山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

代々木公園にて

2007-04-03 23:04:28 | 未分類過去
10日くらい前の話になるのですが、放送大学の卒業式の帰りに、代々木公園の脇の歩道を通って原宿駅に向かう途中、ピアノの弾き語りの声が聴こえてきました。
その歌声が、なんかすごくいい感じでした。歌っている近くまで歩いていくと、若い女性が電子ピアノを弾きながら、自分の作った歌を歌っていて、歩道をはさんで数人の人がなんとなくベンチに座ったりしてその歌を聴いていました。
道行く人は、振り返って見ながらも、足を止めるまでする人はほとんどなく、聴くためにあえてそこにいるという感じの人は3~4人くらいだったでしょうか。
私は帰りを急ぐ必要もなく、ちょうど暇だったので、近くのベンチに座って、その歌をしばらく聴かせてもらいました。
普段プロの歌を聴く趣味もなく、ピアノの弾き語りなんか久しぶりだったので、なんかいいなあと思いました。
その人の声はとてもきれいで、曲もいい感じだと思いました。
きっと、道行く人も、悪くない雰囲気だとは思いながらも、どこかに行く目的の途中なので、足まで止めることは無かったのでしょう。
ちょっと興味を持ったので、いつかまたどこかで聴くことができるかと当人に聞いてみたら、ライブの日程を書いた1枚のチラシをくれました。
その人の名前は「りょう」と言う人です。
チラシにあったHPを開き、その人の作詞作曲のオリジナル曲を視聴してみたりしました。
録音されているのはプロではないので、声がゆれたりし、完璧に仕上がっているわけではなく、路上で聴くよりもアラがめだつかなとは感じましたが、自分で歌が作れて演奏し、歌えるってすばらしいなあと思いました。
また、代々木公園で始めて聴いたとき、多くの人間が足を止めて集って聴くほどではなかったのに、なんで私ばかりがそんなに気に入ったのか、自分でも不思議なのですが、HPでそれらの歌を確認して気がついたのです。
なんだか、自分の道を進もうと思っている人が元気付けられるような詩が多いのです。
特に、歌詞は意識していなかったのですが、そういう部分が心に響いたのかもしれません。
なんとなく、波長の合ってしまうことがあるのですね。
りょうさんという方にはこれからも頑張ってもらいたいと思います。
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廃墟の聖母(井上淳)

2007-04-03 01:46:11 | 読書
図書館の返却期限を一週間過ぎて、5冊借りているうちの1冊をやっと読み終えた。
その本が「廃墟の聖母」(井上淳)である。
読後感は複雑だ。実は筋もちゃんと整理できているとは言えない状況なのだが・・・。
一口に言えば、愛のある人間で織り成されているはずの社会の中に、愛のない人間(あるいは狂った愛)の人間が存在し、その人間が非道な犯罪を起こしてしまうということか。
刑事佐伯には愛するバイオリンニストの妻があり、嵯峨には病気でかろうじて命をつないでいるような入院中の妻がいる。佐伯は、最愛の妻が爆弾事件に巻き込まれて危険にさらされたということでも、犯人探しに躍起になっている。嵯峨は入院中の妻を何としても救おうとあきらめないような人間だ。そして、この2人は友情に結ばれている。
一方、犯人のほうの家庭は・・・。
推理小説というのは、これから読む人の楽しみを奪わないためにも、筋書きを書くべきではないのかもしれないので、この辺にしておこう。
あんまり、後味がいい作品とは言えないが、それなりに読み応えはあったと言えよう。

ところで、なんで私がこの本を選んだのかと言えば、
昔、伊藤整の小説が好きだった。高校生のころ「若い詩人の肖像」ではまってしまったわけだが、その後晩年の作品になるに従ってついていけなくなっていき、そのまま読んでいない。当時ついていけなかったのは、きっと私が若かったからだろうと最近思った。伊藤整の作品の中に小林多喜二が出てきたので、小林多喜二の「蟹工船」なども読んだものだが、最近伊藤整についてネットの中のものを読んでいると、この小樽で生まれた作家2人を対照的であると書いているものがあり、小林多喜二は短い生涯を終えてしまったが、伊藤整は長く生き、その一生を通して勢力的に文学に取り組んだとあった。伊藤整は自らの作品のみならず、翻訳もし、文学論なども書いている。それだけたくさんの文学を読み、研究した人で、その量とそれにかけたエネルギーたるはすごいものであるとのことだ。それを読んで、伊藤整を思い出し、伊藤整をかつて尊敬していた自分を思い出したのだ。

話はそれてしまったが、そういうわけで、図書館に行き、伊藤整の本を探すべく、「い」から始まる現代作家の棚に進んで行った。ところがそこで伊藤整の小説を見つけることはできなかった。そんなに古い作家だとは思えないのだが、すでにずっと以前に亡くなっているし、もはや現代作家ではないのかと思った。それで、そのあたりを見ているいうちに、この「井上淳」という作家の本に行き当たった。井上と来れば有名なのは「井上靖」だが、「井上淳」という名前もなんとなく記憶にはある。しかし作品はまったく知らない。この名前は俳優の「井上順」に似ていると思ったが、今になってわかったのが、淳は「じゅん」ではなく「きよし」と読むというわけだった。

私が目にとめたのは「廃墟」という言葉だ。なぜか数年前から「廃墟」という言葉に反応するのだ。それは、自分自身が夢を失った使いものならない人間の「廃墟」であるかのように感じたこともあったし、今住んでいる家も建て替えを控え住人が少なくなる状況で、「廃墟」への道を進んでいる。「廃墟」という、かつては生きていたが今は空洞となったもの、そういうなんともいえない感覚に自分が引き寄せられてしまうのだ。

伊藤整をもとに、この棚の前に引き寄せられ、たまたまそこにあった「廃墟の聖母」という不思議な名前のこの作品を読んでみようと思った。それが、単に私個人のインスピレーションだけで選択した作品なのだ。

流行を追うこと、江國香織や東野圭吾、テレビドラマや映画の原作、そういうものを次々に追いかけていかなければならないこと。人の話題についていくために、恥ずかしい思いをしないために、・・・。それが、私には辛い。疲れてしまう。
普通の人には、それが楽しみであるのかもしれないが、私にとっては楽しめない。
「井上淳」なんて、それはもうずっと何年も前に話題になったかどうかも知らないが、少なくともこの作品がいま話題になっているわけではない。
しかし、ただ、単に自分の精神がその題名にひきつけられたというだけで、その本を選ぶ。
そういう運命に自分をゆだねてみるのが面白そうな気がしたのだ。

この本は、運命の出会いとはいえない。読んでみて内容が気に入ったわけでもなかった。読む前は、事件を追う推理小説だということも知らなかった。
しかし、自分として面白かったのは、作品の中に出てくる「ヌクロクシド」という物質についてだ。「ロクディオシン」という自然界にある殺虫効果のある物質を人工的に作ったものであるとなっている。
小説の中に出てくるこのようなものは、現実のものなのか架空のものなのかよくわからない。現実のものを使うのでも、架空のものを造るのでも、それは作者の自由である。しかし、現実のものを登場させた場合は、うそは書けないから、かなりの知識が必要となるし、そのために調べる必要も出てくるから書くほうも大変なことになる場合があるだろう。
これはいったいどっちなのか、この作者は化学に詳しいのか?などと思った。登場人物が発明したという「ヌクロクシド」は無いとしても、南米のユリ科の植物の根に含まれる「ロクディオシン」というのは実際にあるのかもなどと思い検索してみたら、どちらも無かった。ネット検索で出てこないということは、実際には存在しないものであると見ていいだろう。なるほど、小説とは、けっこう嘘八百でいいもんなんだなと思った。

そんなわけで、今後も世の中の流れを無視して、そんな方法で本を選び、のんきに読んでいくのもいいかな~と思った。


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