山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

6.脱力感のあと

2007-04-12 23:54:44 | 未分類過去
今回、文を書いたら、すごい脱力感に襲われた。
何でだろうかと不思議に思った。
おそらく、学生の立場にも教授の立場にも成りうる自分が、今回の事件に反応してしまったからだろう。
本当に疲れた。

私はある程度鈍感である。だからこれまでしゃあしゃあと生きてきた。

夕方は、気持ちを切り替えて買物に出た。
米・コーンフレーク・牛乳、サラダの材料、お弁当の材料、夕飯の材料などいろいろと5000円以上も買って、重い荷物をぶら下げて帰ってきた。
夕飯は次女と2人だ。サラダとアナゴちらしにした。

夜は、ホテルビーナスのDVDを見た。
数日前に1度見ようとしたのだが、例によって家族の会話や家事で席を立ったりして集中力が中断し、意味不明になっていた。家族もおもしろくないなどと言って中断していた。
7泊8日で土曜日に返すので、今日もう一度見始めた。また、途中でお風呂の準備などで席を立ったりしたので、ちょっとわけがわからなくなりかけたが、なんとかおしまいまで見た。
なかなかいい映画だった。
不思議な雰囲気である。日本の役者がみんな韓国語を使っているところも不思議でおもしろかった。何気ない日常の動きや物品などが不思議に新鮮だった。
心に傷を持った人が集っているホテルビーナスだが、その人間模様と、最後に心が一致しているところが素晴らしかった。
市村正親さんもすごい。
人は自分の心の傷には敏感だが、他人の心の傷には鈍感なものだとかいうせりふがあった。確かにそうだ。
そして、クズなんていないんだ。
もう1回見てから返そう。

人はみんな弱いのかもしれないが、生きることが大切だ。
コメント

5.パワーハラスメント

2007-04-12 16:45:55 | 未分類過去
今日書いてきた4個の文は、すべて女子大生自殺の事件に関連して自分の頭に浮かんできたことだった。朝からそんなことばかりを書いていたら、とたんに何かをする気がなくなり、午後には寝込んでしまった。そこまでアタマがおかしいようだ。
いろいろと関連記事を探しているうちに、2チャンネルというのか?そんなような掲示板がでてきた。ものすごいたくさんのスレッドの数で、とうてい一気に最後まで読むことはできなかった。まあ、ある程度行くと、同じようなことの堂々巡りでもあった。

そこで、わかったことには、例の准教授はやはり人間的にかなり問題のある人で、以前に勤めていた大学でも問題を起こして辞めているという事実があった。
どうも、学生が苦しむのを好んでいるようなふしもある。だからといって、ほんとうに学生をつぶしてしまおうと意図しているわけではないだろうが、そのやりとりにうまく行かなくなった学生が犠牲者になる。以前の大学でもこの先生との問題で、学生が退学したりしたことがあったようだ。

今回の不幸な結果についても、亡くなった学生に対して心を痛めているような言葉はなく、自己弁護や、家族に対して「訴えてもかまわない」などと開き直ったことを言っているようである。テレビに出演してコメントもしていたらしいが、その様子からも話し方が普通の感じではなく、人間味のある人とは感じられなかったと書いている人がいた。

この准教授のみならず、大学自体もちょっとおかしいようである。自殺者がたくさんでているところからも、単位に関して厳しすぎるのかもしれない。学生の程度を上げるために、難しいものを要求しすぎているのかもしれない。

自殺してしまった女子大生はやはり何ヶ月かの期間のうちに、自分に自信をなくし、うつ病のようになってしまったのであろう。

全てを提出していないわけではないのだそうだ。そして、提出してもだめだとつき返されたり、新たにもっと大変な課題を追加されたりすることもあったようだ。
そのようなことが繰り返されていたら、最後の締め切りに提出するものも、完璧なものではないとダメだと思ってしまうだろう。
たとえ最後はそこまで厳しくしようとは思っていなかったとしても、そんなことは学生にはわからない。

モラハラとかパワハラとか、結局そういうもので、女子学生はその対象となってしまったんだと思う。ぶつけられやすい人って確かにいる。本当に気の毒だ。


以前、私は日本語ボランティアの教室で教えていて、宿題をだしたことがある。自分の国の有名なものや、有名でなくても故郷の物等をグループの人に紹介してくださいというものだった。写真などを見せて話してもいいですと言った。それで、絵や写真を用意できない人もいるようなので、こっちでパソコンで学習者の国の有名な建物や文化遺産をみつけいくつかの画像を探し、それをプリントしたのも用意していた。それを使ってもいいし、自分で用意してきても良いと言っておいた。
たとえば、日本人だったら法隆寺の写真を見せて、「これは木で作られた一番古いお寺です」などというものだ。「これは何年に建てられました」など、無生物の主語と受動態を使うというのが文法の目的であり、同時に自分の国のことを教えあうという文化交流の一石二鳥の効果を狙ったものだった。
その次の週になったら、ハンガリーの人はすごい気合を入れて準備してきた。写真や地図を見せながらハンガリーにはドナウ川が流れているとか、たくさんの国に囲まれているとか、温泉があるなど教えてくれて、こっちもとても勉強になった。そのほかの人は準備してきた人もしてこなかった人もいた。即興で適当にこなす人や、できないと言ってパスする人もいた。しかし、イギリス人の英語の先生はその日休んでいた。体調が悪いということだった。

ところで、次の週もイギリスの人は体調が悪いと言って休んだ。ちゃんと連絡してくるなんてすごく几帳面な人だった。
しかし、ほどなく意外なことが判明した。日本人の奥さんから教室責任者に電話があり、私の出した宿題があまりにも負担の大きいもので気が重くなって日本語教室に行くのがいやになってしまったのだとのことだった。ボランティア教室なんだからそんな宿題は出さないでもらいたいというものだった。
私は、そんなに高度なものを要求したつもりはないし、忙しくて準備できなかったらそれはそれでいいと思っていた。現に「できませ~ん」などと言って涼しい顔をしている人も多かった。その時に、人の受け取り方や反応の違いをつくづく感じたものだ。
その人たちは、同じくらいの日本語力だったから、ある人にとって言語能力的に難しすぎる宿題というものではなかった。ただ、そういう発表を考えるのもいやな人がいるのだということはわかったし、必要以上に重く受け止める人がいることを知った。同じ課題を出されて楽しむ人と苦しむ人がいる。

私なども、短大の演劇部で踊りを考えて来いと言われ、それをひとりづつ発表するといわれたのをきっかけに即座に演劇部をやめてしまったが、踊りが得意な多くの人はとても楽しんでやっていたようだ。

その人にとって役に立つ、とか、よかれと思ってやったことでも、相手にとって苦痛や苦しみ以外の何ものにもならないことがある。
教師から生徒に課されたものは、パワーハラスメントとなってしまうことも多い。


コメント (5)

4.進級させるか否か

2007-04-12 12:18:39 | 未分類過去
日本語学校で担任をしていたときは、クラスの学生を進級させるかどうかというのが、学期末の重要事項となった。
テストの結果や出席率で決まるわけだが、最初に勤めた学校では、その基準が学校として決まっておらず、担任の判断に任されていた。
レベル分けは、基礎・初級・初中級・中級・中上級・上級、などとなっている。3ヶ月単位で、初級や初中級を教えることが多かった。
私の判断は、次のクラスに上がったときについていけるかどうかというのを重視していた。
傾向としては、男子学生は、授業はサボり、宿題も出さないが意外にしゃべれるし、自分の主張を日本語で表現できる。授業とは関係なく自分で勉強していることもある。そのため、出席率が悪いわりには、テストのできは悪くなく、作文などは良く書ける。
一方、女子に多いタイプは、出席はちゃんとしている。宿題も全部出している。毎日やる漢字や単語の小テストは満点。しかし、期末テストをすると文法は全部忘れていて、ことごとく間違っている。作文は1時間かけても4行くらいしか書けない、言葉もたどたどしい、など。
だから、表向き真面目な女子学生を落として、不真面目な男子学生を合格させるなどということもあった。
男女を問わずこのようなタイプ分けはあり、真面目なのにできない人、不真面目なのにできる人というのがあった。
それを、どちらかというと、私は結果主義で分類していた。

時にはどうしても進級させろとごねる学生もあった。私はそれを聞き入れることはなかった。真面目な学生は「ちゃんと出席しているのにどうして」と文句をいうこともなく、素直にも同じレベルを再履修していた。今になるとかわいそうだったかなと思うが、繰り返し履修した真面目な生徒2人は確かに次はちゃんとできるようになっていた。
出席さえしていればいいという油断を改善したのだろう。

中には、進級できなかったことを受け入れられず、さらにやる気を失うタイプや、あきらめて帰国してしまう人などもいた。
本当に難しい。どんなに勉強してもちっとも日本語ができるようにならない人がいたことも確かだ。

幸運だったことは、進級できなかったからと言って、自殺をした人などがいなかったことかと今さらながら思う。

担任の中には、絶対に脱落させない人もいた。全員進級だ。
進級してしばらくすると、やっぱりついていけませんと自ら下のクラスに下りていく学生もいる。それはそれでよかったのかもしれない。
もし今また日本語学校に勤め、自分で判断するなら、昔よりも出席率を重視し、試験の結果を甘くしているのではないかと思う。
コメント

3.命の洗濯

2007-04-12 11:29:07 | 未分類過去
「命の洗濯」が必要になってきたのは高校生のころだ。
そのころ、同級生たちも時々ちらほら「命の洗濯」だと言って学校をサボっていた。
つまり、「ついていけない」「授業に出るのが苦しい」「日常生活が辛い」のである。
そして「一日だけ脱落する」「逃げる」要するに「逃避」だ。
「逃避」しなければ「生きていけない」のだ。
「逃避」が許されなければ、「死ぬ」しかないのだ。
しかし、「学校をサボる」なんて「卑怯」なことは許されないのだ。
予習をしてないからってサボっちゃいけないのだ。「全て自分が悪い」のだ。

そんなとき、唯一自分を肯定できる言い方が「命の洗濯」である。
今日だけサボるよ。「リセット」する。
明日からはちゃんと生きるよ。勉強するよ。
しかし、「命の洗濯」は一度では済まなかった。
時々、そしてだんだん頻繁に「命の洗濯」をしなくちゃならないのだった。

「命の洗濯」は高校のときは英語の授業のある日に行われた。
苦手科目を克服しようと選択授業で英語を取ったが、それがますます自分の苦しみを助長させた。
問題集のどこからどこまでやれという課題が、徹夜してもできないのだ。
私は、いよいよ「卑怯」な手段にでた。できのいい子のノートを丸写しにして、宿題をやったことにする。できうる限り授業を休む。
そうやって生き延びた。
ひとり真面目な子がいた。その子は宿題をやりきれずに授業にでて、先生からものすごく叱られて、その後登校拒否になって留年してしまった。
私は、その子が叱られたときに授業に出ていなかったので、どのように叱られたのか知らなかった。私も出席していたら同じだった。
しかし、私はサボってすいすいと生き延びた。
そうだ、その子が叱られと聞いたのをきっかけに、私は自尊心を捨て、人にノートを写させてもらうことにしたのだ。
自力で問題を解くことができず、授業に出なければ卒業できないからだ。(選択科目だから卒業はできたわけか・・・。)
とにかく、授業で当てられると、友人から写した答えを発表すればそれで事が澄んだのだった。
私はそうやって要領よく卒業した。

短大ではゼミのために文学作品を読まなければならなかった。小説を読むのは苦にならなかったが、同じ曜日に古典演習という授業があり、その予習が必要だった。それができない。先生は同じ人だった。だから、片方に出て片方に出ないということができない。
その曜日になると胃が痛くなる。急性神経性胃潰瘍だと友達に言って「命の洗濯」となる。
来週こそはちゃんと古典もゼミも準備するよ。
でも、そうやって時々休んだ。
古典演習もゼミも必修だった。英語と違って好きなのに休まなくちゃならないのは辛かった。

ゼミの論文はやはり締め切りがあった。今のようにパソコンがないので、レポート用紙に手書きで書いて、挿入したりするときは、切ったり貼ったりしてつなげた。締め切り間近まで必死だった。
だから、コピーする暇もなく、原稿用紙に書き写した現物を提出してしまった。自分が何を書いたのか完成品も手元にない。間に合わなくて単位を落とした選択科目もあるが、やはり必修科目を優先的にやるのが当然だ。
学校のすぐ近くに下宿していたので、5時までに提出と言うことで、5分前くらいに走っていったりした。

そうやって、生き延びてきた。


コメント

2.切り抜ける要領

2007-04-12 10:52:54 | 未分類過去
前記事の続きだが、この女子大生自殺の事件が印象に強いのは、うちの娘も大学の経済学部であるからだ。
本人もこの事件を知っていればいろいろ思うところがあるだろうと思い、昨日帰宅した娘に聞いてみると事件は知らず、概要を教えたが意外にもあまり興味は示さなかった。娘は今年4年になったところだが、昨年末くらいからずっと就職活動で忙しくそれどころではないというふうである。
娘の大学ではゼミは必修ではないので、ゼミを取っていない学生もいるし、ゼミの単位を落としても卒業できないことはないそうだ。絶対に取らなければならない必修科目というものもなく、選択必修になっているから、単位が取れなければ別の科目を取ればよいこととなる。同じ経済学部でもいろいろあるんだなと思う。

うちの子が取っていて似たような科目は「英語で学ぶなんとか」という経済に関する授業があったらしい。それも、新聞の社説を要約するというような課題も出されたそうだ。全体的に難しい授業で、そこまでのレベルには足りないようだったが、やるだけのことをやって単位はもらえたのだそうだ。

うちの子の勉強の仕方を見て(本人から聞いて)いると、これでいいのか?と思うようなところがある。人の書いたいくつかの論文を引用・合体させる。問題になっているどこかの区議会議員の海外視察旅行研修論文みたいではないか?
著作権の侵害になるから、引用部分はちゃんとはっきりさせなければいけないぞと忠告するが、そんな真面目な面倒な事はしていないようだ。
ある知人の大学講師に聞いたところ、近頃の大学生はこんなことをしている学生ばかりらしい。いいことを書いているなと感心して読んでいると、次々に別の学生も同じ内容の論文があり、ネットかなんかで見つけたものを利用していることがバレるそうだ。最初は気付かずいい点をつけようとしていても、大きく減点するとのことだった。自分の考えがないのも特徴で大きな欠点だそうだ。
しかし、その先生の言うことには、それでも全く意味がないわけではないとのことだった。
他人の論文をいくつか読んで理解し、それを再構成することも勉強ではある。それ以上に達しないのは欠点だが、そこまでだとしても無意味なことではない。
良い点はやれないが、落第にはしないという。

だから、社説を要約するだけで、自分の意見はたった1行だけだったとしても、やらないよりはマシだ。アダムスミスの実際の論文を原文でなんか読まなくても、それについて書いているものを探して読めば、だいたいのところはわかったりするのかもしれない。
それで、切り抜けることはできる。
ニュースでは、3人しか課題を出された学生がいなかったかのような書き方をしているが、その先生のゼミを取っていた人はもっといたんじゃないだろうか?その人たちはどうなっているんだろう?ゼミ生が3人ってことはありえない。

世の中、生きていくにはやはり「要領の良さ」が必要だ。時には「いかさま」も必要だ。
人との協力も必要だ。

娘の試験対策の仕方に、試験に山をかけるというのがある。とても全部を勉強することはできないからだ。
しかし、その山が笑ってしまうのだが、過去10年間の試験問題を先輩などから情報収集し、それに対応できるべく勉強をする。(サークルの先輩などがすでに蓄積した情報を持っている。)10年間に出たどの課題に対しても答えを論ずることができるようにする。
10年分ってかなり多いのではないだろうか、たしかにそれだけやれば、「絶対に出ない部分を勉強することはない」くらいの山がかけられると言えよう。
論述問題などは出された課題ははっきりしていても、理想的な解答はなく、課題がわかったからと言ってわけのわからないものも多いらしい。すると、先輩や学生の誰かが書いた解答例などもどこからともなく回ってくるが、それがどの程度的確なものかもわからないようだ。複数回ってくるが全然違うことが書いてあり、どれが的外れなのか正しいのかもわからないといようなこともあるようだ。

なんだかごてごてめちゃくちゃ勉強法だが、そうやって生き延びていく。
就職活動なども縦横の情報交換がすごい。筆記試験の問題や、面接でどんなことを聞かれたかなどメールや掲示板で情報を飛び交わしているらしい。

自分ひとりで黙々と取り組んでいた時代とは行動パターンが違っている。
そういう形態で消化していく中で、そこから外れて孤軍奮闘するのはかなりなリスクかもしれない。どのような課題を提出したら教授に受け入れられたかなどの情報収集をし、参考資料のなどの情報も得る。そのような対処をすることも1つの手だ。
ただ、真面目なだけではやっていけない。
コメント

1.そんなことで死んではいけない!

2007-04-12 09:52:45 | 未分類過去
高崎経済大学の学生がゼミで出された課題ができず、自殺をするというニュースが昨日あった。その課題を出されたのは3人で、1人は提出し、あとの男女1名ずつは期限までに提出できなかったが、女子のほうだけに、提出しないと留年だと担当の准教授から携帯にメールがきたのだそうだ。女子学生は「留年は承知している、人生もやめる」というようなことを返信し、今までゼミで世話になった礼を記し、その後自殺に至ったらしい。女子学生と准教授は英語でメールのやり取りをしていたが、最後の女子学生の言葉は日本語で記されていたそうだ。
ここで、問題とされているのは、①女子学生が自殺をほのめかしているのにもかかわらず、准教授が放置していた。②女子学生にだけ留年の宣告をし、男子学生にはしていない。③課題が重すぎた。④普段から問題行動が多い准教授だった。ということで、この准教授は懲戒免職になったそうだ。

私の考え
①「人生も辞める」と書いてあったからと言って、本当に自殺するとは思わなかったのではないか。仕事中だったり何か用事でもあれば、始終メールを見ている暇もないし、見たとしても即刻対応するなどの余裕はないのが普通である。課題が出せないで自殺するなど普通は考えられない。
②女子学生にだけ留年を宣告したことが、イジメのようにさえ受取られているふしがあるが、むしろ親切だとも言えるし、日頃メールのやり取りがあった学生にのみメールを送るということは特別おかしいことではない。
③課題は、アダムスミスの論文だかを読んで解説することと日経新聞の社説を10個要約し、自分の考えも書くというような事だったようだ。確かに時間はかかりそうだが、できないことではないだろう。内容のレベルは低くても形だけでもやり遂げて、出すだけ出せばなんとかなったのではないか。
④普段から学生に暴言を吐くなどの問題があったとか言うことで、それは良くないことは確かだが、その手の教授はいないでもない。

一方、女子大生のほうを考えると、非常に真面目な子で、ゼミにも早々と参加し、全部出席するという熱心さだったという。准教授を尊敬したらしい。
性格は完ぺき主義のようなところもあったので、出された課題をしっかりやらなければ気がすまなかったのかもしれない。それで、准教授の要求に応えられない自分自身に納得できず、自殺という道を選んでしまったのではなかろうか。

この学校では、昨年だか一昨年にも自殺者があり、それがたて続けに3人もいたとかいうことだ。その学生たちは今回の教授とは関係がないそうだ。一種の連鎖反応ともいえる。身近な人間の自殺は周りの者が影響されるし、死で解決できるという短絡的な思考回路が連鎖してしまったのかもしれない。

いずれにしても不幸な出来事だった。

自ら命を絶つ人の辛さは当然他とは比較できないが、その原因とされて今後生きていかなくてはならない人の人生も辛いものとなるだろう。
亡くなる人は自分のことしか考えられないだろうが、死んで思い知らせるという風な結果となる風潮が最近あるような気がする。今回の件では個人的なメールが結果として残っていただけで、意図的に本人の意思が働いているわけでもなく、本人が先生のせいで死ぬなどと言っているわけでもないが、いじめが原因の自殺などでも、マスコミが公開することを意図して遺書を書いている人などもいないではないような気がする。
むしろ、そういうものを取り扱うマスコミは気を配る必要があるだろう。

朝ズバでは、相変わらず、みのもんたが、准教授を全面的に批判し、学生に100%味方していたが、この事件は、教授の悪100:女子大生の善100というものではないはずだ。
みのもんたの反応をそのまま鵜呑みにしている視聴者たちの中には「准教授によって死に追いやられたかわいそうな女子学生。教育者・人間として失格の悪魔のような准教授。」という風な受け取り方をしてしまっている人が少なくない。
この准教授のやりかたには確かに問題がなかったとはいえないが、今後、大学において難しい課題が出されなくなったり、期限を守らなくても単位がとれるなどということになったらどうなんだろうか。

世の中に訴えなければいけない結論は、「准教授が悪い」ではなく「学生はそんなことで、死んではいけない」ということだ。
コメント