山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

家賃滞納者VSホームレス

2007-04-01 10:48:18 | 未分類過去
ホームレスのことがテレビで取り上げられることも多いが、家賃滞納者から家賃を督促する様子を編集した番組というのも多く見かける。
家賃を滞納している人の家を一軒一軒訪問して支払いをさせる職業というのがあって、その仕事ぶりを取材しているのである。

その人が訪問していくと、住人が出てきて、「給料が減ってしまったから」「入院していて仕事ができなかったから」「今半分は払えるが残りは無理」「1ヶ月分遅れてしまっているが、なるべく追いつくように頑張るから、もう少し待って」「1ヶ月後に就学援助のお金が入るからそれまで待って」「明日なんとかして払い込む」などと様々な応答がある。

それを見ると、家賃を払わないでおいてずいぶんと横柄な態度のものもいるし、開き直るしかない人、明日にもサラ金でお金を借りて返そうと考えていそうな人などいろいろだ。
就学援助が一気に滞納家賃に消えるというのもショックだった。
たまに札束を持っていてその場で数ヶ月分の滞納金を平気で払うようなめずらしい人もいるのだが、大部分はやはり所持金が家賃までまわらないという人たちだ。

明日給料が入ると言っても、それで滞納した家賃を払ってしまったら、食べるものも食べられなくなってしまうだろうから、食費や光熱費分くらいは残そうと思うと、どうしても家賃に回すことができないのだろう。家賃を払えないと言いながら普通に暮らしているじゃないか、全くお金がないわけじゃないだろう、と督促するほうとしては納得できないが、ありったけの家財道具や金目のものを売り払って家賃に当てる人は少なく、家賃を払えないから部屋を明け渡す手続きをするなどという人はほとんどいない。家賃も払えないのに引越し費用などがあるはずもないし、滞納分を清算することもできないだろう。

ある番組の中で、とある1軒は家賃を滞納したままもぬけの殻になっていた。つまり逃げられた。家の中には薬の袋や生活保護の用紙などが置いてあり、住人は決して健康ではなく自分で収入を得ていないこともわかるが、もはや生活保護も受け取っていない様子で、病院にも通っていない様子だった。

住み続けながら滞納する人は逃げてはいないのだから、いつかは払うという気があるのだろう。なんとか生活を立て直し軌道にのせることをまだあきらめてはおらず、奮闘する元気はあるといえる。しかし、それがうまく行くとは限らず、滞納金は今後もどんどん増えていく可能性が高い。
早々と逃げた場合は、回収の見込みはなくなるが、これ以上滞納金が増えることはないと言える。住人がいなくなったままの部屋を整理するのはまたいろいろと面倒ではある。

出て行った人の身になると、優しい親戚か知人の家にでも身を寄せていればいいが、ホームレスになってしまったかもしれないし、最悪の場合富士山の樹海に向ったかもしれないなどと考えると恐ろしくなる。
家賃を滞納しながらふてぶてしく居座る人間は、相当迷惑な存在であるが、ある意味表向きは、ちゃんと生活している人というふうに見えるだろう。

家賃滞納者とホームレスとどっちがまともなんだか、これも私にはわからなくなってくる。(元家賃滞納者=ホームレスという場合も少なくはないだろうが・・・。)
公営住宅にも、何年間も家賃を滞納している人がたくさんいるらしい。もともと貧乏人が住むという状況だからか、民間のアパートよりも督促の仕方が甘いのかもしれない。
また、払わないからと言って、民間の賃貸住宅のようにオーナーの収入や生活に関わるというような直接の迷惑がないのも、住人がルーズになる所以だ。
毎年の収入申告など恐ろしく厳密で厳しいのに、そんな中でも平気でそれを無視して滞納する人も多いのは驚きだ。
そんなことも世間で評判になっているので、公営住宅に住む人間はろくなものがいないというふうに思うひとも多い。

社会的に見て、家賃を滞納しふてぶてしく居座るものが、ホームレスより有利であることは言うまでも無いが、
いつ家賃滞納になるか、督促されるか、追い出されるか、その気が気でない状況から解放された者、楽な道を歩んだものがホームレスなのか。
そのどちらもが、社会の中では「いなくなってもらいたいもの」と思われている点で違いはない。
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ホームレス

2007-04-01 03:42:10 | 未分類過去
夜、テレビのチャンネルを回していたら、たまたまホームレスのことをやっていた。
ある30代のホームレスの人は、公園のようなところに青いテントを張って、そこで暮らしているのだが、毎日日雇いの仕事をしていて、月に30万くらいの収入があるそうだ。
その人は、毎日ちゃんと働き、それからひとりでカラオケに行ってビールを飲みながら食事をし、歌を歌ってからねぐらのテントに帰宅する。その帰り道にコンビニでお弁当などをたくさん買い込む。そのお弁当は近くに同じくテントを張って野宿している60代くらいの年老いた2人のホームレスの人たちに上げるのだそうだ。
実質、この人が他のホームレスを養っているような状況であり、この人はそのことで、自分の存在価値を感じ満足しているようだった。
私はそういう生き方は自由だし、それで自分に自信がもてるのならそれでいいのではないかと思った。仕事をしているということは社会の役にもたっているのだし、他の人を養っているというのも良いことではないか。
しかし、その人の生活ぶりを取材していたジャーナリストは、それは「お山の大将」というものだと言って、小さな世界でひとりよがりに満足していることには意味がないというような、ちょっと否定的な発言をしていた。
人間はちゃんとした家に住むべきものということだろう。

このジャーナリストは、おそらく私に対してはこのような否定的なことは言わないだろう。しかし、私はこのホームレスの人と自分の違いが全くわからない。むしろそんなに収入があって人まで養っているのだから私よりずっと偉いだろう。私が批判されずこの人が批判される違いはただひとつ、この人が家賃を払って家を借りて住んでいないということだけだ。

以前、池袋で夫婦者のホームレスを見たことがある。
それをみて、ちょっとでも手をぬいたらわたしもどんどんそういう方向に進んでいきそうな変な気もちがした。今は、公営住宅に住んでいるし、夫も失業していないからいいものの、民間の高いアパートに住んでいて、失業したりして家賃が払えなくなったとしたら、そういうことは、非現実的なことではないのだ。
体が丈夫だからいい。もし体が丈夫でなく、入院などでお金を使い果たしたとしたら、家賃を払っていけなくなるだろう。そうしたらどうなるかわからない。

昔子供のころ、茂みの中や水の流れていない溝の中で、上にダンボールの屋根を渡して家を作り、その中で遊んだことがある。その家はなかなか居心地がよいもので、そこに横になって寝てみたりもしたものだった。学校が終わると友達と毎日のようにその「家」に行って時を過ごし、わざわざそこでおやつを食べたりしていたものだ。しかし、ある日行って見ると、突然何者かによって壊されたりしていて、野の花を飾った牛乳瓶なんかもめちゃくちゃになっていたりすると、とても悲しかった。

ホームレスの人たちの家は、私が子どもの頃作った「すみか」と共通するものがあるような気がする。親の監視もなく、雨露を防げる薄暗い空間がなんとも居心地がよかったのだ。親に叱られた時など、しばらくそこで暮らすことも可能だと思えたこともあった。だから、そういう方向に流れていく素質がありそうな自分が怖いわけでもある。家を失うような状況にはなりたくないが、もしなったらなったでそれなりに受け入れてしまいそうな自分が恐ろしい。

私には自分の家がない。
家賃を払って部屋を借り、そこに寝泊りしていれば人間として合格、部屋を借りずテントで暮らしていれば不合格って、そんなことあるだろうか?
「家がなければダメ」という考えは一種の偏見ではないだろうか?

また昔の話だが、実家の近所にテントで暮らしていた夫婦がいた。その夫婦は、土地だけは買ったものの家までは建てるお金がなかったらしく、引越してくるとテントを張って暮らしたのだ。何年もそうしていたから、ちょっと奇異な目で見られていたことは確かだが、自分の土地であったので、誰も出て行けとは言わなかった。
また、地震の被災地なんかだったら、車の中で暮らしてもテントで暮らしても、それは望ましいものではないものの、そういう生活をしている人を批判したり文句を言ったりするジャーナリストはいないだろう。

このような、段階をおっていくと、どこからどこまでが、人間としてあるべき状況でないと言えるのかわからなくなってくる。災害などではなく個人的な事情でテント暮らしになって、公共の土地で生活していたりすると、人並みの生活をするように努力しろと批判される。

ちゃんと働いて月30万の収入があったからと言って、アパートを借りるのは大変である。敷金や礼金がかかるし、更新料もかかる。保証人だって要る。公共料金などもかかる。

こうやって、狭い公営住宅でひび割れた天井を見ながら暮らしていると、かろうじて世間で正常な範囲内と言われる状況に、なんとか納まっているような気がする。
私には、正常と狂気の境がわからないように、ホームレスでないものとホームレスとの境もよくわからない。

人によっては、持ち家でなければ人間ではないかのようなことを露骨に表す人がいる。
ある人は私に向って別の人について「あんな公営住宅に住んでいる人だから、どうせろくな人じゃないのよ」などと言うことがある。その人は、私も同じような古くて狭い公営住宅に住んでいるのを知らないのだ。
庭の草とりが大変だとか、庭に行っていたので電話に出られなかったなどというと、広い庭のあるよほど大きな家に住んでいると勝手に思いこんでいるようだ。

住宅状況も学歴も、ピンからキリまである。
どこからどこまでが「まとも」というのか?
ある部類の人間は、持ち家で子供の個室があるのがあたりまえ、学歴は大卒じゃなきゃ人間じゃないかのようなかんがえをする人がいる。
今時、水道水を飲む人間なんかいないでしょうというような部類だ。
基準を下げて、最低限、義務教育を受けていればよく、最低限、おんぼろアパートでも家賃を払って住んでいればいいのか?
それ以下ではだめなのか?

テレビのジャーナリストは自己満足はいけないというようなことを言っていた。挑戦することがないのを批判していた。
しかし、戦うことに疲れているひともいる。企業の中で優秀な人たちと戦い続け、毎日劣等感にさいなまれたら、生きる意欲さえなくなってしまいそうだ。
自分が自分だけでやっとアパートを借りて、何とか人並みになって、しかし、破綻しそうなぎりぎりの生活をしていくよりも、他のホームレスの人たちを助けながら、仲良く気楽に生きていきたい、感謝されることがうれしい。
その人がそういう生き方を選ぶことが、私にはどうしても悪いことだとは思えないのだった。

誰だって人並みにはなりたい。でも、それが現実にできない場合は、別の生きがいや意義を見つけていきていく自由があるはずだ。
ある基準に当てはめればそれは望ましくないものである。しかし、望ましくないものに満足して楽しく暮らすこともひとつの生きる道であることを認めてほしい。
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