Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

交響曲四番の真価

2019-06-17 | 
チューリッヒに出かけてよかった。その価値のその一はなによりもアイヴスのその曲を体験したことである。昔からブルックナーやマーラーなどの巨大編成曲は到底オーディオでは体験できないとされていたが、その双方ともある程度経験を積めばHiFiでも想像はつくようになる。それでもこのアイヴス交響曲4番はやはり経験しないとその価値が読めなかった。理由はハッキリしていて、何よりも楽器の定位感が無いと曲の構造も分からなくなるという事でしかない。遠近感表現でもブロムシュテット指揮ヴィーナーフィルハーモニカー演奏のベアヴァルトの交響曲の実演ではフィラデルフィアからの放送程にも効果が出ていなかったが - そもそも座付楽団にそれを表現できるだけの腕が無い -、流石にケントナガノの棒でのスイス最高の交響楽団は少し違った。

第一楽章の室内楽バンドを合唱席の讃美歌コーラスの下手に置いて弾かしていた。この時に第二指揮者のイツェン・リは舞台で挨拶してから急いで上に駆け上って指揮をするとガイダンスで話していた通り、その時には上に居た。急いで入るものだから、心拍数が上がらないかと気になったが、ドアの締まる音が笑いを誘い、その指揮振りも良く見えて、とてもその後の展開の参考になった。つまり第一指揮者のテムポに合わせて自分のリズムを刻むというそのやり方である。ガイダンスでのインタヴューでそのドイツ語もこなれていて驚いたが、同楽団で第一ヴァイオリンを後ろの方で弾いているとは思えないほどの能力は明らかだ。

そのあと再び舞台に下りてきて、ケントナガノの左横で第二指揮者を務める。こちらは最前列の齧り付きからはあまり良く見えなかった ― そもそも前三列が継ぎ足して延長した舞台のために潰されてしまっていた。席が空いていたので真ん中に移動しても良かったが、出来れば同時に見たいとかの色気もあって、横から見ていた。大きく振る所だけは見えたのだが、女流としてはとても叩きがよくて感心した。ヴィーンで習っている筈だが誰の弟子とも書いていない。既にSWRでもデビューしていて、パルマでオペラも振っている。嘗てバーンスタインのところで同曲を振っていたようなティルソントーマスなんかよりも出来そうである。

楽団の方は、一曲目のピンチャーの1997年にザルツブルクで委嘱初演した「五つの管弦楽曲」スイス初演だったが、そこでも気が付いたが弦楽の後ろまでが超一流楽団のように合わせられない。スイスであるからある程度の力の者が集まるにしても、更に個々に力があるベルリンのフィルハーモニカーのように合奏の神経が最後まで通ると最早追いつきようがない。特に特殊奏法などでの遊んでいるようだとお話しにならない。それでも顔ぶれも比較的若く、いい指揮者がアンサムブルを作ればよくなる。しかし現在のパーヴォ・ヤルヴィではあまり期待出来ないかもしれない。ヴァイオリンがN響に劣ると言われれば、そうですかと言うしかないのである。

予想よりもよかったのは、二曲目のラヴェルの「シェーラザード」を歌ったパトリシア・プティボンという歌手で、これは儲けものだった。昨年ラトル指揮でガランチャのそれを聴いていたものだから期待していなかった。しかし会場の大きさが違うと言ってもニュアンスの豊かさではこちらの方が上で、ラトルとナガノの合わせ方の上手さの相違も影響したと思う。反面、ナガノの指揮でここというときの表現を思いとどまる寸止め感がこの曲では感じられて、小澤などとは違うまたもう一つの遠慮深さを感じた。

それでもピンチャー曲でのケントナガノの指揮は見事に尽きると思う。その分余計にここ一つの表現があればと、要するに指揮台上でのカリスマ性の欠如を感じた。特に客演などではプルトの最後まで神経が張り詰めるぐらいでないといい演奏は出来ないだろう。どうしても後任者のペトレンコと比較になるので気の毒なのだが、まさしくそこが最大の弱点で、さもなければ顔色のおかしな写真を使わせないと思う。マネージメントの問題であると共に、やはりあれだけの実力者であるから本人が周りを変えれた筈だ。その指揮振りを見ていても、とても知的な冴えがあって、技術的な洗練が、ややもすると学者風になってしまって、余計にカリスマ性から遠ざかる。ミュンヘンでも人気が落ちていたのは事実だろうが、バッハラーと本気で戦えなかったのがいけなかった。

そうした愚痴が出るほどに、アイヴスでの指揮は見事だった。生で少しだけでも第二指揮者の指揮を見ると ― 第三指揮者はパーカッション付きで全く見えなかった -、この曲の構造がとても分かる。どんなに立派なHiFiを使ってもステレオ再生ではその表現に限界がある。確かに「千人の交響曲」においても発声源の奥行きが深まると各楽譜システムごとの差異が手に取るようにわかるようになるが、ここではパラレルで進む遠近感が、所謂オペラでバンダとされるものとは大違いの空間を生じさせるために不可欠な表現となる。合唱も思ったよりも小振りであったが、差異は良く出ていた。(続く)



参照:
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評

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