デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



パレ・ロワイヤル別入口?



この画像の方が「シャレード」の場面っぽいかも。

五代目フィリップ・ドルレアンは、パレ・ロワイヤルの中庭に一回り小型の「コ」の字型の建物を建てて、その中庭に向いた回廊をアルカード(拱廊)式の商店街にした。本当は中庭の回りの建物の所有者たちに新事業への参加を働きかけたがうまくいかなかったらしい。
しかし、五代目フィリップが建て1786年に開業した「パレ・ロワイヤル商店街」はパリ中、ヨーロッパ中から人がつめかけ、パリ随一の盛り場となって君臨するに至った。
さらなる店舗拡大を目論んだフィリップは同年急ごしらえで「木(ボワ)の回廊」こと「ギャルリ・ド・ボワ」をつくらせた。これがいかにも華やかさと小汚さと不潔さをいかがわしさを併せ持った賑やかな雰囲気を持ったパサージュのプロトタイプであった。
革命後の1799年、総裁政府令でギャルリ・ド・ボアの全面的解体と石造りのギャラリーの建造が命じられたが全面的解体は王政復古で所有者に返り咲いたルイ・フィリップが1827年7月に布告を出すまで行なわれなかった。


オブジェにしか目が行かなくなった…

ギャルリ・ド・ボワ解体のあと、1830年始めにギャルリ・ドルレアンが完成する。両側にブティックが並び、歩廊の上はガラス天井というパサージュ形式のギャラリーであった。中庭側と庭園側にも屋根つきの歩廊がありその上には花壇のテラスがのっていて、オルレアン公はアパルトマンから花壇に出ることができた。中庭側と庭園の境目にはドーリア式の柱列が並んでいた。その柱列は花壇のテラスを支えていたわけだが、それが上の画像に写っている左上の柱列なのである。

ご覧の通り、工事であったことは残念だったけれども、正直なところ私自身の勉強不足で左上の柱列がギャルリ・ドルレアンで用いられていたものであったことが映画や本で見たことはあっても現地で分からなかったのである。よって改めて画像に後付する形でパサージュのプロトタイプになったパレ・ロワイヤルにかつて建てられた二つのギャルリについて調べることになったわけだ。





ルーヴル宮の方へ



いろいろ工事中だった



ルーヴルの方向からみたパレ・ロワイヤル

細かいところを端折りすぎだが、鹿島茂著『パリのパサージュ』(平凡社)を大いに参考しパレ・ロワイヤルと19世紀のパサージュの素となったギャルリについて書かせていただいた。拙い記事になるだろうが、パレ・ロワイヤルから北の今も残るパサージュについて、これからも紹介していきたい。

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