デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



パリ・ヒストリー

バルザックの『ゴリオ爺さん』の初めの部分に――「ディオラマ」の「ラマ」にならって――「ラマ」という言葉を用いた冗談がある。     [Q1,6]

モンマルトル大通り側の入口にはパサージュ・デ・パノラマについて解説している立ちプレート?がある。
パサージュ・デ・パノラマの名は入口の両側に二つのパノラマがあったことに由来している。
ではパノラマとはどういったものだったかは、こちらのサイトの断面図で大体把握できると思う。360°の壁面には「チュイルリから見たパリ全景」「トゥーロンの奪回」「ブローニュの陣地」「ナポリ風景」など、いろいろと趣向を凝らした絵が描かれ、当時、パノラマに多くの人が詰め掛けたという。ちなみにベンヤミンの『パサージュ論3』(岩波現代文庫)には

ダヴィッドは弟子たちに、パノラマで写生の練習をするように勧めていた。      [Q1a,9]

といった断片まである。ダヴィッドは被写体になる風景をパノラマで代用できるとまで思ったのだろうか(笑)。
パノラマはスコットランド人の画家ロバート・バーカーが発明したが、ロバート・フルトンというアメリカ人がその特許輸出許可(十年期限)を譲り受けた。フルトンは画家であったが、蒸気船や潜水艦、魚雷といったものまで発明し一山当てようとパリにやって来た。しかしフランスでは潜水艦と魚雷の売り込みが功を奏さず、パノラマの売却で急場をしのいだのである。
パノラマの買い手はウィリアム・セイヤーというアメリカ人で、セイヤーは自ら買い取った、ブールヴァール・モンマルトルで売りに出されていた亡命貴族モンモランシー=リュクサンブール公爵の邸宅と土地(の跡地)に本格的なパノラマを1799年の末から二つ続けて建築することにした。ブールヴァール・モンマルトルは盛り場であるブールヴァール・デ・ジタリアンのすぐ横であったので、パノラマに客が押し寄せることをにらんでのことであった。



セイヤーはさらに双子のパノラマの間に、折から流行の兆しが見え始めていたガラス屋根のパサージュを通すアイディアを思いつき、すぐさま実行した。1800年の初頭、パサージュはパノラマとほぼ同時に完成した。別の通りからもパサージュを通ってパノラマに客を呼び込もうという狙いであった。西部で一山当てたいとそこへ向かう人たちのニーズをいち早く察知して鉄道を敷いた鉄鋼王となんかダブる気がした。



パサージュ・デ・パノラマは、呼び物へと人々をそれも快適に導く歩廊であり、さらにパサージュに店を入れることでさらに儲ける、といったビジネスとしては非常に目先の利かせてつくられたものなのだ。
はじめ、当時のパノラマになぜ人が殺到したのか正直分からなかったが、私も同じような体験があるといえばあるのかもしれない。日本で開催されたいつの博覧会だったか、子どもの頃の私は日本企業が出していた半円形の建物の内側の屋根と側面全体がスクリーンとなっていて、なめらかでかつ大きい映像が映し出されているパビリオンに驚いた記憶がある。そこは、昔のプラネタリウムみたいに映写機が中央に設置されておらず、どこから継ぎ目無しの映像が出ているのか分からず、天井いっぱいに映っている人がカメラに向かってボールをぶつけた瞬間は思わず身をかばおうとしたものだった。
そういった映写技術は発展し、今では大きな科学技術センターのようなところで当たり前のように見れるようになったけれども、子どもの頃に入ったそのパビリオンに未来のテレビはこうなるのでは?と夢を見させるものがあったように思う。今に残るパサージュ・デ・パノラマのことを考えていると、そんなことを思い起こした。

パノラマに関する関心は、真の町を見ることにある――家の中の町。窓のない家の中にあるものは、真なるものである。ところで、パサージュもまた窓のない家である。パサージュを見下ろす窓は、桟敷席のようにはそこからパサージュを覗き込むことはできるが、パサージュからは外を覗くことはできない。(真なるものには窓がない。真なるものは決して世界には開かれていない。)     [Q2a,7]

今になって上手い譬えだと思う。それほどまでにパノラマがよくできたものだったという意味と、パサージュも19世紀のパリにあってパノラマと同じような役割を果していたという意味が二重に表現されているかのようだ。パノラマもパサージュも見に行く人にとってみれば、そこは驚きと心地よさそして19世紀の人々の夢を見させるものがあった、その夢は中に入ってみて初めて体感できたものだったのかもしれない。それがつかの間のものであったならなおさら…。

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