デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



地下鉄コロネル・ファビアン駅の出入口

地下鉄から出て宿の方角を地図で確かめている傍では、がやがやと数人の人が話しに興じていた。そのなかの一人の若い女性から「May I help you?」と声をかけられた。通りや交差点の位置から方角はすぐ分かったので「No problem, Thank you」と返事した。親切な人だったようだ。

宿ではレセプションに人がいなく、中庭へ通じている開いている扉から「エクスキューズ・ミー」と連呼したが誰も出てこない。
まもなくして私のすぐ後に同じ宿に泊まる若い女性が大きい荷物を持って到着した。「レセプション、いないよ」とこぼすと、彼女も私がさきほど「エクスキューズ・ミー」を連呼した中庭に向かって呼びかけた。
するとどうだ。中庭の方からレセプションのおっちゃんがやってきて、「グッド・イブニン」とにこやかに言いつつ席に着くではないか。「俺の声、きこえてたやろ?」とちょっと気分を害しながら、チェックイン手続きを済ました。ルームキーを受け取り階段を上がろうとすると、私の後にチェックインの手続きをしている女性の声と言葉が聞こえてきた。自己紹介の英語のなかでロシア語をまぜていて、そういえば顔立ちからしてロシア人っぽいなぁと思った。


部屋はこんな感じ

エレベーターのない、シャワーとトイレは共同の安宿であった。共同のトイレではライトが点らなかったみたいであった。それは同じ階の焦燥感に駆られたスペイン系の女性から「どうやって点けるの?」と訊ねられてわかったのだが、私がなにをやってみても点かなかった。
その日は別の階の電灯のスイッチが分かりしっかりと点灯するトイレで用を済ましたのだが、次の日、携帯のライトを頼りにライトが点かないトイレでいろいろ試していると、トイレの中に入り、中からしっかりと強めに鍵をロックすれば自動的にライトと換気扇が作動する仕組みで、それらしい説明のフランス語も赤文字で強調する形で書かれてあったのに気づいた。私だけでなく彼女もおそらくフランス語が分からなかったのではと思った。


窓から

部屋の窓から見える景色はこのようなものであった。この時の旅行では毎日、まだ暗い時間の日の出前に宿を出、日が沈んでから戻ったので昼間の景色をみれなかった。

 ***


チェックアウト前日に

日が経つにつれて、泊まっている部屋が自分らしく散らかってくる。上の画像はそういった散らかりを整理するため、また翌朝のチェックアウトのためにリュックに衣類をつめる前の段階。


机の上

絵葉書を書くタイミングは滞在日程の最終日前日ぐらいになってしまうことが多い。私の場合は訪ねた地で手帳に書きとめた内容と現地で得た印象を整理してから書くことが多いが、絵葉書を書こうとすると手帳に書き忘れていたことを思い出したりして、それをまた手帳に書き込んだりして、時間があっという間に深夜になる。

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RERのパリ北駅

RER B線のパリ北駅で降りた。駅は明るくて混雑というほどではなかったが、行きかう人々が適度にいて少しホッとしたものだった。


地下鉄M2へはちょっと歩いた

ポルト・ドーフィヌ、ナシオン、フランス語の読みや発音はローマ字の感覚で臨むと大抵通じないことが多かった。











宿は地下鉄コロネル・ファビアン駅の近く

パリの地下鉄は遅くまで走っていたから助かった。

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シャルル・ド・ゴール空港(CDG)

旅行書の多くで旅先でのトラブルについてページが割かれているものだ。私も一人旅の割合が高いので、そういったページにはよく目を通すのだが、人気の国の大都市となるとトラブルに遭ったという投稿件数や種類は多くなり、中には悲惨なものもあって読むと「行って大丈夫だろうか?」と不安を覚えてしまう。


ターミナル間などを結ぶ「CDGVAL」の駅。RERのB線の駅にも通じている



RERのB線の駅へ




フランス入国にはCDGを利用する人も多いので、CDGからパリ北駅までの移動中に荷物を狙われるというトラブルの例はどうしても気になるところだった。私はRER B線でパリ北駅まで移動したのだが、ここも必ずと言っていいほど旅行書に載っている旅のトラブルポイントの一つである。
RERにもいろいろあり、私はパリ北駅まで停車駅が少ないエクスプレスに乗り、空いている車両は避け、友人同士でおしゃべりしている現地の人のすぐ横に座った。また自分と同じような旅行者と固まって座るのも防犯上いいかもしれない。
それでも、なんだかんだ言って、警戒心を解けない重々しい気持ちになるのは否定できない。パリ北駅に着くまで何も起こって欲しくないものだ。



パリ北駅まであと10分というぐらいだったか、現地の中学生っぽい女の子の三人連れが私の前に座った。ヘッドホンステレオを互いに聞き合いっこをしていて、ケラケラキャピキャピ若い子独特の箸がこけても笑うような話で盛り上がっていた。すると車両の雰囲気が一気に明るくなり、私の鬱屈した気持ちも一瞬にしてすっとんでいってしまった。結果的に哀愁や哀感が漂うような旅行になるかもしれないという予感めいたものはこの時点で全否定された(笑)。
フランス語に慣れ、フランスに住んでいる人からすれば、マナーがどうのこうのと思うのかもしれないし、日本でも同じようなことはときどき見かけることだから、さわがしいな躾がなっとらん、と思うようなことだ。しかし、この時の私にとってみれば、心を晴れやかにしてくれ、テンションを上げてくれた瞬間であった。

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前回はパサージュが建設された時代と性風俗について書いたが、パサージュの特色はもちろんそういったことのみならず、人々を惹きつけたブティックやレストラン、小物を売る店、ダンスホールや小劇場といった施設が入っていたことも大いなる呼び物の役割を果していた。


玩具と子ども服を扱う店パン・デピスの前の木馬









右の壁面にミュゼ・グレヴィンの入口をさす蝋の指が

カメラの具合で写りこそ暗めになっているが、12時ごろのパサージュ・ジュフロワはもっと明るい。



ところで、パサージュ・ジュフロワのジュフロワとは建築家の名前である。開発母体となった共同出資会社パサージュ・ジュフロワ社の一員である。この建築家の父親はジュフロワ・ダバンス侯爵で、蒸気船を発明していた。侯爵は同じ時期に蒸気船を発明していたフルトンという人物に特許競争で負けたという。


モンマルトル大通り側の入口

ここには19世紀始めまで5階建ての建物があり、トルコ大使館が入居していた。その建物はロシアの富豪の所有となり、1820年代にはオペラ座などグラン・ブールヴァールに面する劇場の俳優や歌手が多く住んだという。1836年にその建物は取り壊され、大きなホテルが建設された。パサージュ・ジュフロワはその大きなホテル(現在はホテル・ロンスレー)のファザードの真ん中を貫通するかたちで開通することとなった。
パサージュ・ジュフロワはグラン・ブールヴァールがヨーロッパ全体の「盛り場」として君臨していた第二帝政から第三共和政の前半にかけての時期、最も繁盛した。この写真の入口を描いた19世紀中ごろの風俗版画には、入口で渋滞している群集がしばしば描かれているという。
しかし、第一次大戦のせいでグラン・ブールヴァールが衰退すると、それと繁栄と軌を一にしていたパサージュ・ジュフロワも衰退の一途をたどった。建設資材の進化が進んだ中でつくられ多くの人を呼び込んだパサージュ・ジュフロワではあったが、人通りが少なくてもやっていける業種のテナントが入るようになる。しかし、パサージュ自体は取り壊しや後の時代の改修を経ることなく、当時のままの時代の繁栄に取り残された夢の痕跡を残すことになったという。
画像は単調なカメラワークをさらしているが、パサージュ・ジュフロワについてはたしかに古いSF映画を見るような感じで歩いたことを思い出す。パリの大改造がなされる前、デパートが出現する前に建てられた、誰もが気軽に通れ、それでいて目新しい建築で、今のような舗装などされていないパリの雨の日でも買い物を楽しむことができ、たいした目的がなくともぶらぶらでき、待ち合わせに利用でき、「出会い」を期待できる場として、当時は絶好の場所だったのだ。過去のパサージュの姿を記録した図版などが載っている解説書を見ながらではあったが、たしかに自分の足で歩いたなら19世紀の一端を感じとれそうな場所であった。

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オテル・ショパンのディスプレイ
(ショパンの胸像の上にジョルジュ・サンドの肖像が掲げてあるところがにくい(笑))


パリのパサージュを初めて歩いた私には分からないことだったが、パサージュ・ジュフロワは創業当時の華やかな雰囲気をそのまま残している数少ないパサージュとのことだ。(鹿島茂著『パリのパサージュ』(平凡社))。


 


 


 


 



パサージュ・ジュフロワが開通したのは1847年2月。建築資材の進化が進みガラス屋根を支える骨組みが鉄へと変わったことで魚の背中のような丸みを帯びた形をした屋根をもち光をふんだんにとりいれた、また道幅が広く取ってあるパサージュ・ジュフロワには人が押し寄せたという。その理由は魅力的なテナントや蝋人形館の施設などがあったこともそうなのだが、当時のパリの盛り場だったグラン・ブールヴァール(今では地下鉄の駅として名が残っている)への通り抜け道としてパサージュ・ジュフロワは機能していたことも挙げられる。

エドモン・テクシエは一八五二年、『タブロー・ド・パリ』でパレ=ロワイヤルの衰退と人気凋落を確認しつつ、こう書いている。「ブールヴァールはかくのごとき輝かしさと栄光とを受け継いだ。今度はブールヴァールが世界の待ち合わせ場所、あらゆる民族の集結点となった。あらゆる言語に開かれた国際色に富むフォーラム、世界の五大陸の道が行きつく途方もない中心なのだ。」
    アルフレッド・フィエロ『パリ歴史事典』(白水社)p657

盛り場というのは、いわばネオン街、流行品店である高級ブティックもあれば小物を売る店もあり、レストランもあるのだが、他にも「飲む・打つ・買う」場所を提供するいろいろな意味でさまざまな商売が営まれているところである。よって、盛り場というのは私娼たちが集まる場所でもあった。中世・近世においえては淫売宿で売(買)春は管理されていたが、18世紀末にパレ・ロワイヤルやグラン・ブールヴァール、パサージュなど群集が散策できる盛り場ができると、当局の規制にもかかわらず、娼婦は建物の外に出て盛り場で客を見つけるようになった。買春する男もどこに行けば娼婦と出会えるか知っているわけで、パサージュはそういった場所でもあったのである。

売春婦への愛は、商品への感情移入の神格化である。   [O11a,4]
  ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

売春は、大都市とともにはじめて、そのもっとも強力な魅力の一つをもつようになる。それは群衆(マッセ)の中で、群衆によって生まれる効果である。この群衆こそがはじめて都市の広い地域に売春が広がることを可能にする。それまで売春は建物の中にではないにしても、街路のうちに閉じ込められていた。性的対象自身が及ぼす無数の刺激効果の中に自らを同時に映しだすことを初めてできるようにしたのは、群集である。ついでに言えば、金で買えるということそのものが性的刺激になりうる。この刺激はまた、女性の品揃えの豊富さによって女たちの商品としての性格が強められるに応じて増大する。のちのレビューは、踊り子たち(ガールズ)にお揃いの衣装を着せて見せ物にすることで、大都市の住民の衝動生活に大量生産品をはっきりと導入したのである。    [J61a,1]

大都市で売春がとった形態のもとでは、女性はただ商品としてだけでなく、明確な意味で大量生産品として現われる。〔売春婦が〕化粧によって個人的表情を覆い隠して装うその職業的表情が化粧品の所産であるということからも、このことはうかがわれる。後に、お揃いの衣装を着たレビューの踊り子たち(ガールズ)がこうした事態をされに強調することになる。    [J66,8]

この盛り場での現象は、売春婦が大量生産品としての商品という性格を帯びるに至った。男たちは娼婦の肉体そのものよりも、街頭に現れる売春婦の媚態の方に魅力を感じるようになり、売春婦たちも娼婦らしさという職業的表情を化粧でつくりだすようになった。そこにはある種の均一性、同じタイプの化粧や服装が現れ、そういった紋切り型に見える中での差異でもって男の欲望を刺激した。パサージュは売春の世界の構造的変化、引いては「商品」としての売春婦やその売春婦が見につけるファッションの大量生産化をもたらした歴史も持っているのである。



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パサージュ・ジュフロワ入口

パサージュ・ヴェルドーからグランジュ=バトゥリエール通りに出るとパサージュ・ジェフロワの入口となる。(私はパサージュ・ヴェルドーからルーヴル宮へ南下し、だんだん町のにぎやかさが感じられていくルートをとった。)


こう見ると「通れそう」と思えるかも



おや?通気口が。

NHK BSの「世界ふれあい街歩き」でパサージュ・ジュフロワで営業しているオテル・ショパンの支配人がこの通気口について説明していた回を見たことがある。支配人曰く、パサージュ・ジュフロワはパリのパサージュの中で初めて暖房設備を整えたパサージュであったという。番組の映像ではオテル・ショパンの中から地下に降りれる階段があって、その地下に19世紀の暖房設備が映っていた。そこで暖められた空気をこの通気口からパサージュに送り込み、寒い冬でも人を呼び込める遊歩者にとって居心地のいいパサージュとなっていたそうである。



番組ではパサージュに入っているテナントは地下でつながっていて、ご近所づきあいしているほほえましい光景が映っていた。





建設年を示すプレートがある



グルニエ・ア・リーヴルのウィンドウ

パサージュでプルーストの肖像を見れるとは、うまくできすぎているように思った(笑)。



パサージュ・ジュフロワはクランク型の角と段差でもって、モンマルトル大通りとグランジェ=バトゥリエール通りとをつないでいる。これはパサージュの開発会社が所有していた土地が直線的でなかったことから、苦肉の策でこのような措置がとられた。しかしこの苦肉の策が、パサージュ・ジュフロワを単調さから救い、散策に適したパサージュにしたという。


ミュゼ・グレヴァンの出口




蠟人形館〔Panoptikum〕は総合芸術作品の一つの現象形態である。一九世紀の普遍主義の記念碑は蠟人形館である。すべて〔Pan〕を見る〔Optikum〕とは、ただすべてを見るだけでなく、すべてをあらゆる仕方で見ることでもある。     [Q2,8]

永遠化の方法のうちでも、蠟人形館がわれわれに残してくれているモードのさまざまな形態の永遠化、はかなく過ぎゆくものの永遠化ほど衝撃的なものはない。それを一度でも見学すれば、グレヴァン博物館のコーナーで靴下止めを直している女性の蠟人形の姿に、アンドレ・ブルトンのように心を奪われるにちがいない。(『ナジャ』<パリ、一九二八年>、一九九ページ)     [B3,4]

ガイドブックでは蝋人形館とも紹介されているミュゼ・グレヴァンはパサージュ・ジュフロワの呼び物となった。イラストレーターであったグレヴァンは「ゴロワ」紙で有名人のカリカチュアを発表し好評を博した。「ゴロワ紙」の経営者ガブリエル・トマが、彼にカリカチュアを蝋人形でつくって並べることと勧め、蝋人形館のアイディアは大成功を博した。またミュゼの中に小劇場を設け、リュミエール兄弟のシネマトグラフの先駆けとなるエミール・レイノー考案のアニメーション「光のパントマイム」を上演した。

つづく。

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パサージュ・ヴェルドー


パサージュは、典型的なパリの発明品である。普通、ガラス屋根に覆われ、歩行者専用で、両側にはブティックが並び、どちらかといえば狭い(四、五メートル)パサージュは、ある明確に限定された時代に生まれ、広がり、急速に衰えた。(…中略…)
 …パサージュがさかんに建設されたのは、一八二二年から一八四八年にかけての時代である。パサージュの五分の四はこの時代に作られた。
    アルフレッド・フィエロ『普及版 パリ歴史事典』(白水社)


パサージュの相貌は、ボードレールの「気前のよい賭博者」の冒頭の一文に現れている。「今まで何度となくこの豪華な巣窟のわきを通って来たのに、その入り口に気がつかなかったのは不思議に思われた。」<ボードレール『作品集』Y=G・ル・ダンテック校丁・注、パリ、一九三一年>、Ⅰ、四五六ページ [A12,4]
    ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

「パサージュは、ある明確に限定された時代に生まれ、広がり、急速に衰えた。」というこの記述が、現在に残るパサージュがかもし出す雰囲気をつくりだした簡潔にして的を射た説明としては秀逸だろう。その理由は追々書いていこうと思うが、とりあえずここでは19世紀前半のパリが、資本主義に駆られ、いかに人を呼び込むものをつくるかを考えに考え、これからのパリがどうなっていくのかという手探り状態のまま、ガラスや鉄骨といった当時の最新技術をどのように建築に生かせばよいか分からないまま、古代の神殿みたいなデザインを取り込む形でおっ建てたパサージュに人が集まり、大盛況になったものの、その後の都市再開発(大改造計画)や、デパートの登場、そして第一次世界大戦などのせいで、まさに急速に衰えたという、大まかな流れだけ書いておこう。


 



マンサード型のガラス屋根


最初に入ったパリのパサージュは、パサージュ・ヴェルドーだった。フォーブール・モンマルトル通りの入口から入ったのだが、その入口の印象は入口の前に車が止まっていたせいもあってか、気づかず通り過ぎてしまってもおかしくない、というものだった。外の明るさとの落差からか、ぶっちゃけ、一般の観光客は「こんな薄暗いところは近づき難い」と思ってしまうのではないだろうか。



古本屋もあった


パサージュ・ヴェルドーはパリのパサージュ建設繚乱期のなかでも後半、1846年に開通した。比較するための画像がないでご覧いただいている方々の感覚に訴えるしかないのだが、パサージュ建設繚乱期のなかでも後半につくられたゆえに鉄骨資材やガラスがしっかりしたものになっているのである。



パサージュ・ジュフロワが見える


パサージュ・ヴェルドーはこの後に紹介するパサージュ・ジュフロワとワン・セットでつくられたパサージュである。パサージュ・ヴェルドーのヴェルドーというのは、レストランやホテルにシーツやテーブル・クロスをレンタルするシステムを考案した人物だそうだ。



ガス燈は開通当初から設置されていたという


私が読んで行った解説書には落魄(らくはく)の味を最上とするパサージュ、パリの遊歩者のなかでも筋金入りのオタクが愛するパサージュとあって、その理由がワン・セットのもう一つのパサージュ、パサージュ・ジュフロワの集客力とは対照的に、パサージュ・ヴェルドーはいつも寂しい感じのするうらぶれた感に満ちているところがあるとしているのだが、パサージュに来るという念願がかなった私にとってはそんな情緒を感じている余裕はなかった。



私にとっての初のパリのパサージュ体験は時間にすればものの15分程度だったかもしれない。歩廊の幅のデータについては調べていったにもかかわらず、意外と狭いという感覚を得たり、パサージュの全長としては日本のアーケード式商店街のものと比べても非常に短く感じ、戸惑ったものだった。なぜゆえにパリにパサージュが必要だったのか、この時は実感としてわからなかった。



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フィリップ・ド・シャンパーニュ「リシュリュー枢機卿の肖像」(1639年頃)

パサージュのプロトタイプとなったパレ・ロワイヤルの元の持ち主であったリシュリュー枢機卿の肖像がルーヴル美術館にある。描いたのはフィリップ・ド・シャンパーニュで、同じ頃に活躍した画家にはニコラ・プッサンやクロード・ロランなどがいる。
リシュリュー枢機卿といえば私のなかでは「三銃士」ものを扱う映画でいつも悪役のイメージが強い。しかし今となれば、中央集権化と王権の強化に尽力した歴史に名を残す重要人物というのは記録も残っていることだし後の表現者からすれば描きやすいのかもしれないと思う。いつか詳しい伝記を読みたいものだ。


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地下鉄グラン・ブルヴァール駅の入口
(boulevardは一つの意味に「(並木のある)大通り」がある。bd.と略される)

集団の夢の家とは、パサージュ、冬用温室庭園(ジャルダン・ディヴェール)、パノラマ、工場、蠟人形館、カジノ、駅などのことである。     [L1,3]
  ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

ヴィルメサンの有名な原則。「何の変哲もない出来事でも、目抜き通り(ブールヴァール)やその近辺で起これば、ジャーナリズムにとってはアメリカやアジアの大事件よりも重要である。」ジャン・モリアンヴァル『フランスにおける大新聞の創始者たち』パリ、<一九三四年>、一三二ページ     [U2a,2]

サン=シモン主義の理論家たちの間では、産業資本と金融資本との区別があまり行われていないのは特徴的なことだ。すべての社会的矛盾は、近い将来に進歩が与えてくれるという妖精の国のなかで解消してしまうというわけである。     [U4a,1]

このあたりでなぜパリに行きたくなったのか、いくつかの大きな動機のうち二つを書いておこう。
一つは、ドストエフスキーが生れたのが1821年でこの時期がパリのパサージュ建築の繚乱期であったこと、のちにドストエフスキーが41歳の頃に初めての外国旅行を西欧で行なうのだが、パリやロンドン、スイス、イタリアを巡った結果、ヨーロッパの物質文明に幻滅を覚えたことと、今のパリに残るパサージュと関連性を見出せるかもしれないというもの。
もう一つは、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』がパリのパサージュをテーマにしていて、実際のパサージュがどんなものかぜひ見たくなったというもの。


フォーブール・モンマルトル通り

一つ目の時点で、自分のあらゆる思考能力をフル動因したところで手に負えないものであることは、今となっては白日の下にさらされている(笑)。情けないことだが、ドストエフスキーが逮捕される前に彼が傾倒していたシャルル・フーリエの「空想的社会主義」と19世紀のパリで見られた資本主義から生れたパサージュの関係となると、それこそベンヤミンの『パサージュ論』を何度も読み返し断片を検討し熟考せねばならないのに、再読はおろか初読のときの印象さえおぼろげになっていた。
二つ目となるともっと悲惨である。表現が過ぎるようだが、パリに出かける少し前になって『パサージュ論』は私にとっては怪物で手に負えないどころか、本に押しつぶされるのが関の山であることをようやく自覚するにいたったのだ。初読のときは単に文字だけを追って、自分の好きな断片の表現やアフォリズムを発見してよろこんでいる程度で、ベンヤミンが『パサージュ論』で何を描こうとしたのが、何を提示しようとしたのか、全く考えようとしなかった。


パサージュ・ヴェルドーの入口

そのような者が現地のパサージュを見て、「ドストエフスキーは「二二が四は死のはじまり」と言ってフーリエを否定するに至った、ではフーリエのことをベンヤミンはどう書いていたっけ?」などと、にわかに考え出したような課題で頭をひねりつつ、ベンヤミンの詩的センスをいまいちぼんやりとも捉えられないまま、何を感じとれというのか(笑)。
それでも、既にパレ・ロワイヤルを紹介した記事でパリのパサージュの黎明について少しだけ書いてしまった。いくら自虐的なことを書いても、せめて少しでも気の利いたことを書きたい私としては、結局は歩いてみて感じたことの本音をわずかに盛り込んだ恣意的なパサージュ紹介文しか書けないだろうが、ぼちぼち書いていきたいと思う。

  ***

以後、パリのパサージュやベンヤミンの『パサージュ論』に関する記事で、『パサージュ論』(岩波現代文庫)から引用させていただく際、他の著書との区別を考慮する場合を除いて著者名と書名は略させていただきます。

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本殿をもう一度撮ろうと再度三光門(さんこうもん)をくぐった。すると上の解説板が目に留まった。


渡邊綱(わたなべのつな)の燈籠

あぁ、そういえばそういった昔話、伝説を聞いたことがあるなぁと思った。京都市の堀川通りにある一条戻橋(いちじょうもどりばし)で深夜に若い女が暗いので渡邊綱に家まで送ってほしいと頼むが、女は変身した鬼であった。鬼は渡邊綱をつかまえて空に飛びさらおうとしたが、上空で渡邊綱は太刀を一閃、鬼の片腕を切り落としたという伝説。
聞いた頃は小さかったので、伝説の時代が平安中期であること、渡邊綱が源頼光の四天王の一人であること、鬼に太刀を食らわせたのが今の北野天満宮の上空であったことなどは知らなかった。



ただ、私の記憶ではこの話しには続きがあったように思う。鬼の片腕はしかるべき所に管理されて渡邊綱もしくは警吏が見張っていたが、そこに訪ねてきた老婆が敵の腕をどうしても一見したいなどと懇願したので、仕方無しに片腕を安置する場所に案内した。しかし、老婆の正体は腕を切られた鬼で片腕を取り返し、飛んで逃げ去っていく、という結末だったように思う。

ところで、この伝説の舞台となっている一条戻橋だが、現在はこのような感じである。















一条の条は「條」と書いてもよいようである。渡邊綱にしろ陰陽師にしろ、この場所は平安時代のいろいろな伝説に彩られているのだ。

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