Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

飲み頃を探る試飲談話

2015-09-15 | 試飲百景
金曜日の試飲について書き留めておこう。道すがら立ち寄ったデーノッフ醸造所では試飲できなかった。今年もリースリングは売り切れていた。余程、個人客ではなくて業者を通じた販売を心がけているのだろう。一種のネゴシアン制のようなものだ。もしかするとナーヘの古い醸造所の伝統なのかもしれない。そうなると春に目利きをつけなければいけないので、数年間は付き合わないとわからないだろう。当主と話していると、デルヒェンなどはこのクリスマスに十分楽しめるということで、三本も購入したのは間違いではなかったようだ。どちらかというと早咲のグローセスゲヴェックスの代表的な醸造所のようだ。確かに、春の樽試飲でも芽が出ていたので、パイロットとして目を付けたのだった。

それに比較するとフェルツェンベルクなどは瓶熟成などが前提となってようで。試飲会の時に話題となったことである。今年の正月に楽しめたということは2013年産はあまり熟成しないタイプであったということでもあるかもしれない。ここのグローセスゲヴェックスは基本的には五年ぐらいまでだろう。その意味からは、2014年産のヘルマンスヘーレは熟成が期待できる。2015年産も期待できそうで来年の試飲会までにはもう少し造詣を深めておかねければいけない。

試飲もないということで、シェーンレーバー醸造所の空箱を若旦那に見せてそそくさと車を出す。幹線道路に戻って予定よりも早くモンツィンゲンに着く。試飲して買う予定だった分のリースリングをそこで補うことになるので予算が増えた。最初からフリューリングスプレッツヘンは買える予定で、空箱をお母さんに渡して、蔵に降りていく。息子がいるべきところに先代がいて挨拶する。

またまた、アデナウワー醸造所の親父が酌をしていたが、キュンストラー醸造所にヴィルシング醸造所などと一緒に出掛けていると思っていたので驚いた。出張販売の多い醸造所のようだ。その親父とは、その後奥で垂直試飲つまり、古い年度のグローセスゲヴェックスを一緒に楽しんだ。2012年はまだ若すぎたが、甘みなどが分離してきているのでこれまた先が期待できる。まだ全く出来上がっていなかった。それでもあの甘みは最初にはなかったものなので、熟成の時を待っているものだ。

2010年産は、思っていたよりもかなり良かった。石灰も全く感じなく、色もそれほど黄色くない。酸の新鮮さが際立つ、今まで開けた2010年ものの最上位に入る。2009年は流石に酸が落ちていて、飲み干すべきだと感じた。2008年産は独自の酸が広がっていて皆の評判は良かったようだが、鼻に来る糞土の匂いは頂けない。それからすると2005年産のそれは微かであって、今まで開けた2005年産の中では最も綺麗に熟成していた一つだ。それでも十年は、流石に長過ぎるようで、大体この醸造所の瓶熟成の限界だった。

さて、2014年産は2012年と2013年の中間ぐらいか。それほど清潔な葡萄ではないが、PC相当のフリューリングスプレッツヘンで少しポトリティスを感じるぐらいだ。その点では2013年よりも質は高い。十分に楽しめるリースリングである。一方ヘレンベルクの方は若干苦味があって、上部のミネラールも麓の新しいハルガンツも苦味が交じる感じで、これも2014年の特徴であろう。要するにストレスがあるのだ。戻ってきた息子に聞くと、水に関しては古い木なら問題なく、新しいものには手を施ししたので、むしろ日焼けということらしい。オークション向けのアウフデアライも同じ傾向だ。

するとどうしても僅かの蜂蜜感があるフリューリングスプレッツヒャンのグローセスゲヴェックスもそれほど悪くはない。そしてヘレンベルクの2012年産リザーヴが久しぶりに面白かった。健康な葡萄からの残糖の残った古酒が楽しみになる。

一通り決めてからチーズを頬張っていると、どこかで見かけたチリチリの髪の親仁がいる。しかしどこで会ったか思い出せない。先方の方があまり意識していなかったので挨拶もせずに買い物を済ませて、ワインを抱えて車の方へと戻ると、ワイン街道ノイシュタットのナムバーの車が後側に停まっていた。そこでピンときたあの夫婦は山仲間の元大家さんで、ヴァッサーマンヨルダンの試飲会かで紹介されたのだった。そこで急いでワイン蔵に戻って話しかけてみた。奥さんこそ、となり町の出身でその土地をシェーンレーバー醸造所に貸しているのだった。またまたとてもインサーダーのお話になって、先代がそれを聞いていた。



参照:
石橋を叩いての樽試飲 2015-06-08 | 試飲百景
非常用の日常ワイン 2015-04-23 | ワイン
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「安倍退陣!」の熱い叫び

2015-09-14 | 歴史・時事
週末の試飲会のことを書いていたが、東京の国会前の抗議をIWJで見ていて、それどころではないと思った。週末の神戸での行動や大阪のそれを見ていて、今までとは熱気が全く違っていることに気がついていた。そして、予想通りキャンドル抗議でさえ決壊した。

機動隊車両が各政党代表の挨拶の時から集まってきていて、異常な状態となっていった。過剰警備どころか、物理現象と同じであれだけの熱気を帯びた人たちを狭いところに押しこもうとすればいずれ爆発する。これが、日本以外の国ならば二桁の逮捕者と放火などが始まっただろう。

しかしそうした危険性がないのは非暴力の抗議者ばかりで、善良な市民しか集まっていないからだ。それでも物理現象は、そのような抑制とは異なるところで起こる。どんなに独裁政権が、自由な意思の市民の声を抑えようと思っても不可能なのと同じことである。

騒然としたなかで繰り返される「安倍退陣」の声は、もはや政権の正統性を失っていることを示すに十分である。法案と差し替えに首を差し出すか、それとも法案を断念するかしかないと確信させるに十分な市民の声の大きさだ。

善良な市民の声ほど強いものはない。これから数日の進展に注目が集まるが、万が一国会前などを閉鎖するようなことがあれば、それは同時に民主主義の敗北である。市民は、今度は独裁政治を体をはって、押しとどめるしかなくなる。そうなれば、日本で初めての市民革命へと推移する。

極小数の極左を除いては、市民は誰一人そのようなことを望んでいない。それを確信させるに十分な一連の運動である。文民的には、ほとんど軍事クーデーターが成立している安倍政権である。ほとんど米国の支援を受けた中南米の軍事傀儡独裁政権と変わらない。そのようなものに正統性などないのは当然だが、ここ数日の政府の出方によっては墓穴を掘ることになるだろう。平和的な市民を軽く見てはいけない。



参照:
IWJチャンネル4
問われる近代の歴史 2015-09-13 | 歴史・時事
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問われる近代の歴史

2015-09-13 | 歴史・時事
本日は、久しぶりに登りに行くつもりだった。残念ながら降りそうである。帰りにレープホルツ醸造所で試飲するつもりだった。これだけは改めて参上しなければいけない。代わりに走り行く気持ちもなくなった。パンは本日分も土曜日に準備していたからだ。

正直、また疲れが溜まった。理由は、LINUXの再構築に座り続けたからだろう。途中で試飲会に出掛けて気晴らしをしたぐらいだ。システム領域が一杯にになってしまった原因は解析できていないが、最終的には22GBまで広げて、最小にシステムインストールで28%ほど、最終的に日本語環境からネット環境をつくり上げるマルティメディア対応までに38%7GBも消費した。XPと比較して、大きくはないからしかたないであろう。そしてSuse13.2「ハルレキン」と称する現行版にアップグレードした。とても難しかった。13.1からアップグレードするしかなかったのだが、13.1さえ上手に再生できなかったので、ほとんど手作業となった。

金曜日にナーヘへと向かう車中のラディオは、トルコの裁判でエルドガン大統領を公に批判して逮捕された学生の刑が禁錮11ヶ月と決定したとあった。昨年の暮れに逮捕されて、この度判決が下ったのだとある。罪状は侮辱罪らしいが、ほとんど使われたことがないとされて、学生が「泥棒」と侮辱したことが罪状らしい。日本では安倍首相が散々にけなされている。これがトルコならば、逮捕者続出である。トルコは、アジアと欧州をつなぐ国であり、早くから立法大統領制が敷かれた国である。そして、今日本はこの国と同じような経過を歩んでいるかに見える。好んで日本の程度をポーランドあたりと比べてきたが、もはやトルコと比較しなければいけなくなってきた。まだ、大阪のヤクザな連中が画策するような大統領制にはなっていないが、もうすぐトルコに近づくのかと思うと、とても情けない気持ちになる。週明けに日本市民はなにをするか、明治以降歩んできた日本の近代の歴史が問われている。

同じく文化波は、SWR交響楽団の新録音を紹介していた。R.シュトラウス集の最後の録音で、アルペン交響曲らしい。指揮者のロース氏は語る、作曲家の自作自演録音を聞くと全くテムポが異なり、後のフォン·カラヤンの録音やティーレマンのそれを例にあげて、なぜにテムポが落ちることになったかを解説する ― 彼に言わせると、風呂場で鼻歌を歌っているようなものだとなる。そもそもこの曲などは管弦楽団を機械的に響かせることが狙われていて、ほとんどリゲティーのクラスターなどの奏法に近いというのだ。しかし彼らがそのように遅いテムポで演奏しているのは、聴衆に期待される響きを鳴らしたいからだと、直接ビーダーマイヤー的でありコマーシャリズムのティーレマンを批判していた。一時は、口を閉ざしていた専門家も単刀直入な批判の口を閉ざさなくなってきている。そうした商業主義が成り立たなくなってきているからだ。



参照:
とんでもないことになる 2015-06-27 | 歴史・時事
MP3でなにを聴くべきか? 2015-07-03 | 音
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それで十分な銅色の施し

2015-09-12 | 生活
物乞いに70セント恵んだ。久しぶりの事である。あまり恵むことがない方である。若く小柄な男が、八百屋の店先で、声を掛けてきたときには、顔見知りかなと思った。こちらは知らなくても、向こうが知っていることが多いからだ。すると腹が減って金をくれと物乞いするのだ。そのようには思わなかったのでそのまま店に入り掛けると、何か声が掛かったような気がした。そこで急に考えが変わって、財布を出して、あまり考えずに小銭をカップに入れた。勿論ありがとうと、それなりに姿勢を示した。銀色ではなくて、銅色の硬貨しか投げ込まなかったからである。

そして店に入ってから、ホウレンソウなどを選り分けていると、自分自身も朝食抜きだったこともあって、その男のを考えた。屋台で何かを立食いにするにしても5ユーロほどは欲しい。そこまであの男が集めるにはどれほどの人から施しを受けないといけないだろう?そのようなことを考えているうちに余計に気になった。店を出る時に辺りを見回してみた。まだそこらあたりで物乞いをしているかと思ったのだ。

直ぐに気が付いた。彼は、近所のパン屋にでも行ってパンの一つも買って、頬張っているだろうと。その男の様子を見て、男の腹の空いたような声の出ない感じにも疑いはなく、そして謝礼の感じにも嘘はなかった。物乞いを生業にしている人もいたが、あのドイツ語を喋れる男はそのような感じではなかった。腹が減っていたのである。

なぜ、5ユーロも集めないと空腹を満たすことが出来ないのか?全く、こちらがとんでもない考えをしていたことに気が付いた。なるほど山の中で腹が減っている人が居れば、パンの一つぐらいは見ず知らずのもにでも都合するのがふつうである。しかし、街ではそのようなことを考えない。毎日のように一つのパンを捨てている人も数多くいる。それでも、その数十セントの金を恵むことに抵抗がある人も少なくないかもしれない。しかしその価値を考えるべきだ。腹を空かしている者を無視できない。それで十分なのだ。



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浮浪のおばさんとの再会? 2014-10-21 | 文学・思想
しなやかな影を放つ聖人 2007-12-15 | 文化一般
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十分に期待することなど

2015-09-11 | 雑感
いよいよ秋の試飲会シーズンだ。今晩はナーヘに行って、予約していたグローセスゲヴェックスを回収して、更に足を延ばして、試飲購入する。同じ方向で二軒回れるのは良い。

イゴール・ストラヴィンスキーの未出版の失われた曲が見つかったとのニュースが世界中に流された。恩師リムスキー・コルサコフの1908年6月の死去に伴う葬送曲のようだ。初期の四つのエチュードから歌劇「鶯」までの創作で、死の知らせを受けた夏の間に書かれていたものだ。本人が回想するように「すべての管弦楽独奏楽器が葬送」する曲となるとたいへん期待できる十二分ほどの新曲である。近々、身近な管弦楽団で本邦初演されるだろう。

新聞にヴィースバーデンで開かれた2014年産のグローセスゲヴェックスのお披露目会の報告が出ていた。あまりリースリングに造詣が深いとは思わせない記事であったが、それでもレープホルツ醸造所の「ガンツホルン」が特記されていたのは正しいだろう。ビュルクリン・ヴォルフ醸造所でPCを試したが、まだまだ苦味が出てバランスが悪かった。それでもヷッへハイマーなどは酸が強く突出している分、チェリーの味が楽しめて、その意味からは昨年よりも可能性が高いのかもしれない。



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なんかとてもかんじよいよね 2015-07-16 | ワイン
ポストモダーンの歴史化 2015-01-19 | 歴史・時事
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悪影響から逃れる方法

2015-09-10 | 生活
朝の森の中は、摂氏7.5度しかなかった。Tシャツとショーツでの走りでは肌寒かった。うっすらと汗を掻いた。それだけでよい。坂を下りていくと、バンビ親子が道から逃げていった。親らしきは下方へと森の中に隠れたが、まだとても小さな子供は坂を上に登って行って、一向に体を隔せていない。そしてこちらを上から眺めている。このあたりの判断が人生経験の違いなのだろう。シャワーの前に体重を量ると70.2KGだった。前々回は71KGでなくて70.1KGだったかもしれない。トイレに行くだけで変わる数字だ。

イラクのバクダットからの写真が新聞に載っていた。その写真には大人や子供たちがメルケルの写真を掲げて、その英語のありがとうと一緒に自撮りなどをするおっさんたちの姿だ。メルケル首相は、心優しい、とか女神とか呼ばれているそうな。皆が憧れ目指す国ドイツ連邦共和国の宰相である。

彼女の時代ではなく、シュレーダーの時代であったが、米国の参戦要求に対して強く拒絶した連邦共和国であり、その後も対米姿勢は殆ど変わってはいない。そうした信頼感がイラク人の心を揺さぶっているのだろう。また、イスラム国に対して、それに対抗するためにゾロアスター教が見直されてきているとある。これもとても興味深い。

予約完成したLINUXシステムの動きが悪くなって、もはや容量不足とのアラームが出てきた。調べてみると、システムが入っているパスは100%となっている。他のパスは2%ほども無い。これはどうしたことかと思って、dfなどで調べてみても、これといった大きなものは見つからない。何度も上書きしているので、アップグレードの度に積み重さなっていったものかも知れない。それならば一つ一つ消去していくのも難しい。ほとんど動かなくなってきており、14GBもあまり十分ではないと思って、一度パーティションを切り直すことにした。

結局新たにインストールすることになって、またまた別のHDDに入っているXPのブーティングが壊れだした。二つの選択を選ぶようになっていて、片方はスレーヴのHDDの消去したWINDOWS領域を示しているようだ。そこでマスターのHDDのBoot.iniを弄った。そこには、余分の文字列が入っていた。余分な方を消去したまでは良かったが、ディスクのパラメーターを間違って入力したために、再びXP立ち上がらなくなった。そこで、Repairのコンソールを出して、デイレクトリーCのパスを調べるとそれが出てきたが、書き直すためには工夫しなければいけない。そこで、調べてみると、bootcfg /rebuildのコマンドで直してくれることが分かった。一度以前に使ったことがあるようなないような、あまり記憶にない作業である。そこでようやく回帰できた。

そこが壊れたのは無理に最新のSuse13.2を無理にインストールしようとして、書き換えられてしまったのか、スラーヴのWINDOWS領域を消去したのが悪かったのか、原因は分からない。それでも、デュアルシステムを使っている人が、LINUXの消去に伴ってそのブースターであるGRUBが悪さをするようで、ネットでも問題になっている。そこで、このWINDOWSのそれを書き直すことでその影響から逃れられるようだ。



参照:
マウンティングポイント変更 2015-09-06 | テクニック
流れが停滞すると 2015-09-04 | アウトドーア・環境
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秘義とはこれ如何に

2015-09-09 | マスメディア批評
承前)楽劇「神々の黄昏」の第二幕をCDに焼いてみた。先ずは、CDに収まるようにアウダシティーと称するフリーソフトを使って切ってみる。その演奏時間から当然の帰結であるが、第二幕は拍手を入れても一枚に収まることになった。通常のCDから比較するとコードを入れる必要が無いので80分近くまで収録可能となる。第一幕も入るが、これはプロローグを切り離して別途に収めないといけない。そして第三幕も一枚に収められた。そして、CDプレーヤーで初めてWAVファイルを鳴らしてみる。今までのMP3とは違って、音場感と音の質感が全く異なる。サムプリングレートもCD規格となるが、ラディオ放送としての標準音質にまでなった。若干、ソロの声の張りが強く響き過ぎるので、今度は綺麗に切れた第三幕を1:1の時間を掛けてCDに焼いた。これで声の感じが柔らかく響くようになったようだ。八倍速の焼き時間に比較すると読み込みミスなどが少なくなるからだろう。

FAZのおばさんが一番の具体的な批判としているのは次のことである。第二幕冒頭の印象的な景である死んだアルベリヒが息子ハーゲンの夢枕に現れて、復讐を誓わせようとする場である。そこでは、まさしく奈落の下から、手に届かないような紗の奥の風景のような実体感の無い響きであることが殆どなのだが、またしてもここではペトレンコ指揮では明白に声部が各々にその存在価値を主張する。それはなにも木管楽器の刻みだけではなくて、同じように弦楽の連譜が正確に明瞭に刻まれることになって、そこには松葉が確りと書き込まれている、つまりクレッシャエンドとデュヌニエンドが声部毎に細かく書き込まれている事に気が付く。その通り演奏しているだけなのだが、おばさんはそれをして皮肉のように吐き捨てる、「ペトレンコの秘儀だ」と。

そこで指摘されているのは、暗い弦とトロンボーンにのるそのフルートから始まってクラリネット、オーボエが絡む「知ったかぶりの嘲笑」のサウンドであり、そのとても珍しいミキシングだと言うのだ。なるほど、そこを他の演奏録音と比較してみると、これほど明晰に弾かせている指揮者などはいない。とても驚いたのは、一点一画を揺るがさない芸風で高名なカール・ベーム博士の有名なバイロイトでの実況録音で、そこでは全く上のような書き込みに無頓着で、寧ろ雑な印象を受けることだ。同じく楽譜を徹頭徹尾音化すると思われているゲオルク・ショルティーがスタジオで、劇場付き管弦楽団を全く平素の毎晩の演奏の慣れのままに弾かせていて、これまた驚愕する。同時代のフォン・カラヤンは手兵の交響楽団使ってスタジオ録音しているのであるが、あのピラミッド型のいつもの音響では試聴するまでもなくその結果が知れている。

なるほど、このペトレンコの演奏では、そこのシンコペーションの弾かせ方が、敢えて表現すればロシア風のリズムが基本にあって、余計にそれが強調されることになるが、だからと言って四晩続けて聞いていてもおかしなアクセントに気がつくことは無く、その点を批判する者は皆無なのは至極当然である。それを言えば、来年からこのプロジェクトを引き継ぐヤノフスキー指揮のドレスデンの録音でも若干スラヴ的なリズム感は感じられる。しかしなによりも、ヴィーンのそれも特にチャルメロのオーボエは流石に非音楽的な響きでさえあり、ここでは同じく劇場付管弦楽団のマンネリ化した演奏法のような流儀を強く感じて、そのメリハリの無さはこの楽譜には本来はありえないものなのだ。しばしば演奏実践の伝統と呼ばれるような全く楽譜が無視されて来た日常のお仕事の弊害はこうした超一流の劇場でも同じなのである。

この箇所に関しては、初演に隣席した数学者プリングスハイムの感想を読んでも、音響がモコモコとして曇っていて、明白さが足りないと感じていたようで、楽匠の手の込んだ仕事もその会場の音響もなんらの効果をあげずに百年間も演奏され続けていたことになる。

個人的には、この場面から次のホルンの八重奏へと繋がる日の出のチェロによる上昇音形に耳を奪われた。ここも他の録音などでは無視されていて、精々唐突にクラリネットの間奏からホルンへと繋がっていくのだが、その単純なドソドソドのシンコペーションはとても音楽的に効果的であり、錚々たる高名な指揮者陣たちもこれだけの大曲になると、こうしたところは可也劇場の楽士に任せて弾かせっぱなしにしていることが知れるのである。こうした細部への拘りが、決して劇場の経験などから生じるのではなく、完全に楽譜を読むことからのその必然性に導き出されているよい証拠であろう。(続く



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全曲を無事エアーチェック 2015-08-18 | 生活
不特定要素である凡庸さ 2015-08-10 | 文化一般
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正しく共有されない情報

2015-09-08 | 雑感
車中のラディオは、難民の増加で州毎に百億円以上の負担が計算されているとあった。そしてそのことでの増税はないと声明されていた。かなりの経済的な重荷である。東ドイツにはまだ今後四半世紀ほどの援助が必要になるとされている。そのための財政再建で、今後も健全な財政が期待される。

関係するのかどうかはわからないが、指揮者のリカルド·シャイーが、任期を四年残してライプツィッヒのゲヴァントハウス管弦楽団との契約を破棄したという。そもそも前任のアムステルダムの管弦楽団からすると、それほどの新しいレパートリーも期待できない管弦楽団に移ったのは何故だったのだろうか。一部雑誌などでは最も実力のある指揮者として、サイモン·ラトルの上位に選ばれ、同じ雑誌ではゲヴァントハウスもベルリン、アムステルダム、ヴィーンについで四番目になっているというから驚く。そのような市場がどこかにあるということらしい。

シナの金融市場の不安からその実態についての討論会があったのを少し耳にした。要は、中共のシステムではアベノミクスと同じくで将来性がないということらしい。その産業構造なども底が浅いので、いずれ駄目になるのはわかっている。その一方、その構造的な問題のわからないシナ人なども、まだまだ農民などの生活程度が低いので都市部の住人と同じようになるまでは成長が続くと考えているようだ。農民を馬鹿にしているシナ人自身がそれを信じているのがまさしくこの構造が砂上の楼閣であることを証明している。

経済の本質を考えれば、日本企業などがシナの一割の裕福層があればそれだけでも十分な市場とみて、それなりの期待をしているようだが、上のような格差があるところでは創造的な開発も仕事も成り立たないことは、既にサーヴィスなどの分野で伸びないシナの産業にもその産業構造にも如実に反映している。ようやく、ドイツにおいてもシナの産業に懐疑が出てきているのは当然のことだろう。

日本のおかしいところは、戦前と同じくやはり情報が正しく共有されていないことで、暴買に表れるように、シナにおいても日本の満州政策などで決して悪いだけでの評価ではない。そうした面が情報として共有されることなしに、ただただ抗日などの政治的な中共の政策がアナウンスされるだけで、嫌中意識が増殖されている。その背後には米国の計略とそれを利用する支配層の謀略などもあるに違いない。それほど日本には被害妄想のような意識が国民に浸透しているのだろう。



参照:
勇気と不信の交響楽 2006-01-06 | 文化一般
流れが停滞すると 2015-09-04 | アウトドーア・環境
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事実認証とその意味の認識

2015-09-07 | 
承前)朝の気温は摂氏10度近くまで下がっていた。森を走りながら、何を書こうかなどとも考えていた。肌寒かったが、坂を登っているうちに汗を掻いた。駐車場に停まっていたライヴァルのばあさんの車を見ていたので、そろそろ帰った頃だろうかと下りにさしかかると、同じ方向に下の林道を歩いているのに追いついた。結構似たところを歩いているのだ。帰ってくると、体重が71KGと大台割れを目前としていた。さすがに体の切れがよかった。

さて、「神々の黄昏」序幕に続き第一幕をまとめておこう。幾つか耳に止まった箇所があったが、先ず上げておかないといけないのは、ギービッヒ族に招かれたジークフリートがそこの娘グートルートに勧められた愛の酒を口に含んだ時に「隠れ兜の動機」に続いて、音楽はまさしく「トリスタン」と相似であるのだが、昂ぶるチェロの響きやそのダイナミックスとリリックな音楽運びが注目に値する。それが奈落の底から湧き上がるように祝祭劇場に響き渡る情景がそこに広がる。

そして兄弟の杯を飲み干し、再びブリュンヒルデのところへと戻るためにジークフリートを送るグートルートの景までの音楽運びは、その多彩な音形がさすらい人やアルブレヒトなどのそれとの関連をもって、ここまで聞き取れることは今までなかったであろう。バイエルン放送のレイポルト氏の、「序章に続きここまでに精妙に柔軟で、音色豊かに楽員を熱狂にかきたてながら正確に演奏させている」この指揮者への大賛辞の核心であろう。

ヴァルトラウテとブリュンヒルデの二重唱では、「だら下がりに安定」したキャスリーン・フォスターの歌声に対して、前者の管弦楽にのる歌声が見事で、余計にその問題点が明らかなところだが、この管弦楽の色彩に似合った歌声として改めてその管弦楽法と奈落の意味合いに思いを巡らすことになる。

FAZのおばさんに言わせると、この一番長い幕で僅か二時間ほどしか掛かっていないが、またまたここで今まで一度も聞いたことがないと思われる箇所箇所が、流動的な透明性のなかに、指輪のドラマティックな雄弁さをもって、その最後の網目までが磨き上げられるようにして浮かび上がるとしている。事実認証である。これをして、バイエルン放送のように、ペトレンコ以上にスリリングに指揮することは殆んど無理だとなるのだ。

この事実認証は、実は管弦楽演奏のもしくはこの近代音楽文化の重要な認知へと導かれるのだが、それはこの幕においても楽匠が書き込んだ楽譜に浮き出す書法に萌芽しているとも見て取れる。その認証の意味を深堀りするとそういうことになるのである。この幕においても若干の演出上の改良?が見られたとある。それは、初日に訪問したメルケル首相の腰掛けた椅子の足が折れて、すわ大事件と報道されたことのパロディーとして、ブリュンヒルデが腰掛けるキャンピングの椅子からずり落ちるというギャグである。こんなどうでも良いことは書き残しておかないといけない。

こうして聞いてくると今回の録音でも永久保存版の価値があることに今更ながら気がついて、そのデータを整理した。その全曲録音のデータを整理するのに他のことをしながら二三時間掛かった。全部で6GBほどのWAVを幕毎に切って、MP3として使えるようにしたのである。MP3はインデックスを入れれないので、全曲を流すか先送りするしかないのである。こうした場合非常に不便だ。そして調べてみると今まで聞いていたヴァルキューレとジークフリートはMP3の質が落とされていたのだった。そしてオリジナルをDVD三枚に焼けることを発見して、これならばCDプレーヤーでと勘違いしたが、もちろんDVDは演奏できない。CDに焼くことで聞くこともできるが、全部で10枚以上になってしまう。先ずは次の二幕だけでも試してみようか?(続く



参照;
プロローグにカタリシス想起 2015-09-03 | 音
評価可能になってきた 2015-08-31 | 暦
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マウンティングポイント変更

2015-09-06 | テクニック
徐々に日が短くなって、家にいると、ついついLINUXを弄ってしまう。特に肌寒くなると夏の疲れもあって、出不精になる。困ったものだ。PCのプロセッサーの温度も38度を超えなくなっている。掃除したので音も静かだ。学ぶことも多いが、とにかく手を動かしてしまうと、知識が後先になる。それでも触ると俄然その背後のプログラムに関心が向かう。特に、試行錯誤してある程度の結果が出ると、なんとなく事情が掴めるのだ。それは子供の時から変わっていないようで、かつてのおもちゃのようなものだと壊してしまうのだが、ソフトはいくら弄ってももとに戻るところが嬉しい。

金曜日の晩から試してみたのは、新たなLINUXのネット構造で、ある程度は使えるようになった。WINDOWSにはなかったものがほとんどなのでとても刺激的である。その過程で疑心暗鬼となったのは、最初からLINUX外のストレージとして用意した二番の領域で、そこにLAN内でどのようにアクセス可能かという課題である。

そのポイントとフォルダは読み込んでも中身に到底アクセスできなかった。結局禁則などが外せなかったので、その領域を新たにマウントつまりデーターをそのままにネットでアクセス可能な場所にアクセスポイントを設置し直す必要が生じた。いくつかの可能性があって、まずはLOKALパスに入れてみるのだが、ここでは、禁則つまり編集権などを書き換えようとするのだが不可能なのだ。その原因がそもそも外につけた領域に関係するのかどうかも分からないので、益々疑心暗鬼になる。それでも読み込みだけは可能なので、一先ず整理して、再スタートすると何故かそのポイントが消えてしまっていて、もとのままに戻っていた。

USRのロカールであるから禁則も外せて、場所柄もふさわしいと思ったのに、ログインごとに新たにマウントするパスだったのだ。もちろん先にネットで調べてみたが、そのようなことは書いてなかった。そこで、今度は以前使ったことのあるSRVパスを利用してみると、なんとLINUXのみならWINDOWSでも読み込んでくれた。編集ができなくとも一方方向の利用でも可能性が出てきたので改めてログインし直すと、今度は他のデータが並んで肝心のフォルダが消えていた。そのような機能のあるパスであるから当然なのだが、何故か以前はそれで使えていたのである。理由はわからない。

そこで、とてもスタンダードなHOMEのパスに、新たにSTORAGEと称するフォルダを作って、そこにポイントを作った。するとどうだろう、この18GBほどのパスから900GBの領域が伸びることになったのだ。WINDOWSならば関連付けをすることしかできないが、これがLINUXの良さだ。これで少なくともLANのLINUXからはストレージの中も編集可能となった。



参照:
他のことを書くつもり 2015-09-02 | 生活
UNIX譲りのLINUXの特性 2015-08-25 | テクニック
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流れが停滞すると

2015-09-04 | アウトドーア・環境
木曜日は峠登りとした。腹筋や腰回りが張っている。それほど頑張ったわけではないが、平日にそこを走ったのは久しぶりだった。朝起きしたからである。日差しはほとんどなかく、気温も摂氏20度を切っていたのだが、湿度が日本のように高かった日だった。バンビがいた。走る道の前方にそれを認めた。後ろ姿であったが、明らかに若い。おしりの周りの肉付きもピチピチしていたが、なによりも毛並みが鮮やかだった。その辺りはこの界隈でしばしば出会う場所であったが、このような新鮮な出会いは初めてだった。

ブレンナー峠で検問が再開するようだ。南からやってくる難民の波を一時押し留める防波堤をイタリア、特に分離独立を目指すティロル州が提供する。一方、ドーヴァートンネルの入り口のカレーでは混乱が今も続いているようで、多くの乗降客が足止めを食らったりしている。交通システムと同じで流せば流すほどその流れは大きくなる。やはり人為的に管理する必要があるのは当然で、多少は本意に反しても致し方がない処置である。先で止めれば、その前で停滞する箇所ができてきて、その停滞は入り口つまり自国の国境も出難くなるということである。それがどのような意味を持つのか?英国などは、それならば現地に難民を迎えに行くと声明を出したようである。流れを止めると同時に、人道的に解決する、それが肝心である。連邦共和国などは、将来にわたって労働力となってくれる難民以外は、シリアを除いては直ぐに送り返すという。これが「セレクション」とならないならば全く問題がないが、数が多いのでその差異を明白にするのは必ずしも容易ではないだろう。

Linuxを本格的に使い始めて、よく知っているような人がそれはフリーズしないなどと断言しているが、実際にはアプリケーション自体は固まってしまい、Windowsに比べて厳しい状況に追い込まれる。特にブラウザーをいくつも開いていて、そこに重いソフトでPDFを開こうとしたらにっちもさっちも行かなくなった。最後のソフトに問題があったのは間違いないが、それ以前にネットで次から次へとサイトを変えて開いていく事自体に問題があった。色々と理由が考えられるが、同じような使い方はXPでも全く問題がなかったので、Linuxの弱点にも感じられる。



参照:
記録的猛暑の賜物 2015-09-01 | アウトドーア・環境
他のことを書くつもり 2015-09-02 | 生活
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プロローグにカタリシス想起

2015-09-03 | 
ようやく楽劇 「神々の黄昏」へと進む。まずはプロローグから第一幕へと向かう。最初の場面のノンネの三重唱が前夜祭「ラインの黄金」でのラインの乙女のそれに対応するが、前夜「ジークフリート」における「世界への挨拶の動機」はここでは半音下げられて、まさしく我々を覚醒させる動機ともなる。それは当然で、「マクベス」の魔女の情景のそれに相当する劇作のパロディーのようである ー 黒澤の「蜘蛛の巣城」のそれである。そこにおける響きは、このペトレンコ指揮の演奏では朝霧のような「自然の生成の動機」の中で、とても鋭い響きが印象的で、これまたどうしてもブレーズ指揮のそれと比較したくなるところである。ここでも木管と金管のバランスが厳密に調整されていてそれがメリハリとして響くので、どうしても続く「ラインへの旅へ」の流れへと次のような批判を誘発するのだろう。まさしくそうした音楽的な糸を紡ぐような作曲がされているからなのだが、そうした創作の面白さが解らないような職業物書きがいるのに愕然とする。

ここではもちろん「ラインの黄金」の冒頭のように荒瀬で船から突き落とされるようなことは起こらない。それについて新聞はわざわざこう書いている。カイルベルト指揮の録音における船旅の蒸気機関の情景の迫真までは至らないで、まだまだ現在進行中のペトレンコの「指輪」であるが、そのダイナミックで華やかな、具象的でありながら、リズムもハーモニーも洗練されているので、誰にでも勧められる演奏だ。こうした持ち上げていながら落とす表現で、あまりにも早く通り過ぎてしまうのでご不満のようで、まるで自分たち音楽の経験豊かな聞き手はそれでも肝心な点を批判はできるのだと言いたげなのだ。しかし我々からすると、そのもの創作の本質的なところを全く理解していないことを晒しているに過ぎないと感じる。

その実は、ノンネの三重唱に続く愛の二重唱の日の出への時へと繋がり、そしてラインの船旅の景となるのだが、そもそもこのプロローグではそれまでのおさらいのように様々な動機や音形が組み合わされ想起されることで音楽的な統一感とともに終幕へと向けたまさしく序奏となっていて、なるほどペトレンコ指揮ではそれが目まぐるしくまるで走馬灯のように過ぎ去るアドレナミンの発射効果が意図される。昨年のその時の印象をまざまざと思い出すのだが、その時点でその破局におけるカタリシス感を先取りさせるようなスリル感とワクワクさせる期待感が膨らんだのだった。この楽劇の創作における修辞法のような楽匠が意図したそのものの「蜘蛛の巣城」から始まる一コマであった。

ついでながら、指揮者カイルベルトは最後の楽師長と市場では全く想像できないほど楽屋内で尊敬されていた職人親方であったわけだが、そもそも二十世紀の中盤まではごく普通の指揮者の経歴の典型であり、その世紀になってようやく現れたコンサートをもっぱら指揮するというようなフルトヴェングラーを頂点とする音楽家は、その中から選り抜きエリート中のエリート音楽家であったのだった。その意味からは、楽師長とし崇められるのは勲章であって、オペラなどの演奏がそうした世界でなされていたことを改めて思い起こすことになる。それは、そのもの指揮者ペトレンコは、再び過去のような経歴を経たことからオペラ指揮者のように思われているが、このプロローグの響きやその音楽的な発想、そしてブルックナーや自然倍音を多用する創作のそれをはるかに超えるグスタフー·マーラーの交響曲を捌く如くの演奏に、明らかにコンサート指揮者であることを証明している。要するに音楽的な素材を正確に意図された通り自由自在に紡ぎだすそのバランスは、もはやロマンティックオペラにおける和声感を通り越して、アルバン·ベルクの楽譜の声部指定があるかのような図星の手練手管を披露している。(続く



参照:
胸パクパクでラインに転覆 2015-07-29 | 音
全曲を無事エアーチェック 2015-08-18 | 生活
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
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他のことを書くつもり

2015-09-02 | 生活
他のことを書くつもりだった。それでもPCの前で時間ができるとどうしても弄ってしまう。特にLINUXにログインしているとなると、必要に迫られることが多い。印字機やスキャナーなどを常時使えるように、手が空いている時に整えることになる。その印字機のインストールには意外に梃子摺った。原因は、ワークステーションからは有線でつながっているルーター経由でWLANの印字機にコマンドを出すことになるからである。WLANとしては認識しているのだが、印字機としては認識していない。そこでWLAN経由の印字コマンドとなるのだが、それを接続中のSMBネットでは印字機として認識しないのである。そこでTCPポートを使ったり試してみるのだが、最終的にはLPDラインプリンターデーモン要するにUNIXのネットワークを使うことで初めて接続できたのである。必要に迫られての試行錯誤であったが、これでUNIXのそれを使いはじめることになった。

印字機が使えるようになると、同時にスキャナーの接続は殆ど流れ作業で完了となる。そうなると、もう一つのストレージ用のPCには、二つ目のスキャナーが接続されることになる。そして、テストシートを印字して、昔のヒューレットパッカードのフラット型で取り込んだのが上のものである。SCASI経由のスキャナーを動かすと、その走査の動きを調整して、もうひとつ画質をあげられないかなど考えてしまうのが、機械との相性の良いUNIX譲りのLINUXの面白さで、PC弄りの醍醐味に通じる。機械言語を操って思い通りに機械を動かす、そしてインターネットでハッカーのように遠隔操作をする、これである。

因みにこの間に使っているパッケージのアップグレードを果たした。最初使っていたOpenSuse11.3から13.1もしくは12.3へと上げた。現行の13.2も試そうと思ったがうまく行かなかった。本来は新しいデーターシステムを使っているので、先ずは一年ほど様子見としよう。

難民がハンガリーで足留めになって、オーストリアからバイエルンに入り、シュトッツガルトからカールツルーへに入った。嘗てないほどの人数となっている。メルケル首相は各自治体の経済的な協力を呼びかけている。まさしく地元が歓迎するかどうかという切実な問題ともなってきている ― 国民に呈する試金石にもなる。過去の反省から、ナチ時代にスイスがやったような国境で追い返すようなことがないようにとの認識がある。黒字国ドイツにとってもその経済的負担は尋常ではなくなってきている。しかしこれを世界に見せることで、一人勝ちの批判を撃破することが可能となる。これがそのもの「戦後レジーム」の打破なのだ。それに比較すると日本では、国連総長の中共の戦勝記念式典への参加に対する異議に関して、在京マスメディアが日本政府を批判しようともしない。そもそも連合国に負けた日本が何をしなければいけないかなど、未だに敗戦国日本の置かれている立場が市民の意識の中に定着していない証拠である。戦後教育とジャーナリズムの誤りだろう。



参照:
記念日か、祝杯を挙げよう 2015-08-30 | 歴史・時事
危机と紙一重の良机の七十年 2015-07-21 | 歴史・時事
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記録的猛暑の賜物

2015-09-01 | アウトドーア・環境
本日の朝刊の文化欄に小澤征爾の大きな写真が出ていて驚いた。八十歳の誕生日だったようだ。音楽家としての今までの歩みが振り返られていて、古い時代の指揮者オーマンディやストコフスキーと対象化されることで、その現代性について述べられているが、その意味するところはよく分からない。

その評価に関してはあまりよい文章は見たことがないが、それは見出しにあるような東西の対話とするような、もう少し触れれば管弦楽演奏の商業的な側面を映し出したものでもあるからだろう。その記事には、初演曲としてリゲティやヘンツェ、メシアンと武満を代表的に挙げているが、その最後のものを除いてはそれほど親近性がある理由でもなくて、決してその意味からは現代的とは言えないだろう。

最近はロシア音楽を流すことが増えているが、それらがこの指揮者のメインレパートリーとして成功しているのも事実であろう。また、オペラ界での活躍についても触れられているが、当然のことながらその経験や経歴から飽く迄もコンサート指揮者のそれであったことも事実だろう。どうしてもこのあたりがよく分からない記事にしている事情だろう。

今年の夏は暑かった。夜も寝室の窓は締め切って就寝可能となったが、その朝は今まで経験したことがないような烝暑さで、まるで日本の梅雨のような朝だった。今年の夏は記録的であった。そのお陰で、今まで食した中でもっとも美味なこだまスイカにありつけた。地元産である。

昼は暑く天候が安定していて、雨が降っても雹が降らなかった今年はスイカだけでなくて葡萄も良さそうだ。やはり果実には夜の冷えがかかせない。なるほど量だけならば2003年などには及ばないが、質は全く異質のものとなりそうである。量より質を考えると、北イタリアなどが素晴らしい果実を提供しているのと同じ理屈である。



参照:
地元の西瓜が美味かった 2015-08-14 | 生活
日中気温が上がって来て 2015-02-11 | 暦
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