デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



地下鉄グラン・ブルヴァール駅の入口
(boulevardは一つの意味に「(並木のある)大通り」がある。bd.と略される)

集団の夢の家とは、パサージュ、冬用温室庭園(ジャルダン・ディヴェール)、パノラマ、工場、蠟人形館、カジノ、駅などのことである。     [L1,3]
  ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

ヴィルメサンの有名な原則。「何の変哲もない出来事でも、目抜き通り(ブールヴァール)やその近辺で起これば、ジャーナリズムにとってはアメリカやアジアの大事件よりも重要である。」ジャン・モリアンヴァル『フランスにおける大新聞の創始者たち』パリ、<一九三四年>、一三二ページ     [U2a,2]

サン=シモン主義の理論家たちの間では、産業資本と金融資本との区別があまり行われていないのは特徴的なことだ。すべての社会的矛盾は、近い将来に進歩が与えてくれるという妖精の国のなかで解消してしまうというわけである。     [U4a,1]

このあたりでなぜパリに行きたくなったのか、いくつかの大きな動機のうち二つを書いておこう。
一つは、ドストエフスキーが生れたのが1821年でこの時期がパリのパサージュ建築の繚乱期であったこと、のちにドストエフスキーが41歳の頃に初めての外国旅行を西欧で行なうのだが、パリやロンドン、スイス、イタリアを巡った結果、ヨーロッパの物質文明に幻滅を覚えたことと、今のパリに残るパサージュと関連性を見出せるかもしれないというもの。
もう一つは、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』がパリのパサージュをテーマにしていて、実際のパサージュがどんなものかぜひ見たくなったというもの。


フォーブール・モンマルトル通り

一つ目の時点で、自分のあらゆる思考能力をフル動因したところで手に負えないものであることは、今となっては白日の下にさらされている(笑)。情けないことだが、ドストエフスキーが逮捕される前に彼が傾倒していたシャルル・フーリエの「空想的社会主義」と19世紀のパリで見られた資本主義から生れたパサージュの関係となると、それこそベンヤミンの『パサージュ論』を何度も読み返し断片を検討し熟考せねばならないのに、再読はおろか初読のときの印象さえおぼろげになっていた。
二つ目となるともっと悲惨である。表現が過ぎるようだが、パリに出かける少し前になって『パサージュ論』は私にとっては怪物で手に負えないどころか、本に押しつぶされるのが関の山であることをようやく自覚するにいたったのだ。初読のときは単に文字だけを追って、自分の好きな断片の表現やアフォリズムを発見してよろこんでいる程度で、ベンヤミンが『パサージュ論』で何を描こうとしたのが、何を提示しようとしたのか、全く考えようとしなかった。


パサージュ・ヴェルドーの入口

そのような者が現地のパサージュを見て、「ドストエフスキーは「二二が四は死のはじまり」と言ってフーリエを否定するに至った、ではフーリエのことをベンヤミンはどう書いていたっけ?」などと、にわかに考え出したような課題で頭をひねりつつ、ベンヤミンの詩的センスをいまいちぼんやりとも捉えられないまま、何を感じとれというのか(笑)。
それでも、既にパレ・ロワイヤルを紹介した記事でパリのパサージュの黎明について少しだけ書いてしまった。いくら自虐的なことを書いても、せめて少しでも気の利いたことを書きたい私としては、結局は歩いてみて感じたことの本音をわずかに盛り込んだ恣意的なパサージュ紹介文しか書けないだろうが、ぼちぼち書いていきたいと思う。

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以後、パリのパサージュやベンヤミンの『パサージュ論』に関する記事で、『パサージュ論』(岩波現代文庫)から引用させていただく際、他の著書との区別を考慮する場合を除いて著者名と書名は略させていただきます。

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