Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

見かけとその裏

2019-06-19 | 
承前)ヘンデル作曲「ロデリンダ」はこの作曲家のオペラ最高傑作の一つであると思われる。しかし上演される機会は少ないという。理由は、その内容からして華麗なバロックオペラからもオペラセリアの枠からも逸脱した複雑さがあるからだろう。台本の内容的には、もはやモーツァルトを思い浮かべてしまう。そのような演出をしたのがクラウス・グートだった。その意味からこれほど後を引くヘンデルのオペラもあまりないと思う。反面、それがどこまで音楽化されていたかと言うと疑問だと書いた。

この共同制作は、マドリッド、バロセロナ、リヨンの三件との制作であって、演奏者が各々異なるので、何とも言えない。印象からするとマドリッドの演奏ぐらいが上手く行っていたのではないかと思う。どちらかと言えば古典派に近い方の上演の方が成功すると思うからだ。折角フランクフルトの座付楽団が汗を掻いてもプロジェクトが間違っていたなら上手く行かない。

新聞評にあったように、やり過ぎ複雑過ぎの批判はそもそもこの手のバロック物の登場人物の描き方にもあって、名前の紛らわしい登場人物を如何に音楽的に特徴づけるかではないのか?この演出企画の中心に据えた歌わない子供の視線は、演出家自身の言葉を借りれば「いかにも表向きの」大人の姿を浮き彫りにして、やはり歌に於ける情動的なそれがとても重要になる。フランクフルトでの指揮者マルコンの音楽がまさしくその外面をするっと示すことでの効果を誘うもので二重三重にお面の上のお面になってしまった。それは一番の問題だった。

舞台設定を作曲時に合わせて屋敷を丁度ヘンデルと同時にニーダーザクセンからやって来た英国王室の様式に合わせるのは、演出の手法に違いない。そしてヘンデルにとっての現代劇性を表現したことになる。

なるほど劇というのは、その演者とその舞台と見かけの意味とその裏を読み解く作業の連続でしかない。昨年の「メリーウィドー」の演出においてもそこを強調したのがグートの演出だった。そして主役のマルリス・ペーターセンの歌も演技もそこに重点が置かれていて、歌に於いて心情が吐露されるというのが普通である。しかしバロックに於いては叙唱を含めてそれほど容易には分類されない。否、指揮者がそこをしっかりと歌手と合わせていないと不確かさが発生する。指揮者に不備があったとすればそこに尽きるのではないか?やはりオペラ経験の豊かな指揮者が必要になるところである。

来年の「フィデリオ」への一つの参考となり、そしてフランクフルトの劇場を一杯にした大成功やその喝采を見ていると、これまた公的音楽劇場のその意味を考えない訳にはいかなかった。州立ではなくて市立である劇場であるが、伝統のあるマンハイムとはやはりその芸術水準が全く異なる。なにもマンハイムの住人がフランクフルトよりも知的程度が低い訳ではないが、100㎞も離れていない街の文化程度がこれだけ違うのである。(終わり)



参照:
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
フランクフルトのオペラ 2019-06-10 | 文化一般

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