パサージュ・ヴェルドー
パサージュは、典型的なパリの発明品である。普通、ガラス屋根に覆われ、歩行者専用で、両側にはブティックが並び、どちらかといえば狭い(四、五メートル)パサージュは、ある明確に限定された時代に生まれ、広がり、急速に衰えた。(…中略…)
…パサージュがさかんに建設されたのは、一八二二年から一八四八年にかけての時代である。パサージュの五分の四はこの時代に作られた。
アルフレッド・フィエロ『普及版 パリ歴史事典』(白水社)
パサージュの相貌は、ボードレールの「気前のよい賭博者」の冒頭の一文に現れている。「今まで何度となくこの豪華な巣窟のわきを通って来たのに、その入り口に気がつかなかったのは不思議に思われた。」<ボードレール『作品集』Y=G・ル・ダンテック校丁・注、パリ、一九三一年>、Ⅰ、四五六ページ [A12,4]
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)
「パサージュは、ある明確に限定された時代に生まれ、広がり、急速に衰えた。」というこの記述が、現在に残るパサージュがかもし出す雰囲気をつくりだした簡潔にして的を射た説明としては秀逸だろう。その理由は追々書いていこうと思うが、とりあえずここでは19世紀前半のパリが、資本主義に駆られ、いかに人を呼び込むものをつくるかを考えに考え、これからのパリがどうなっていくのかという手探り状態のまま、ガラスや鉄骨といった当時の最新技術をどのように建築に生かせばよいか分からないまま、古代の神殿みたいなデザインを取り込む形でおっ建てたパサージュに人が集まり、大盛況になったものの、その後の都市再開発(大改造計画)や、デパートの登場、そして第一次世界大戦などのせいで、まさに急速に衰えたという、大まかな流れだけ書いておこう。
マンサード型のガラス屋根
最初に入ったパリのパサージュは、パサージュ・ヴェルドーだった。フォーブール・モンマルトル通りの入口から入ったのだが、その入口の印象は入口の前に車が止まっていたせいもあってか、気づかず通り過ぎてしまってもおかしくない、というものだった。外の明るさとの落差からか、ぶっちゃけ、一般の観光客は「こんな薄暗いところは近づき難い」と思ってしまうのではないだろうか。
古本屋もあった
パサージュ・ヴェルドーはパリのパサージュ建設繚乱期のなかでも後半、1846年に開通した。比較するための画像がないでご覧いただいている方々の感覚に訴えるしかないのだが、パサージュ建設繚乱期のなかでも後半につくられたゆえに鉄骨資材やガラスがしっかりしたものになっているのである。
パサージュ・ジュフロワが見える
パサージュ・ヴェルドーはこの後に紹介するパサージュ・ジュフロワとワン・セットでつくられたパサージュである。パサージュ・ヴェルドーのヴェルドーというのは、レストランやホテルにシーツやテーブル・クロスをレンタルするシステムを考案した人物だそうだ。
ガス燈は開通当初から設置されていたという
私が読んで行った解説書には落魄(らくはく)の味を最上とするパサージュ、パリの遊歩者のなかでも筋金入りのオタクが愛するパサージュとあって、その理由がワン・セットのもう一つのパサージュ、パサージュ・ジュフロワの集客力とは対照的に、パサージュ・ヴェルドーはいつも寂しい感じのするうらぶれた感に満ちているところがあるとしているのだが、パサージュに来るという念願がかなった私にとってはそんな情緒を感じている余裕はなかった。
私にとっての初のパリのパサージュ体験は時間にすればものの15分程度だったかもしれない。歩廊の幅のデータについては調べていったにもかかわらず、意外と狭いという感覚を得たり、パサージュの全長としては日本のアーケード式商店街のものと比べても非常に短く感じ、戸惑ったものだった。なぜゆえにパリにパサージュが必要だったのか、この時は実感としてわからなかった。