Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

血祭りに上げられるVW

2015-09-22 | 生活
天気が悪くて、走りそびれる。摘み取りはブルグンダーを中心に始まったようだ。ヴルストマルクトも終わった。いよいよ冬に備えることになる。この時期の長雨は珍しい。初秋は乾いて、残暑などがあるのが普通だが、今年は違う。

10月に入ればこのような天候で、葡萄の摘み取りに一喜一憂することが多いが、この時期に雨降りを見通しての摘み取りとなることは珍しい。その分、グローセスゲヴェックスなどの大物の摘み取りの時期には安定してくれると良いのだが。いずれにしてももう一度乾いた日々が続かないと仕方ないだろう。いろいろと落ち着いてやりたいこともあるのだが、なかなか叶わないので、余計に気が滅入る。

先日机の上においていたバイロイト祝祭のお知らせを読み返して、申し込み期限が過ぎていることに気がついた。以前のような何年もの申し込みの積み重ねが肝心ではなくなったが、形だけは申し込んでおくのだ。ネットへ入ってみると、問題なく予約できた。もちろん当てようなどとは考えてはいないので、安いところを冷やかしで申し込んでおいた。当分は形だけの顧客となるのか、それとも近いうちに出かけることがあるのかは分からない。

フォルクスヴァーゲン社の排ガス規制不正問題が語られている。あまり深い関心を持っていないが、前回のトヨタに続いてドイツの企業が血祭りに上げられることになった。そもそも特にディーゼルの排ガス規制などは企業とレギュレーションを作る当局のと駆け引きと取引なようなものだと聞いているので、燃費のそれよりも消費者にはあまり関係ないだろう。関係するのは税制などと関わっているので、自分の車にはあまり税金をかけてほしくないと思うだけだろう。

折からのフランクフルトのIAAメッセで、メルケル首相はかたったようだ。できる限り難民を受け入れることは問題でなく、物流と同じで制限することで経済が滞ると。TTIPに関しても積極的な姿勢を示したことで、あとは如何に合衆国優位の立場からEU優位へと話を進めていくかだろう。世界最強の輸出国としては当然のことである。



参照:
まるで白昼夢のような感覚 2015-07-13 | アウトドーア・環境
豚に小判の消費者保護 2014-07-19 | マスメディア批評
コメント (2)
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違憲状態が終わるとき

2015-09-22 | マスメディア批評
青学特任教授の間宮氏がとてもよいことを言っていた。今回の一連の件に関して、「民主主義はここ暫く否定的に捉えられていたが、ここに来て肯定的に捉えられるようになった」と。つまり、否定的な民主主義とは数の力の同一性で、新しい民主主義とは多様性だというのだ。これは単刀直入に今回の市民運動の本質を語っている。その否定面は、ここ連邦共和国においても当然ながら語られてきたことであり、それでも民主主義はよりベターな唯一のチョイスであるとの認識であった。なるほど、大連立などの政府とそこに乗るメルケル首相の政策判断は、多様な広い層の声を掬い上げることにその主点が置かれている。そもそも大統領制をとらずに立憲君主制を戴く日本の政治の究極のあり方はそこにしかないのである。それに反意を示すような勢力は、自ら大統領になりたい大阪のやくざや小沢何某のような者たちである。

さて新聞を開けると戦争法に関しての社説が載っている。そのもの「心地よい時の終わり」と題して、実際にこれでそのような戦後の心地よい時は終わりとなる。戦後の日本は合衆国の影に隠れることができて、またそうすべきだったので、自国防衛にのみ力を向けることが可能だった。時代は変わった。つまり、日本政府が重荷を背負うことになる。だからシナからの批判は、もちろん二重舌そのものなのである。つまり、防衛圏内においては日本の防衛力は脆くなり、手を出しやすくなるからだ。シナが、1930年代を挙げて日本の軍国主義化として非難するのは恥ずべき行為である。日本政府の歴史の書き換えに関して非難することは可能だ。しかしそれと、この新しい安全保障法は、全く関係ない。安倍首相は、その歴史観を捨て、その代わりにシナの危険性を具体的に述べることで、国民を少しでも懐柔できるだろう。こう〆ている。

日本共産党が臨時政府構想を出したようだが、自衛隊員の骸が重々しく安倍総理や閣僚によって空港で迎え入れられるのは選挙日程よりも早くなってしまう可能性が強く、そうしたことを避けるためには国民もその前に大きな活動をしなければならないだろう。新聞は日曜版で大規模デモなどについて報じていたようだが、「普通の国」になったのは市民の抵抗運動だけで、政治が動くまでに全てが終わってしまう危惧がある。そうなれば万事休すで、最初の数人を除いては、外国での活動で死体となって戻ってくる自衛隊のことなどは日常になって流れてしまうのが、ここ十年来の連邦共和国やポーランドの例を見ればわかる。要するに新たな英霊の列が祀られることになるのである。それも避けようがない。

憲法改変か、臨時政府か、この違憲状態が終わるには二つに一つしかない。国民はどちらかを選択しなければいけなくなった。それも早めに結論を出さないことには、為政者先手主導の状況は変わらない。各々の国民が立ち上がらないことには、パシフィズムの憲法は自動的に変えられる。年内にほとんどその行方は決まってくるだろう。

安倍首相の「焼き肉煙」の消防隊の活躍VIDEOを観せた女性が指摘していた。「隣の家の消火に行って、自宅は他人に任せるのか」と。上の社説のその指摘はそのもので、それでも国民が騙されることを指摘している。海上自衛隊の戦力は合衆国との連携で骨抜きになっているようだから、金だけをかけて自衛力を低下させている責任は一体どうするのだ。



参照:
Ende der Bequemlichkeit, PETER STURM, FAZ vom 21.9.2015
Japan darf Soldaten ins Ausland schicken, FAS vom 18.9.2015
ネゴシェーションの政治力 2015-09-19 | 歴史・時事
首取りへと向かうのだろうか 2015-09-18 | マスメディア批評
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