Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

METを超えたオペラ

2019-04-17 | 
承前)バーデンバーデン復活祭、前半を終えた。可成り疲れた。来年は日程的に更に厳しくなり、それが毎年続くようになる。

メータ指揮「オテロ」二回目公演を初日に続いて観た。文字通り空いていた、233ユーロの席に59ユーロから自主無料グレードアップした。来年は叶わないだろう。その差は何か?先ず演出を正面から観れることで、音楽的には一長一短かもしれない。少なくともコンサートにおける優位性はオペラでは音楽ファンには無い。オペラをその席で観るのは初めてだったので、メモしておきたい。

前列には地元のギムナジウムの生徒たちが一列陣取っていたが、希望者だけに格安で毎年出しているのだろう。これという女子生徒がいなかったので声は掛けなかったが、幾ら出しているのか興味が湧く。私が親ならば60ユーロは出してやろう ― 自分の払った額である。それ以上かというと、例えばミュンヘン劇場でその額を出せばそこそこのものが楽しめるからだ。実際に今シーズンからU30というのが半額扱いなので30ユーロで充分である。

さて一長一短は最前列ならばピットへの左右の視界が効くが、二列目以降では前の人によっては効かなくなる。音響的にも舞台上の管弦楽ほどには響かない。同様な例は、前日に一階ザイテンバルコンで話されていたように平土間でも舞台上の奥の管弦楽団後列へは同じような状況がある。

さてその舞台、初日と異なっていた。細かなことは曖昧だが、先ずは指揮者のズビン・メータが初日には歩いて出てきて間延びして拍手が割れた。改めて後ろ向きに拍手を浴びてから暗転となり幕が上がりプロジェクターの巨象の前に小象が舞台で横たわっていた。それはサイドからは舞台の上と背後のプロジェクターの差異がハッキリしなかった。しかし、今回は最初から入っていたので、ウィルソンが零しているようなざわざわ感は無く、比較的映画館のような緊張感が保たれた。これは修正点で、その他も手の動きや動作が初日よりも明白になってメリハリが付いた。少なくともサイドからでは合唱団のまるでセラーズの演出のような手の上げ下げは印象に残らなかった。私が指摘した通りに修正したのかもしれない ― 全て予の思うが儘である。

しかしそのメリハリを付けたのはドラマチュルクの仕事かもしれないが、それ以上に別人のように指示を出したのは指揮者だった。体調不良で代わりにペトレンコが入ったのかと思うほどの変わりようだった。音楽的には、ダイナミックスやテムポも遥かにコントラストが付けられても、アゴーギクでアクセントをつけるペトレンコ以上に安定していたかもしれないが、技術的に全く宗旨変えしたほど変えてきた。所謂オペラ劇場の職人的なキューを出し始めた。

逆に初日に何一つ必要なキューを出さずに棒も最小限にしか振らなかった意味は不可解であり、健康状態ではありえない豹変ぶりだった。恐らくベルリナーフィルハーモニカーを舞台で振るならばあれで通ったのだろうが、歌手の間合いなどをはかると直ぐにフライングしかねない交響楽団を甘く見たのだろう。ピットに入る交響楽団はロスぐらいで経験がありそうだが、どうなんだろう。要するに舞台上へのキューを殆ど出さなかったのが始終出すように変えてきた。また同時にピット内にも小まめに出しようになった。流石にブーを出されるようになったフィルハーモニカー側からも確認の一言があったのかもしれない。流石の同じところではフライングは無くなったが一か所だけ前のめりになりそうだった。あれは歌手の間合いを取れなかったのだ。しかしパウ、マイヤー、フックス、シュヴィンゲルトらが下手に、上手にはドールらが一生懸命に合わせようとしている、イングリッシュホルンのヴォーレンヴェバーの妙技など、必ずしも前日のオテンザムマーなどの個人の実力は評価できないのだが、また弦楽陣の鋭い表情と彼の世へと上り詰めるときの表情とともに合奏として表現しようと学ぶとき、もはやどこの座付管弦楽団も手の届かない境地へと至る。

実際には、スケルトンが完全に復調していて、恐らくこの程度でないと到底METで主役は貰えない。なるほどピッチのためか最高音では若干厳しいところもあったが、外にも練習が聞こえてたように三幕の叫びなどは上手くこなしていた。カウフマンとは異なって中音域での幅の広さが役に合っていて、最高域でさえ上手く運べば当たり役だった。少なくともトリスタンとは違うのだが、共演もバカ声のウェスブロックや素人オペラ指揮者のラトルとは違って、とても良い刺激と支援を受けていた。そのヨンチョヴァは初日では新聞に書かれていたように緊張からか喉が詰まっていたが、解消していて、一か所だけが厳しかった。それでもそもそもの技量が違って、管弦楽はこのデュオを潰さないだけの伴奏を一生懸命していた。要するに、少年少女合唱団までを含めてメリハリがついてきた。ヴィーンの合唱団も圧倒的だった。(続く)



参照:
落ち着き払ったメータ指揮 2019-04-16 | マスメディア批評
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-16 | 文化一般
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