放送大学の3年に編入してから6年間。タイムリミットになりつつ、ようやく卒業証書を手にしたわけですが、念願の4年制大学の学歴を得たものの、なんだかぴんと来ない気分です。もし、何かのアンケートなどで、学歴に丸をつける欄でもあれば、今まで短大卒のところにつけていたのが、今後は大卒というところに丸をつけるようになるだろうとは思います。
放送大学を卒業したことは、家族だけしか知らない状況です。他の人に言う必要も理由もなにもありません。
家族は、実家の母などは「放送大学ってのは何だね?」くらいの感覚です。姉にも一応伝えておこうと電話で「放送大学を卒業したので、一応大卒の学歴になったぞ」と知らせました。すると、大卒なんかこの年になったらまったく関係ないなどとぬかしていました。
姉は音楽活動をしていますが、ピアノやヴァイオリンの腕というのは出身校とはなんら関係がなく、○○音大を出ているなどと公言する人に限って下手なのだそうです。
確かにたった4年間の大学生活と、卒業後の30年間もの歩みを考えれば、大学で何をしたかなどは関係ないといえば関係なく、その後の数十年の生き方が重要となることはわかります。
しかし、だから私が学歴を得るためにいまさら放送大学を卒業したことはまるで無意味なことだと言うような応答には少々むかつきました。かぞくならば少しは褒めてくれてもいいんじゃないでしょうか?
「学歴は関係ない」
この歳になると、そういう人が圧倒的多数です。
でも、私には学歴が非常に関係があった。
というのは、日本語学校の採用条件として「大卒」としているところが大部分だったからです。こういう環境に置かれている人は少ないので、なかなか理解してもらえず、単に学歴に固執する変な人間のように思われがちです。しかし、私としては日本語学校に就職・転職する場合、必要不可欠な資格だったのでした。高卒で日本語教師になりたいと言う人もいるのですが、まともな日本語学校に採用されるのはなかなか難しいと言えるでしょう。
日本語教師が日本語学校の学生より学歴が低いなどというのはやはり望ましい状況ではありません。
4年制大学の学歴を得たのは、すでに日本語学校とは関わりがなくなって2年も経ってからで、遅きに失したわけです。
それでも、実際には卒業式は感慨無量でした。しかし、私の場合は、他の人が家族で浮かれて喜んでいるようなめでたい嬉しさとはかけ離れたものでした。
山に登りたかった友人の遺影を持って、代わりに登頂する親友のような気持ちとでも言うのでしょうか。
遺骨とともに、その人が生前行きたかったエアーズロックに行って、そこで遺骨のビンをあけ、ここがあなたの来たかったところですと骨に向って語りかけるような気持ちなのです。
そして、遅かったけど勤めは果たしたという満足感でした。
学歴を示す卒業証書を得るためだけに勉強したのではなく、勉強自体をしたかったからするのがあるべき姿でしょう。確かに、勉強の内容自体に目的も価値もあるのであって、学歴を得るためなどという便宜的な動機は望ましいものではないかもしれない。
でも、それならば、みんな勝手に放送大学の放送を聞いて勉強すればいいことで、学費を払う必要も単位を取る必要もありません。そういう人も実際にはたくさんいるのです。しかし、やはり学位を取りたいということで、放送大学生になる人は多いです。どうせ勉強するなら、それを卒業という形としても表わしたいと思うからでしょう。必要に迫られているのではなく、一種の趣味のような人も多いです。
でも、卒業を目指す人の中には少なからず、大卒の学歴がどうしても必要な人がいるわけで、それはたくさんの世の中の一般の人々からみると、かなり少数派にはなると思います。
私の場合、すでに存在しない日本語教師のために取った学歴ですから、その勤めを果たした後は無意味なものになるのはあたりまえで、現在の私にとってはアンケート用紙の丸付け位置が変わったという程度の変化をもたらしたというだけのことでしょう。
私の中の日本語教師はこれで成仏しました。
放送大学を卒業したことは、家族だけしか知らない状況です。他の人に言う必要も理由もなにもありません。
家族は、実家の母などは「放送大学ってのは何だね?」くらいの感覚です。姉にも一応伝えておこうと電話で「放送大学を卒業したので、一応大卒の学歴になったぞ」と知らせました。すると、大卒なんかこの年になったらまったく関係ないなどとぬかしていました。
姉は音楽活動をしていますが、ピアノやヴァイオリンの腕というのは出身校とはなんら関係がなく、○○音大を出ているなどと公言する人に限って下手なのだそうです。
確かにたった4年間の大学生活と、卒業後の30年間もの歩みを考えれば、大学で何をしたかなどは関係ないといえば関係なく、その後の数十年の生き方が重要となることはわかります。
しかし、だから私が学歴を得るためにいまさら放送大学を卒業したことはまるで無意味なことだと言うような応答には少々むかつきました。かぞくならば少しは褒めてくれてもいいんじゃないでしょうか?
「学歴は関係ない」
この歳になると、そういう人が圧倒的多数です。
でも、私には学歴が非常に関係があった。
というのは、日本語学校の採用条件として「大卒」としているところが大部分だったからです。こういう環境に置かれている人は少ないので、なかなか理解してもらえず、単に学歴に固執する変な人間のように思われがちです。しかし、私としては日本語学校に就職・転職する場合、必要不可欠な資格だったのでした。高卒で日本語教師になりたいと言う人もいるのですが、まともな日本語学校に採用されるのはなかなか難しいと言えるでしょう。
日本語教師が日本語学校の学生より学歴が低いなどというのはやはり望ましい状況ではありません。
4年制大学の学歴を得たのは、すでに日本語学校とは関わりがなくなって2年も経ってからで、遅きに失したわけです。
それでも、実際には卒業式は感慨無量でした。しかし、私の場合は、他の人が家族で浮かれて喜んでいるようなめでたい嬉しさとはかけ離れたものでした。
山に登りたかった友人の遺影を持って、代わりに登頂する親友のような気持ちとでも言うのでしょうか。
遺骨とともに、その人が生前行きたかったエアーズロックに行って、そこで遺骨のビンをあけ、ここがあなたの来たかったところですと骨に向って語りかけるような気持ちなのです。
そして、遅かったけど勤めは果たしたという満足感でした。
学歴を示す卒業証書を得るためだけに勉強したのではなく、勉強自体をしたかったからするのがあるべき姿でしょう。確かに、勉強の内容自体に目的も価値もあるのであって、学歴を得るためなどという便宜的な動機は望ましいものではないかもしれない。
でも、それならば、みんな勝手に放送大学の放送を聞いて勉強すればいいことで、学費を払う必要も単位を取る必要もありません。そういう人も実際にはたくさんいるのです。しかし、やはり学位を取りたいということで、放送大学生になる人は多いです。どうせ勉強するなら、それを卒業という形としても表わしたいと思うからでしょう。必要に迫られているのではなく、一種の趣味のような人も多いです。
でも、卒業を目指す人の中には少なからず、大卒の学歴がどうしても必要な人がいるわけで、それはたくさんの世の中の一般の人々からみると、かなり少数派にはなると思います。
私の場合、すでに存在しない日本語教師のために取った学歴ですから、その勤めを果たした後は無意味なものになるのはあたりまえで、現在の私にとってはアンケート用紙の丸付け位置が変わったという程度の変化をもたらしたというだけのことでしょう。
私の中の日本語教師はこれで成仏しました。