デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




前回はパサージュが建設された時代と性風俗について書いたが、パサージュの特色はもちろんそういったことのみならず、人々を惹きつけたブティックやレストラン、小物を売る店、ダンスホールや小劇場といった施設が入っていたことも大いなる呼び物の役割を果していた。


玩具と子ども服を扱う店パン・デピスの前の木馬









右の壁面にミュゼ・グレヴィンの入口をさす蝋の指が

カメラの具合で写りこそ暗めになっているが、12時ごろのパサージュ・ジュフロワはもっと明るい。



ところで、パサージュ・ジュフロワのジュフロワとは建築家の名前である。開発母体となった共同出資会社パサージュ・ジュフロワ社の一員である。この建築家の父親はジュフロワ・ダバンス侯爵で、蒸気船を発明していた。侯爵は同じ時期に蒸気船を発明していたフルトンという人物に特許競争で負けたという。


モンマルトル大通り側の入口

ここには19世紀始めまで5階建ての建物があり、トルコ大使館が入居していた。その建物はロシアの富豪の所有となり、1820年代にはオペラ座などグラン・ブールヴァールに面する劇場の俳優や歌手が多く住んだという。1836年にその建物は取り壊され、大きなホテルが建設された。パサージュ・ジュフロワはその大きなホテル(現在はホテル・ロンスレー)のファザードの真ん中を貫通するかたちで開通することとなった。
パサージュ・ジュフロワはグラン・ブールヴァールがヨーロッパ全体の「盛り場」として君臨していた第二帝政から第三共和政の前半にかけての時期、最も繁盛した。この写真の入口を描いた19世紀中ごろの風俗版画には、入口で渋滞している群集がしばしば描かれているという。
しかし、第一次大戦のせいでグラン・ブールヴァールが衰退すると、それと繁栄と軌を一にしていたパサージュ・ジュフロワも衰退の一途をたどった。建設資材の進化が進んだ中でつくられ多くの人を呼び込んだパサージュ・ジュフロワではあったが、人通りが少なくてもやっていける業種のテナントが入るようになる。しかし、パサージュ自体は取り壊しや後の時代の改修を経ることなく、当時のままの時代の繁栄に取り残された夢の痕跡を残すことになったという。
画像は単調なカメラワークをさらしているが、パサージュ・ジュフロワについてはたしかに古いSF映画を見るような感じで歩いたことを思い出す。パリの大改造がなされる前、デパートが出現する前に建てられた、誰もが気軽に通れ、それでいて目新しい建築で、今のような舗装などされていないパリの雨の日でも買い物を楽しむことができ、たいした目的がなくともぶらぶらでき、待ち合わせに利用でき、「出会い」を期待できる場として、当時は絶好の場所だったのだ。過去のパサージュの姿を記録した図版などが載っている解説書を見ながらではあったが、たしかに自分の足で歩いたなら19世紀の一端を感じとれそうな場所であった。

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