Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

三人指揮者の交響楽

2019-06-15 | 雑感
アイヴス作曲交響曲四番である。楽譜も手元になかったのでお勉強の準備も限られて、時間も無かった。それでも少しづつ全体の形は見えてきた。当日の車中で更にもう一つ先に進めるか。幸いなことに、7月11日に実況録音放送があるので、事後になっても幾らかは把握できるに違いない。

手元には、LPで小澤指揮、CDではティルソントーマス指揮の二種類の録音がある。後者はコピーしたが、どうも使い物にならないようだ。YouTubeで見つけたのはストコフスキーの録音とTV中継ドキュメントである。これが作曲家自身へのインタヴューだけでなく、ストコフスキーの解説までがあって価値がある。
Ives Symphony No. 4 - Stokowski - Introduction & Performance


その冒頭にこの管弦楽編成における遠近感を話している。遠近感と言えば昨年ブロムシュテット指揮で聴いたベアヴァルトの交響曲そのものではないか。当然ながら更に様々な要素が含まれるが、1910年の作曲としてもそれだけに収まらない点が、そこで指摘されている。

小澤の指揮は流石に優れていて、恐らく今でも代表的な録音と思われるが、ストコフスキーの指揮がやはり良さそうだ。往路の車中でじっくり聴いてみたい。

三人の指揮者は昨年ルツェルンの「グルッペン」で観たが、今度はどのような感じになるのだろうか。先ずは座席を除去してしまったところに何が来るのかとか、その位置関係だけでも楽しみである。



参照:
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
晩夏日和の忙しさ 2018-09-28 | 暦

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ヒューマニズムへと

2019-06-14 | 文化一般
承前)ヘンデル作曲のバロックオペラをあまり好まない。演奏実践が折衷なものが多かったからで、古楽器で演奏されるとは今でも限らないだろう。バッハの場合ならばメスト指揮で一度体験したように昔のように通常の管弦楽団で演奏されても上手くやれる。しかし、ヘンデルの場合はどうしても通奏低音が重くなって、一層のことピアノで合して欲しいと思わないでもない。そして古楽器演奏でもこれならという合奏団がというのは、嘗てのガーディナー指揮のモンテヴェルディ管弦楽団とかクリスティー指揮のレザールフロリサンとか決まりの楽団は限られる。その後の楽団でも意外にヘンデルでは苦労している。

その中で今回は指揮者のマルコンがオペラを振った。前回のフランクフルトの会に招聘された時のバッハの受難曲においても合唱の扱いが変わっていて、管弦楽にそっけなく乗るという感じがあった。それが思いがけない効果を生んでいた。今回も何かを期待したが、やはりオペラはオラトリオとは異なり純器楽的な処理は困難である。まるで古楽器界の指揮者サイモン・ラトルであった。

新聞評は全く反対に、歌手の独唱などを楽しむ人にはとあったが、少なくとも当夜の出来では同意しかねる。先ず、共同制作の手軽さか、もう一つ指揮と演出がしっくりこなかった。この指揮者の得意なもう少しドライな歌を歌手に歌わせていたら、前述のバッハのような効果を出していたかもしれないが、どうもこの指揮者は端から歌手への練習を諦めているようなところがある。それはその器楽における音楽の作り方からも想像できる。恐らくどの歌ももう少し個性を強くしていればヘンデルのオペラにおける見せ方が徹底して、エンタメ効果が強調されたかもしれない。これは新聞にもあるような、「どこまでが」という感情の出し方がヘンデル解釈の味噌ではないか。この指揮者がヴィヴァルディを振ったりバッハを振るよりもヘンデルは難しかった。要するに簡単にはヒューマニズムへとは行きつかない。その音楽性であり人間性であるから致し方ない。

その意味から歌手には気の毒だった。その中でもアンドレアス・ショルは涼しく歌いあげたが、その技術も嘗ての様な独断場である時代とも異なり、やはりもう一つの歌い込みが欲しかった。特に怒りの表情や男性的な歌となるとそのカウンターテノールに明らかに違和感を感じた。今は更に踏み込んだ表現をするカウンターテノールもいるだろう。

本人がトレーラーで語っている。学生の頃は奇異に思われて、男性はマッチョでというのが今の社会ではもはや通じなくなっているのと同じで、その表現も可能性が大分広がっていると。現在のカウンターテノールによる歌とその歴史的な意味がそこに問われているという事にもなる。少なくとも私が個人的に知っているショルは身体も大きく手も分厚く、普通に男っぽいのだが、まさしく役者と同じで化けているのである。どこにその人の本当の姿があるのかなんてわからない。しかしそこに表現がある。

しかし実はそこがこの上演におけるハイライトではなかったかとも思う。そこには演出の子供の姿があって、死んだ筈の父親がひっそりと帰ってきていて、再婚を前にした母子家庭の子供である。グートの演出とその舞台では母子家庭はジョージアン風の大きな屋敷に住んでいる。そこの子供がいつもゴーストに付き纏われる。英国のその手の話しに近いものだ。しかし、その視線はどうしても裕福な家庭に育ったと思われる演出家そのもののそれをそこに感じさせた。

この演出が狙ったものは、そしてその去勢された声の芸術が、ヘンデルのエンタテーメントに通じる音楽の魅力とは、その音楽はと様々な問い掛けがなされる所である。(続く



参照:
フランクフルトのオペラ 2019-06-10 | 文化一般
いざ「ロデリンダ」 2019-06-08 | 生活
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LINUXでペアーリング

2019-06-13 | テクニック
音楽PCにしているLINUXを少し弄った。懸案になっていたVPN接続は可能となった。WINDOWSでは考えないでもクリックだけで済ませたが、LINUXとなると頭を使わないといけない。ワンクリックで使いこなすには小さなプログラムを書き込まないといけなかった。だから空く時間をと思っていたら忘れていた。そこで折衷案で数クリックで済むぐらいにして使うことにした。先ずは使えるだけで価値がある。主に日本の放送を録音したりの目的に使う。

メインのノートブックの方では録画だけで録音をしないようにしているので、仕事をしながら簡単に日本からの放送を録音などすることが不可能になっていた。とは言ってもそれほどの出番は無いのだが、準備してあるだけで使いやすい。

その機能も整ってこれで音楽PCもほぼ完成したと思った。実は最後の課題があった。そこでもう一度清掃して、不必要なプログラムをどんどん消していった。危ないかなと思う機能もあったが、なによりもスリムにして軽くしたかった。

そして翌朝仕事をはじめようと思ってBGM鳴らそうと思ったらシステムMINT19が立ち上がらなかった。これは消し過ぎたと思った。やはり復旧に一時間以上費やした。走りに行く時間と同じぐらいかかった。そこで躓いたのがWLANから外れてしまっていて再びwlan0 upと起動してやらなければいけなかったことだ。それで、再びリインストール指令を入れると復旧した。欠けていたのは僅かだが、その中になぜかbluemanと称するブルーテュース関連プログラムがあって、消えていたことは気が付ついていた。

そこが実は最後の課題だった。つまり折角のノイズキャンセルングのイヤフォーンが音楽専門PCに繋がらなかった。原因は古い2.0規格のものしか内蔵していないからとアダプターを購入したのだが、WIN8のPC同様にもう一つ接続が上手く行かなかった。しかしLINUXの方は器械制御に近いのでプログラミングで何とかなる筈だった。そこで、bluemanをインストールする序でに、色々と調整をしてみた。先ずは全く見つけられなかったものが今度は急に過去接続した機器の一覧が表れて、scan on指令で肝心のWI-1000Xが表示されたので、これでペアーリング可能と推測が出来た。

最後に調整してやらなければいけなかったのはA2BPの出力先で、WI-1000XがPCのオーディオ出力段に表示されたのでこれで解決した。つまり古いブルーテュースソフトを消したことで最新式のものに上手く変換可能となった。どうもこれが良かったようだ。PCオーディオから最早LINUXは手放せない。最新式のノートブックで稼働させると二十年ほど前のプロユースのマッキントッシュなどよりもいいのではないかと思う。

つまりこの小さなミニノートブックを旅行先に持ち歩けば、世界中どこでもネットラディオならば完璧に録音可能となる。試聴のためのヘッドフォンとDACが必要かどうかだけで、通常の目的ならば殊更要らない。

更に早速、週末のワイン祭りの日にこのPCでいつものようにNASからの音楽を流して、ノイズキャンセリングのヘッドフォン飛ばせるようになった。昨年も効果は試したが、音源も充分にあって、あと二日間ぐらいならばこれで何とか心安らかに過ごせるだろう。



参照:
祭りの喧噪もなんのその 2018-06-10 | 音
PC音楽再生再び 2019-05-21 | テクニック
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グラデーションの綾

2019-06-12 | 
承前)シマノフスキー作曲「王ローゲェ」にはその舞台に関して事細やかにその光の扱いまでが指示されているようである。今回の演出では男性の裸踊りも無く飽く迄も抽象的に扱われた故に余計にその音楽に耳が向くことになった。すると合唱は兎も角、ピットからはどうしてもそのアンサムブルの核と質が問われることになるのだが ― 現在の第二カペルマイスターの位置にはアシスタントとしてタケシ・モリウチと言う人が就任している ―、残念ながら市立劇場の管弦楽団は、ペトレンコ指揮のミュンヘンのアンサムブルの様には到底いかない。因みにキリル・ペトレンコは、ここで浪人中に新制作を二つも振っているが、こけら落としなどで余程のことでもないことには戻ってくることは無いであろう。

そもそも劇場の指揮者カムブレランの指揮の冴えもその域を超えないことから、例えばサイモン・ラトル指揮や先日ヴァイオリン協奏曲を指揮していたネルソンズ指揮のボストン交響楽団とは比較のしようが無い。なによりも物足りなく感じたのは、全音階であろうとも調性であろうとも、またはクラスターの響きであろうともそこでの管弦楽上の差異を付けれるようなアンサムブルには至っていなかったことで、同じ条件でもペトレンコが指揮を担っていたならば少なくとも三回目の上演となれば努力目標として解決可能なグラデーション付けへとまでは全く手が付けられていなかった。恐らくこの指揮者がSWRの交響楽団でも出来ていなかった面では無かったかと思う。それは終演後の指揮者への拍手を見てもよく分かったが、恐らく読響での様に鳴らしても本場の劇場の聴衆は殆ど喝采しない。その手の管弦楽が受けるのは日本におけるそれの需要の歪であって、同時に二流楽団ほどにはピッチの落ち着いたビックファイヴなどがそれほど人気が無い事にも矛盾していない。

しかしこのミストリウムにおいても情感的な裏付けが不可欠であって、さもなくば何も語りかけることも無く、こうした指揮者の劇場感覚がとても重要である。この指揮者を聞くのはザルツブルク時代から久しぶりだったが、流石にその指揮も並の劇場指揮者とは違い、確かに指示がよくなっていると感じた。

因みに、各放送局などの批評にもあるようにキャスティングに穴が無かったのも賞賛されている。特にタイトルロールのルーカス・ゴリンスキはこの役のエキスパートであり、ポーランド以外では殆ど歌っていなかったようで、来年にはコヴェントガーデンでのマルチェロなどが入っている。王の妻を多くはヴォカリーゼで歌ったシドニー・モンツェソーラも良かったのだが、牧童役のゲラルト・シュナイダーに役ごと喰われて答礼の順番を変えられて若干気の毒だった。その役作りに関しては、もう少し両性的なものが出ないかと感じたのは前夜に散々カウンターテノールを聞かされていたからかもしれない。

さて、オリエンティーリングにもあったように、この劇場作品のフィナーレを体験するとすっきりせずにもやもやした気持ちになるとしたのは、この楽曲における主題がオリエンタルな主題を散りばめ乍らも異国情緒とはなっていないことにも関係する多文化主義的な要素と、今回も小さな鏡が演出として使われていたがそれが自己投影するという創作動機がそこにあるからだ。

カトリック教会が国民統合の中心に君臨していて、今日現在のヴァルシャワ政府が教会を基本文化として仰ぐポーランド社会にとっては、ここに見る両性具有のような牧童が体現するエクスタシーは、その社会からすれば異物でしかない。異文化とするそのこちら側にはドグマティックなキリスト教文化圏からの窓が開いていて ― 舞台では背後の壁の上から牧童が手前で繰り広げられる様を覗き見るような演出になっていて丁度こちらからとは反対の視点が存在している ―、ここで主役の王ローゲェはそこに踏みとどまることになる。その視点の微妙さこそが、聴衆に訴えかけることとなっている。まさに今日のEUの視点をそのまま映し出しているからである。音響的なグラデーションがそこに求められている楽譜となっているのは想像が付くのではないか。

一つ空いた席の横に居た爺さんが、暗転から明るくなると同時に喉を鳴らしつつブラヴォー第一発を出していた。やるだけやって早めに席を立って帰って行ったので、その真意を聞くことは無かったが、ミュンヘンなどとは異なり劇場的な価値観がまたシュトッツガルトのアンサムブル重視ともまた違うものを感じた。

逆にそうした客層から、前晩のヘンデル作曲「ロデリンダ」公演の人気と、その公演最終日の聴衆の反応をもう一度思い出してみたい。「王ローゲェ」に比較して、どうしてここまで人気があるのか?ヘンデルのオペラの上演はどこの劇場でも日常茶飯であり、他のバロックオペラに比較すると若干ヘキヘキとする傾向があるぐらいだからだ。勿論今回は「ユリアスシーザー」以来のフランクフルト出演のアンドレアス・ショルの歌にクラウス・グートの演出という人気は無視できなかった。そして実際にその演出もとても後を引く印象を残した。(続く



参照:
早くも秋の気配の夏休み 2011-07-22 | 暦
避難第三弾を計画 2019-04-04 | 生活
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光と影のミスティック劇

2019-06-11 | 文化一般
フランクフルトの市街地は暑い。空気が暑い、排出ガスが多いのかもしれない。高層ビルに囲まれていても煙突効果を防いで、空気が上手く回っていないかのようだ。折からの好天だったが、地下鉄で二三駅移動するだけで違う街区の風が気持ちいい。ヘクストの工業地帯で水温の上がったマイン河の辺にあって、ロートシールト家の本家の隣であっても、その空気はそれ程ウェットにはならない。もしこれがセーヌやテームズの流れだったらと考える。要するにおかしな情感とは無縁の土地柄である。決して道頓堀にはならない、また独最大の労働組合IGMの本拠地の並びでもある。

二日続けて同じ劇場に通ったのはバイロイトの祝祭劇場以来かもしれない。出し物はバロック後期と1920年代の作品と全く創作時代が異なるばかりか、オリジナル楽器演奏と大管弦楽団を続けて座付楽団がやり遂げてしまうこと自体が、そこら辺りの地方の劇場ではありえない。

前者の「ロデリンダ」の方の牢獄シーンは「フィデリオ」と、後者の「ロジェ王」の方は「サロメ」と比較しても構わない。そして、二つとも子供が重要な役として登場していて、そして光が影を射している、つまりハ長調の影が強く射す。双方のプログラム冊子の、また舞台の白黒が際立った。しかし、双方ともが美しいコントラストを放って、聖霊降臨祭を彩るようなことは無く、まさしく劇場外の両日の残像のように尾を引いた。

後者のシマノフスキー作曲の作品自体のフィナーレのあり方など、その解決も話題となるようなのだが、今回のヨハネス・エラートの演出にドラマテュルゲとして関与した公演前のガイダンスでのホルパーチ氏の話しに尽きた。作曲家の恵まれた環境やその作曲への動機付けなどが示唆されていたが、この作品における同性愛へのディオニソスの存在と、祖国ポーランド若しくは生まれ故郷の現在のウクライナ地域への視座が全音階のオリエンタルな音楽への傾倒へと結びついた。そのものサロメの「七つのヴェールの踊り」と対象化される。しかしそのもの音楽監督リヒャルト・シュトラウスの追従ぶりとは異なり、自らの音楽言語の独創性を追求したシマノフスキーはその死の四年後にはピエール・ブーレーズによってその和声が注目されていた。

今回の演奏は、元音楽監督のカムブレランの帰還公演としてその指揮で為された。前夜のバロックオペラ指揮とは正反対に本格的なオペラ指揮者の腕を披露して、歌手への指示などで音楽の劇場的効果を最大限に生かしていたが、それゆえに余計に座付楽団のまたその指揮の限界をも如実に表した。故ジェラル・モルティエがこの指揮者について頻繁に書いていたように、演出段階から指揮者として関与する姿勢が見て取れた。予想通り、参考資料としたパパーノ指揮のコヴェントガーデンでの演奏とはランクが異なり、音楽劇場にそれほどの高度な音楽は必ずしも必要が無いこともよく示した。音楽劇場にそれほど高度な音楽を期待する方がお門違いかもしれない。

この「ロジェ王」は敢えて音楽劇場作品と呼ぶべきで、実際作曲家シマノフスキーの当初付けた副題「三幕のミストリウム」となり、「オペラ」とはウニファ―サル版でのように後に付け加えられた。つまり近代では舞台神聖劇「パルシファル」一幕と三幕の中心部分に相当する。その通りエクスタシーからエクスタシーへと運ばれる音楽がそこにある。その言葉や独自性からスクリャービンなどを想起する向きもあるかもしれず、所謂ロシアの象徴主義の流れにも置かれる。

創作過程は、作曲家のまた従兄弟に台本を書くようにそそのかしての協調とその関係において垣間見ることが出来るようである。一幕から二幕に掛けてはデュオニソス的に王の妻ロクサーナのみならず市民を魅了する牧童が主役になっているが、三幕になって王の影に隠れてしまう。そしてロジェ王は、日が昇るハ長調の世界に取り残され強い影が射して暗転となる終末を作曲家は求めた。自らをそこに投影させていたからである。

1937年の作曲家の死後、評論家のシュトッケンシュミットが「この作品にはまだ時代が熟していない」と書いているようで、結局このドラマやロジックの代わりにミスティックが制する作品が音楽劇場作品として取り上げられるようになったのは二十世紀末のこととなる。(続く



参照:
フランクフルトのお題二つ 2019-06-07 | 文化一般
フランクフルトのオペラ 2019-06-10 | 文化一般
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フランクフルトのオペラ

2019-06-10 | 文化一般
フランクフルトから帰宅した。天候が不順になったので地元のワイン祭りも少しは静かだろうか。更に気温が上がらないとなると窓を閉めれる。街を出るときは晴れていたが、どちらかと言うと、崩れる方向に重い空気と色の強い明け方の空を感じた。案の定ダルムシュタット周辺はアウトバーンが湿っていた。その後マンハイム周辺では乾いていたが、ワイン街道に近づくと窓に雫がところどころあった。

今回は聖霊降臨祭だから、一年前から用意していればザルツブルクでオペラなどを訪れていたと思う。来年は時期がずれる。それで、フランクフルトでの二日はどれほどの価値があったか?先ずは駐車場で22ユーロ、つまり6ユーロ二泊と休日の昼間10時間の駐車料金を加算した料金である。ミュンヘンで「神々の黄昏」に停めるよりも安い。問題は現金で取られたことだろう。更に最終日に車を取りに行くときに地下鉄の最小区間で1ユーロ28程とられた。その他はプログラムの5ユーロ、コーヒーや水などで、その他の地下鉄は券に含まれているので無料になる。燃料費は往復200㎞少しなので知れている。

芸術的な価値は、二日続けて通って ―「あの人昨日も来ていた」とか声が聞こえたが ―、昨年の新制作を加えると、この市立歌劇場の音楽劇場としての位置づけが出来たことに尽きる。そこから考えると、演出が何だかんだとは言いながら、如何にミュンヘンの国立劇場が突出した存在であるかも改めてよく分かる。視点を変えるとこの金融のメッカであるフランクフルトの劇場が突出した市立劇場であることもよく分かる。

土曜日の新聞に劇場の今後が市民運動からも議論されているとある。新築、改装、移転などが今後決定されるという。連邦共和国第五の大都市で裕福な都市なので可能となるとしても、様々な問題が解決されなければいけないようだ。同地に高層ビルを建てたいという投資グループの支払額で移転してのアイデアと同時に1902年のファサードで再建というアイデアもあり、現在の芝居小屋とオペラ劇場が隣り合わせになる形から分離するアイデアとなり、また四年から七年ぐらいかかるかもしれない間は芝居劇場でオペラを上演するなどと、これまたシュトッツガルトで移転小屋が見つからない事と同じように芝居小屋の仮の小屋を探さなければいけないという。いずれにしても九割以上の座席占有率は優秀である。



参照:
フランクフルトのお題二つ 2019-06-07 | 文化一般
ショックのUバーン体験 2018-06-18 | 歴史・時事
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いざ「ロデリンダ」

2019-06-08 | 生活
ヘンデル作曲「ロデリンダ」、何とかなりそうだ。まだ粗筋も読んでいないが、最後まで楽譜に眼を通せば、もう大丈夫である。とても音楽的に的を得ていて、飽きさせない。ポルポリ座に興業的にはやられるのだが、やはりとても知的な創作をしていたと思う。ダカーポアリアの意味やその構造までを考えさせてくれるように、真面目な創作態度が伺える。必ずしもヘンデルのバロックオペラがいつもこうではないと思うのだが、そのレティタティーヴを含めて無駄が無い。片づけものをしながらざっと音を流してと思っていたが、中々息をつかせなかった。

結局参考音源はYouTubeにあったアーノンクールの序曲を最後まで聞かずに放棄した。この指揮者は古楽合奏のパイオニアであったことも、モンテヴェルディ、モーツァルトから華々しい活動を繰り広げて、今でも「ポッペアの戴冠」上演が強く記憶に残っているが、訳の分からないことしている。手書きファクシミリを利用しているのか何かわからないが、殆ど意味の無いようなことをしているようで、自身の出来ないことをこじ付けて何か新機軸のように見せているとしか思えない。フォンカラヤンの膨大な録音群が役に立たなくなったのに続きこの指揮者の数々の録音や録画も風前の灯化しているようだ。気を取り直してエマニュエル・エイム指揮のリルでの上演を聞いた。とても良かった。この女流はフランクフルトのバッハの会でも招聘したことがあったが欠席した。以前はもっと癖が強く感じたがよくなったのだろうか?中々見事な指揮である。これだけの演奏を聴くとマルコン指揮のフランクフルトの楽団がどれぐらいできるのか心配になる。そこで歌っていた黒人の主役女性もとても優れていた。画面を見ていなかったので正直黒人特有の声に全く気が付かずに驚いた。声楽の世界も更に進んでいると思った。

仕方がないので粗筋だけでもWikiでざっと読んでおいた。登場人物の名前が分かり難く、まるでロシア文学を読み始めたようになってしまった。到底これだけの人物が出てくるとなるとその人間模様などは芝居を見なければ到底分からない。実際に見たら分かるのだろうか。オペラセーリアの叙唱のところで上手く演出してくれないとどうしようもない。やはりクラウス・グートの天才的な演出に期待しよう。一寸づつわくわく感が出てきた。

ワイン祭り初日は天候も今一つで大した盛り上がりは無かったが、それでも睡眠は深くなかった。同時に夜中に録音していたカーネーギーホール中継は成功はしていたが、音量が小さ過ぎた。それでも移動32Bit録音にしているので再生には全く問題が無い。

これを書きながら、朝早く峠まで駆け上がった疲労から睡魔に襲われながらも、BGMとして流していると、やはり面白かった。特にプロコフィエフのピアノ協奏曲三番はとても興味深い。昨年ペトレンコ指揮でワンのピアノでルツェルンで演奏して大変話題になった曲であり、それと比較するからだ。ピアノはワンのような名人ではないので限界がある一方聞かせ所を上手く管弦楽と合わせて作ってきていて、ある意味分かり易いのだが、やればやるほどキリル・ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが完全にそこを抜けきったところで演奏しているかが分かるからである。確かにフィラデルフィア管弦楽団も立派に弾いているがもはや次元が違う。

奇しくもペトレンコが一歩も二歩も先に行ったところで指揮をしているかが分かり、ベルリンのフィルハーモニカーがどれだけのことをしようとしているかが一目瞭然になると思う。世界一のフィラデルフィアがこなしているところから先に狙いが定まっている。ベルリンで四月に「練習」して八月に更にに先の演奏をしていることが比較によって容易に分かるのではなかろうか。



参照:
フランクフルトのお題二つ 2019-06-07 | 文化一般
店仕舞い商法もどき 2019-05-23 | 雑感
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フランクフルトのお題二つ

2019-06-07 | 文化一般
フランクフルト歌劇場での二つの上演の新聞評を読む。出かける準備の一つである。一つはヘンデル作曲「ロデリンデ」、もう一つはシマノフスキー作曲「ロガー王」。評などを先に読むのが嫌なこともある。所謂ネタばれと言うのが嫌だとなる ― 尤も演出云々でなくて評価の核心であるが。しかしこの二作品とも殆ど知らない。そもそもこれに出かけても良いと思ったのは評判の良い演出と、未知の曲ということが決め手となった。

そして前者のフランクフルト初日の評判はやはりよい。それは共同制作で既に上演されているので少なくとも演出がよいのは周知で、それでもクラウス・グートのそれは興味深いに違いない。そしてフランクフルトでのキャスティングも評判が良い。そして詳しく載っている。しかし幾ら詳しく書かれても想像できない。しかし如何にも詰めすぎな感じが唯一欠点とされると、益々準備の必要を感じる。一体いくら時間が残されているのだろう?

KRÓL ROGER von Karol Szymanowski

そして新制作でこの日曜日2日に初日を明けた「ロガー王」も思ったよりも評判が良い。そして批評を読むと早わかりで作品の根幹も分かる。少しお勉強の意欲が湧いてきた。双方とも歌手陣だけでなく指揮者も管弦楽も健闘しているようでそれだけで少し安心だ。

月曜日のブレゲンツからの「千人の交響曲」第二部中継のあと、未だにオンデマンド化されていない。楽団が以前のように再びCD化する可能性はあるが、MP3で一月ほど晒しても全く問題は無い筈である。音質が悪いからと言って拒絶する必要もない。謎であるが、そこで日本公演の録画を観てみようと思った。幾らか料金が掛かるが、新しいWLANネットになってから使っていない。そして実際に試してみると以前はHD仕様では再生不可だったのが可能になっている。そしてその音声も良くなっていると思った。映像ほどに音声は大きな負荷が掛からないので差異を付ける必要もないのだが、圧倒的に迫力があった。ラディオ放送の方の音とは若干異なる。その差異がどこから来ているのかは分からないが、映像の方が近接感が強調されたミキシングになっているのかもしれない。兎に角迫力があって、ペトレンコ指揮では舞台上の演奏だけに最もゴリゴリした音録りになっているかもしれない。

そして聞いてみると日本から戻って来た時にミュンヘンで聞いたものよりも「子供の魔法の角笛」はいいと思った。基本は歌手のゲルネに合わせているに過ぎないが、マーラー解釈の細やかさでは立派だ。当時の交響曲五番からこうして八番まで聞いて漸くキリル・ペトレンコのマーラー演奏実践が呑み込めてきた。

それにしてもペトレンコが日本デビューで指揮した「タンホイザー」などその多くは在任期間中の頂点を示す演奏をしたレパートリーであって、本当にこの指揮者の職業的なモラルをこうしたところにも強く感じる。そうした舞台での姿は芸術云々とはまた異なるところ放つ光彩であり、やはり徐々に大きな支持を得ることになる要素なのだろう。まさしく彼を見出したバッハラー支配人の言う通りなのかもしれない。



参照:
Erotische Entfesselung, Gerhard R.Koch, FAZ vom 4.6.2019
Darum ist der Schmerz so schön, Wolfgang Fuhrmann, FAZ vom 14.5.2019
店仕舞い商法もどき 2019-05-23 | 雑感
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
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眠れなくなる射幸心

2019-06-06 | 試飲百景
日曜日の試飲会はそれなりに価値があった。昨年は忙しくて日程を忘れていた。だから数週間前に試飲していたのにも拘らず売り切れてワインを買えなかった。それどころか人のためにいいワインを勧めておきながら、その価値の分からぬような人間がワインを購入して自分自身が買えなかった。いい加減、そやつの口にワインの瓶を押し込んで流し込んで込んでやりたかった。そんな不条理なことは許せない。結局秋にお慰め程度に下から二番目のリースリングだけを六本別けて貰った。勿論それ以上は要らなかった。

そして今年は2018年という暑い年のリースリングに拘わらずそれなりに満足した。つまり昨年のように収穫量が少なく、貴重な神の雫をバカ者が口にしてしまうような不条理は起きない。しかしあまりにも親しみやすいリースリングとなっているので、選択がより難しくなった。このナーヘ側の上流にあるデーノッフ醸造所は昔のアイスヴァインなどに定評があって、有名人が押し寄せる。今回もバイロイトでも有名な歌手に会えて声を掛けれるかと思ったが日曜日には来ていなかった。以前見かけた時には誰か分からなかったが、既に数晩はキリル・ペトレンコ指揮で聞いている。

ベーシックなグーツヴァインも悪くは無かったが、流石に薄造りでミネラルも控えめだ。そして結局二番目のトーンシーファーが気に入った。アルコールも12.5%とと高めだが、2017年産のイガイガ感が全く無く、その完熟した果実の酸と同時に清潔さとシーファー土壌のミネラルが清涼感にさえなっていて、更に価格が12.8ユーロと大変お得だ。秋にもまだ残っている可能性があるが9本購入した。先代の奥さんがまた端をまけてくれたので、一本12ユーロ以下でこれだけの質の高アルコールのリースリングを購入した。充分に地元のオルツリースリングを地元価格で別けて貰ってもこれだけのミネラルは味わえない。要するに飽きが来ないということだ。

酸がどうしても効いていないのはゲストに来ていたラインガウのキュンストラー醸造所のそれで明らかだった。それからすると先月の同じナーヘのシェーンレーバー醸造所の2018年よりも酸が良く効いていた。やはり谷の冷え方も違うのだろう。そこで先日会った親仁がまた来ていた。「どこで会いましたかね」から始まって、親仁を追いかけまわした。オペルのデザイナーのようで、地元で案内してやるからと名刺を渡しておいた。その他に前々日にレープホルツ醸造所で出会った夫婦にも声を掛けた。

やはり人の話を聞くことは自身の選択の根拠をはっきりさせるためにも役に立つ。何事もそうであるが、考えの道筋をつけておくことは何事にもまして重要だからだ。でなければ試飲会などに出かけても無駄でしかない。しかし上の親仁を二回しか会っていないのにとても気に入ったのはオタクを超えた典型的な数寄者だからだ。

親仁はオークションにも札を出すのだが、その締め切りを前にして夜も眠れ無いと語る。嫁さんが「あんた何をしているのよ」と質すと「どうしようか、ああ幾らにしようか」とあれやこれや考えて眠れないのだ。もうこれを聞いただけで、一人でやらせておけないと思ってしまうのだ。あんたも好きねとしか言えない。差し詰め、音楽ファンならば、どの日にどの辺の席を狙おうかとか思ってあれやこれや考えて眠れなくなるのと似ている。オークションもネット販売もよく似たところがあり、簡単に手に入らないとなると余計に射幸心を煽るのだ。先日知り合ったモーゼルのリーザ―醸造所にも奥さんを運転させて早速訪問したという。我慢がならなかったのだろう。

さて重要なグローセスゲヴェックスの品定めである。新たにグランクリュ指定された「クローテンピュール」と「ミューレンベルク」はもう少し様子を見てみなければいけないが、火山性の「フェルツェンテュルムヒャン」が珍しく癖が無かった。通常は何年か寝かしてバランスが取れたところで味わうリースリングだが、これほどすんなりと楽しめそうな年度は初めてだ。要するに葡萄の熟成が健康極まったのだろう。すると「デルヒェン」も更にどんな食事にでも合わせ易そうでよかった。最も複雑で完成する「ヘルマンスホェーレ」はその分拮抗する内部バランスが弱く感じられた。一本50ユーロ近くするグローセスゲヴェックスであるから何もそういった年度に無理して購入する必要はない。

ほかの甘口などは決して良くなく、オークションリースリングの辛口「ブリュッケ」も良くは無かった。総じて、逃した2017年産よりは遥かに清潔で、ミネラルも充実しているが、酸がどこまで効くかだけだ。少なくとも現時点で弱く感じていなければ、こなれた酸であれば弱ることは無いので大丈夫だと思う。但し寝かして放って置いたら思いがけなくよくなったということはなさそうだ。ミネラルが開いたところでお楽しみである。



参照:
2018年産最初の試飲会 2019-05-05 | 試飲百景
ラインガウワーの印象 2018-05-19 | ワイン
しぶいゼクトを購入 2018-09-20 | 試飲百景
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満ち溢れる愛の聖霊

2019-06-05 | マスメディア批評
気持ちが高まる。千人の交響曲第二部の中継録音放送を聞いた。やはり其々の肝心なところでの対照が激しく尚且つとても丁寧で、その移り行きはこの天才指揮者にしか不可能なところ数々だった。第二部の中での描き方が徹底していて、如何にこの作品が全体の構成と同時に細やかなところまで行き届いているかがよく分かる。百年近くこの曲がこの作曲家の代表作とは鑑みられることは無かったが、ここに来て新たな評価が加わった。やはりオペラ的な構成感で、一体どこがマーラーの唯一のオペラなのかとの疑問への回答がここにある。

「ファウスト」のあの戯曲に誰もが感じる時間感覚への回答であるかもしれない。第一部の言語学的にItが示すような一神教的な視点に続いて、第二部でのそれが問われるところでもある。それが創作動機の一つであって、それが第一部から第二部へと特別に次元を跨ぐようなまさしく量子的な跳躍である。これほど気宇壮大な音楽芸術があったろうか。そして第二部のピアニッシモの粒子の塵からフォルテシシモの宇宙の雷動へと、それが余裕を以って鳴り切るという稀有な例であった。この曲がベルリンで演奏されるぐらいの時期になるとフィルハーモニカーもそのサウンドが変わってきているのかもしれない。

しかしそれにしてもこの録音を聞くと、初日の新聞批評が「一生に二度と無いことだろう」と書いた一期一会の気持ちは分かる。放送の前番組でも予告していて、とても価値のある録音だと紹介していたが、確かに皆にとって忘れがたい日とアナウンスされたように、指揮者ペトレンコにとっても記念すべき演奏会であったに違いない。世紀の体験になるのは世紀の指揮者ゆえで、不思議でもなんでもないのだが、やはりこの創作の出来がなんとも素晴らしい。

ルツェルンからまたご案内が入っている。やはりハーディング指揮の「トリスタン」が売れていない。二割引きでも安い席でさえ殆ど出ていないようだ。余程期待されていないとしか言えない。コンセルトヘボーの後任指揮者にはほぼ落選だと思う。それどころか中欧での仕事が室内管弦楽団以外ではローカルな楽団で数をこなすようになってきている。その実力や才能とは別にして知名度の割には活動が冴えない。ヤルヴィの後任にN響指揮者になるのではなかろうか。

と思っていたら、その下にはゲヴァントハウス管弦楽団のフレンチプログラムが紹介してある。なるほどそれほどではなくても、もう少し売れて欲しいだろう。とても期待できるコンサートだが可成り通向きでもある。

新聞にバーデンバーデンの支配人を辞めるアンドレアス・メルヒツェッブホウザ―の話しが載っている。最も興味深いのはベルリナーフィルハーモニカー招致の裏話しだ。一番に、「フィルハーモニカーがもはやザルツブルクでは愛されていないと感じていた」こととあり、「バーデンバーデンでは街の中で友人となっている」とされる。実際この感覚は分からなかったのだが、中途半端にザルツブルク市も大きく、夏の音楽祭慣れしていて、アットホームな雰囲気は無いだろう。そして、ひっそりと慎重に話が進められて、相手にとっての利点を考量することから、最大の結果を得られたとされる。

確かに、サイモン・ラトルの談話と併せ以って考えると辻褄が合う話しであり、ザルツブルクが奪還への根拠として「いづれバーデンバーデンも金のことで持て余すだろう」としていて、明らかにそこに悪意があったことが分かる。

もう一つ興味を引いたのは、以前は辞めてから財政で支援をするということだったが、既にミュンヘンに移っていて、回想本を書くことどころではないという発言だ。要するに引退しないということで、それこそティーレマンが云い寄ってくるのは分かる。それからゲルギーエフとも手弁当で土台作りに協力した友人関係であるということも重要だろう。もしかするとゲルギーエフと何かをやるかもしれない。



参照:
Er hat alles erreicht, jedefalls fast alles, Lotte Tahler, FAZ vom 4.6.2019
平和と強く鋭く叫ぶ精 2019-05-28 | マスメディア批評
沸々と、ああ諸行無常 2019-05-25 | 音
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アスパラガスも終わり

2019-06-04 | 料理
週明けから走った。出遅れて、陽があったので汗を掻いた。それでも例年の六月からすれば五月の様に気持ちがよい。週末二日間の試飲会はそれなりに疲れた。肝臓の機能というよりも飲む量も多いかったに違いない。何処にも出かけなかったが連休疲れの一種だろうか。

さていよいよブレゲンツでのマーラー交響曲八番の第二部の放送である。そしてなぜか第一部の放送分がまだオンデマンド化されていない。普通ではないのだが、考えられるのは二部が揃って、纏まった形でオンデマンド化するというサーヴィスだが、このローカル局の仕事としては超えている。もう一つはオンデマンドにはしないという約束があった可能性だ。昨年の七番は一切出なかったのに比べて、その方が解せない。兎に角、第二部をしっかりと中継録音放送で録音しなけらばならない。

第一部はいつものように32BitFlot96kHzで録音して、そのNASからの再生に苦労したが、ようやく落ち着いてきた。ネット接続のプロトコールなどのアップデートも影響すると思う。更に再生もダイレクトにDACへ96kHzで出すと、それはやはり素晴らしい。嘗てはストリーミング放送のハイレゾリュウーション相当に疑問を持っていたが、今回の巨大な音像を再現するにはこれしかないと思った。丁度ベルリナーフィルハーモニカーが提供する192kHzのハイレゾへまではいかなくとも空間再現も十全だ。その会場にいた人への御土産なんかではなく中継放送として第一級の録音である。

ざっと一雨来たがこれ以上は困る。雷で停電になったりは困るからである。帰って来て体重を量ると74.5KGになっていて限界域に近づいている。これを過ぎると90KGまで簡単に行ってしまう体質である。健康のために注意しよう。ワイン祭り会場の準備が始まっている。金曜日が初日で、翌日フランクフルトへ逃げる。帰宅は月曜日の早朝の予定だ。気温は少し落ち着きそうだが、湿気も上がってきそうである。

白アスパラガスの季節も終わりである。いつものようにくずを購入して、薄肉巻きにした。いつもはニンジンなどを入れるのだが、たまにはこれもいい。オーヴンで火をかけたので一部が焦げてしまったが、サクサク感は満足だった。



参照:
キールからの燻製小魚 2014-05-05 | 料理
ぶらさげてなさい、ボックスボイテル 2010-05-25 | ワイン
コメント (2)
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心安らかに眠りに就く時

2019-06-03 | 雑感
ベルリンでの演奏会の録音を聞いた。日本での評判をフィルターに掛けるのは自動的であるが、やはりそれでも騙される。ヴァイオリンのイヴラジモーヴァがどの程度か、やはり誤解していた。いつものように感想文ではなく感激文に騙された形だが、タタール人とも知らなかった。なるほど日本での感激がアジア的なそれだったのも当然だが、それ以上にメニューイン学院の言及に騙された。よく考えれば一人そこ出身の人を知っているが、ピンからキリではなくてその程度だと再認識した。

楽器が大したものではないのは、先日の諏訪内の「ドルフィン」とは比較しようがないが、ピエトロ・ガルネリの1738年産とある。あの押さえつけたような弾き方で、あれではどうしようもないと思った。技術的にも想定したものよりも大分悪かった。なるほど日本辺りでコツコツと稼いでいる筈だ。

様々な人が感激したことを書くのはいいことだと思うが、中途半端に批評と称して感想どころか感激を綴っていて、そこには全く基準座標が無いことが大問題である。要するに評価が味噌糞一緒なのである。やはり玄人と呼ばれるような人が確りした客観たる判断基準を持っていないのがいけない。やはり日本においては芸事は所詮芸者の時に言うものなのだろう。今回のベルリンでの登場も日本辺りからの売込みが背後にあったのかもしれないと思わせた。ノルウェーの怪我をしたピアニストによる協奏曲と比較してそれほど悪かった訳ではないが、期待したこちらが悪かった。迂闊だった。

それ以上に痛かったのは指揮者のお話しが無かったからで、これでは致し方が無い。代わりに前日にミュンヘンで演奏会のあったブロムシュテットのEUに関する話を聞いた。これも音楽の話しではなかったのでそれほど価値は無かった。オペラの方はオンデマンドになった。ちらちらと映像を観ていたが、終演後の喝采は大きかった。なぜなのかは聞いていないのでまだよく分からない。

試飲会に行く途上、YouTubeにあった「ロジェ王」を聞いた。最初の音からして、楽器編成やらその音色からして、カンブレラン指揮のフランクフルトの座付楽団の出番ではないと思った。その分厚さと言い印象主義を超えたような音響はあの楽団では難しい。要らぬものを聞いてしまったと思った。要するにパパーノ指揮のコヴェントガーデンの上演とでは格が一緒になりそうにない。このフランス人指揮者も日本では大物になっているが、少なくともモルティエ時代にザルツブルクで聞いた印象やSWFでの録音等を合わせるとそれ以上の結果は出せないと思う。

朝起きて、クリーヴランドからの放送を少し聞いた。シカゴ交響楽団がバレンボイム指揮で「我が祖国」全曲を演奏している。本当は録音したかったが寝坊した。そして聞いていると、交響楽団が全く巧くないのである。勿論嘗てのショルティー後のバレンボイム監督時代を期待して聞いていたが、これは違うと思った。案の定2018年の中継録音だった。なぜ当時の実況が聞きたいかと言うと、それと比較して、現在の出来の悪さを明白にしたいからだったが、比較以前に弦楽だけでも下手だった。シナ人コンサートマスターのようだが大分落ちる。来年また生で聞く機会があるが、あまり期待できない。

出かけている間にヴィーンの楽友協会でこれまた日本では絶大な評価のある指揮者のヤンソンスが倒れたようだ。今回の一連の演奏会でも可也無残な指揮だったようだが、もはや引退しかないように感じる。90歳過ぎの指揮者ブロムシュテットが好んでヤンソンスの言葉「六十歳からが指揮者」を引用するのには幾らか皮肉が隠されているのだろう。ヤンソンス指揮の昨年から幾つかの中継を観ていて専売特許の強引なドライヴが出来なくなっていて、誰が振っても同じような状況になっていた。心臓疾患のようだがあの年齢であれだけ体調が悪いとなると指揮活動は難しい。水曜日に予定されていたエリブフィルハーモニーでの公演は誰が指揮するのだろうか?中継がそのままあればそれはそれで楽しみである。

試飲会からの復路、車外温度が摂氏37度まで上がっていた。間違いではないのだろう。陽射しがそれほどではなく、乾燥しているので、長袖で気持ちよかったが、高気温だけに水分は身体から大分蒸発している可能性がある。じっくりと水分を摂取して、ゆっくりと食物を摂取して、気持ち安らかに眠りに就きたい。



参照:
貧相なエンタメを嘆く 2019-01-03 | マスメディア批評
とても魅力的な管弦楽 2017-01-30 | 音
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分かるようになる話

2019-06-02 | 試飲百景
明日試飲会に出かける前に金曜日のそれを纏めておこう。出かける前に冊子を読んでいたように、特別な葡萄の成長過程についての話しがあった。つまり異常に地中に水分の含んだことから、葡萄の生育が遅くなって、今度が四月からの成長が通常は二月掛かるところを四週間で育ってしまったこと、そして八月に摘み取りが始まるという高級ワインを醸造する醸造所では例外的な作業になったこと。それによって集中した手摘みの作業に若い人が奮闘して、そのお蔭であったとの特別な賛辞が発せられた。

そして我々消費者にとってはその出来上がりだ。オーナーでドイツ高級ワイン協会VDPの支部長レープホルツ氏の御講話である。先ずは色の付いたロゼが出された。匂いを嗅ぐとむっとした。その通り1990年産だ。皆はこの醸造所で期待するのは白ワインでしかないが、アメリカでバカ売れしているようなので、試しにこの古いものを出してきたらしい。その心は、2018年の異常な天候からの出来上りのなかでアルコールを11.5%に抑えつつ残糖を0.4gに抑えた出来は、そんなに急いで飲まなくても30年前のものにもまだ酸が効いているので、数年は何ともないという話しである。当時は駆け出しで尖がっていて更に辛口に仕上げていたのだが、その成果である。

三本目は2009年のピノブランが出された。貝殻石灰土壌のもので、現在のそれに相当するものとしての比較試飲である。つまり2018年産は2009年産と共通点があり、ハーブの味はこうして寝かせると食事に合う旨みとなるということで、オリーヴ油のような感じとなると南欧食に合そうということになるか。

五本目はムスカテラーで2005年産であったが、完全に青臭さが落ちていて、なるほどこれぐらい置けば、食事にも合わせやすいというのが分かった。

七本目は貝殻石灰のリースリングだった。これが2005年産で、黄色く成っておらず、ぺトロール香への説明もあったが、その大事な酸は最初に駄目だと思ったら後まで変わらないということを挙げた。つまり、分解された酸でいい感じに感じなければ幾ら寝かしても駄目だということだ。獣臭とか駄目だと。

九本目は同じく今度はロートリーゲンデス土壌のもので2007年産であった。

重要な情報として、雑食砂岩リースリングが百パーセントガンツホルンの地所からのワインになったということで、正真正銘のセカンドワインとなった。

あれ程酸が弱いと思ったリースリングなどを試飲したが酸にやられて歯がガタガタになっている。それでもクールさがあるのは、こなれた酸だけで無しにミネラルの出方だとの話しになった。さて明日はどうなるだろうか?

その前に今晩は幾つもの放送がある。ミュンヘンからのストリーミングはオンデマンドがあるので、それを観ておけば十分だろう。同じような時間に重なっているが、私は真っ直ぐベルリンへと向かう。なんと言ってもユロウスキー指揮の先月16日の中継録音が楽しみだ。メンデルスゾーンのヘルブリーデン序曲からシュトラウスのヴァイオリン協奏曲を日本で人気のイブラギノーヴァのソロで、そして田園を指揮する。通常版での演奏だと思うが一体また何を口から出まかせで語るのか、フィラデルフィアのネゼセガン、ブロムシュテットの講話と同じぐらいに面白い指揮者の哲学の出まかせが楽しみである。

写真:醸造所に行く手前の踏切。何度となく通っていても初めて踏切を待った。そして多方向に遮断機がある。まるで自分の車が間違って踏切内に停車しているような不安に陥った。どこをどのように通るのか中々分からなかった。



参照:
ブロムシュテットの天命 2019-02-14 | 文化一般
トレンドは冷えた「神の雫」 2018-05-15 | 試飲百景
花火を打ち上げる奴 2019-01-01 | 暦
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遠くになりにけり

2019-06-01 | マスメディア批評
先日生放送された祝祭新制作「影の無い女」の新聞評が載っている。何か意見の違いがあるかと思ったが殆どなかった。ラディオ放送では分からなかった演出に関しては、シェローのアシスタントのそれに「理念が無く」とあったのも終演後にブーも出ないぐらいのそれで予想していた通りだ ― そもそも演出が気に入られるということは音楽もなにも分からぬ程度の聴衆の想像の域を超えていないということでしかない。どうも演出云々という層は、僅かばかりの脳を働かして、あれやこれやとものの条理を芝居の中に考えてと、TV連続ドラマを追う程度の知性でしかない。せめて歌芝居でなく、台詞芝居で云々とものを考えて欲しい。

新聞は、だから今回の演出が二十年前のロバート・カーセン演出の心理劇に及ばす、最初の情景からして野鳥館のようだとしている。要するに放送を聴いていたのと初日にプレス席にいたのと殆ど感想は変わらない。

オールスターキャストは、染や夫婦に留めをさして、次に皇帝夫妻、技術的にも問題のあった乳母となり、ミュンヘンでのキャストに及ばない祝祭制作初日では情けない。そしてティーレマンのザルツブルクでのそれを期待していたら外れであり、一幕を抑えたのは歌手を考えたのか、二幕では金管の咆哮でなんとか迫力があり、三幕の弱音の芸術でやっと日常の水準を超えたとしている ― 私の言葉を繰り返せば「指揮者は還暦超えて退化、御用指揮者フィッシャーと変わらない」と殆ど同じことが新聞に書いてある。

更に私が身分相応の喝采としたところを新聞は「嘗ての栄光時に知っている熱狂のようにはならないのがこの記念公演に影を落としていた」としている。これは放送で聞く限り一部の喝采を浴びせていた聴衆をも暗に揶揄していて、つまり150周年を迎えた現在のヴィーンの国立劇場の芸術程度を示唆している。

端的に言い直せば、あの程度で喝采している連中に支えられているような、ここでも最もいい劇場指揮者の一人とされる指揮者ティ-レマンには、それ以上は求められないことということだ。皆が分かっているとしても、当晩劇場に座っていた次期音楽監督ヨルダンが振ってもそれ以上には期待されないということでしかない。栄光は遠くになりにけりということを上手に表現している。

来年のミュンヘンの宿を予約した。前回泊まって気に入ったところが空いていただけでなく格安になていた。一泊55ユーもしないで調理器や食器までついている。前回はダルマイヤーで購入したワインと惣菜で楽しくやった。あれは記念公演の「マイスタージンガー」と見学を組み合わせた時に一泊76ユーロだった。部屋数が少ないのでほとんど同じ部屋だと思う。一泊では短すぎたと感じた快適さがあった。二泊となると二回市内と往復することになる。翌日にフランケン地方に旅立つにしても都合がいい。



参照:
Ein Kaiserpaar, das wirklich singen kann, REINHARD KAGER, FAZ vom 28.5.2019
予行演習をする 2019-05-26 | 生活
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
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