりする訳で、要するに玄人だ。なるほどベルリンなどの大都市に行けば沢山の玄人が居住していて、音楽会にも来るのだろうが、その分母が異なるこうしたところでの比率はとんでもなく高いと感じた。

玄人とはなにも同業者や業界関係者である必要はない、高度な芸術文化が分かる選ばれた聴衆とも言える。上の言葉でどんな高級紙でも大見出しに出来るのだ。なるほどヴィーナフィルハーモニカーが、「バーデンバーデンの高度な聴衆に、また呼んで貰えることを願っている」というのはなにもお上手で言っているのではない。本当に良い聴衆の前で演奏するのはとても怖いことであるとともに、やりがいのあることに違いない。

チャイコフスキーの第五番交響曲というややもするとこけおどしのような交響曲において、その交響曲の内容を問う演奏、そしてその内容をニュアンス豊かと表現する聴衆、まさしくカラヤンのチャイコフスキーなどで喜んでいたような聴衆ではない聴衆、それどころかムラヴィンスキー指揮の演奏ですら異なる視点で批判できる審美眼を持った聴衆、そのような聴衆はそんなにどこにでもいない。

なるほどオペラにおいてはミュンヘンの聴衆の域には及ばないが、まさしくシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲ほどの抽象的な音楽を聴きに来る聴衆である。スパーオパーが定着するようになればメッカたるだけの聴衆の基礎は既にあるということである。とても嬉しく思った。もう心配は要らない、ベルリナーフィルハーモニカーも音楽芸術を率先していける、そして音楽芸術における更に大きな可能性をバーデンバーデンも提供していけると思う。



参照:
華が咲くオペラ劇場 2019-04-14 | 文化一般
運命が拓かれるとき 2019-03-11 | 文化一般
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