「青木繁と画の中の女」に、明治時代の東京美術学校の様子などが書かれていました。それを読んでいるうちに、「今まで自分は、学校教育でどのくらい美術史を学んだのか?」という疑問がわいてきました。
青木繁の「海の幸」は、美術の教科書かどこかで見たことがあるのですが、この画家の名前に記憶はありませんでした。また、「岡倉天心」という名前も、有名な名前で何か日本文化に関係がある人だという記憶があるだけで、具体的に何をしたかは、まるで覚えていませんでした。「黒田清輝」は、読書をしている女性の絵が記憶に残っているだけです。
この人たちについて、私は過去に何を学んだのか?
それで、30年前の日本史の教科書を引っ張りだしてみました。
東京書籍の高校の日本史の教科書です。
(自由民権運動が起こり、大日本帝国憲法が制定された時代)
教科書の文
「美術界でも、維新直後の神仏破壊の風潮の中で忘れられがちであった伝統の価値が、ふたたびみなおされるようになった。アメリカ人フェノロサは、日本美術の真価を認めてその保存を説き、狩野芳崖・橋本雅邦らの画家を見出し、岡倉天心らと協力して日本画の復興をはかった。その結果、1887年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立され、日本画・木彫・彫金の3科にわたり、伝統美術に新生面が開かれるようになった。」
ここでの書き方からいくと、主語は「フェノロサ」です。だから中心人物はフェノロサであったように受取れます。岡倉天心は若い頃にフェノロサの通訳として助手のような役割を果たすうちに、自らも主体となって活動するようになったのでしょう。
このあいだのシンポジウムによると、1868(明治元)年に「神仏分離令」が布告され、そのことによって廃仏毀釈が始まった。つまり仏像などが粗末に扱われ、捨てられたりするようになってしまった。
それではいけないと1871年には「古器旧物保存方」が布告され、文化遺産保護が始まった。
一方、岡倉天心は1877年に東京大学の学生となり、政治学・理在学を学び、そのときにフェノロサに師事します。その後フェノロサとともに行動をともにし、アメリカにも出張し、美術行政、学校制度などを視察して帰国。
その後、帝国博物館の理事・美術部長となり、1890年フェノロサの帰国後に東京美術学校の校長になっています。
つまり、13年間くらいはフェノロサという師が常に岡倉のそばにいたということでしょう。岡倉の働きも大きいですが、フェノロサという人が、日本の美術の発展に大きな貢献を果たしたことは間違いなさそうです。
日本の美術は、学校ができる前は、芸術家ではなく、職人として養成する形式しかなかったようです。それを芸術家を育てる学校として創設したことが、いままでに無い新しいもので、高校日本史の教科書に書かれているように「伝統美術に新生面が開かれるようになった」ということですね。教科書の文を高校生が読んでも、ほとんど理解できません。
高校の自分の教科書を見ると、「フェノロサ」「狩野芳崖」「橋本雅邦」「岡倉天心」「1887年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立」に囲みをしたり、下線を引いたりしています。覚えたつもりだったんでしょうね。
おそらく、これは授業ではなく、受験のために読んだ部分だと思います。文芸学部の日本史の試験の過去問題では、やはり文芸に関する歴史問題がたくさん出ていたからでした。
(不合格だったので入れませんでしたが・・・。)その受験勉強で、いくらか関心が強まったということもあったと思います。
「フェノロサ」のところに、「鑑画会組織」と自分で書き込んであります。これはいったい何なのでしょうね。今、Wikipediaで調べたところ、「~~~その主な活動はフェノロサによる古美術の鑑定や同時代作品の展覧会~~~」と書かれています。
自分で書きこんでいるんだから、こんなのも勉強したことがあるらしいですが、まるで記憶はありませんでした。
(その後の、日清戦争の頃の時代)
教科書の文
「このころ、法律研究のためにフランスに留学した黒田清輝が、久米桂一郎とともに洋画を学んで、印象派の明るい画風を伝え、日本の洋画界に新風をふきこんだ。青木繁は神話に画題を求めるなど、ロマンに満ちた作品を描いた。」
「青木繁と画の中の女」によると、青木繁は明治33年に東京美術学校に入学しています。黒田清輝は、明治17年にフランスに留学し、26年頃帰国したようです。当時、日清戦争に勝ち、明治政府は西洋文化に大きく目を開こうとしていた時代であり、西洋画が浮上する時代だったようです。岡倉天心は当時東京美術学校の校長であり、最初は西洋画科の設置には反対していたものの、世間の関心や洋画界の動きに逆らえず、西洋画科を設置することを考えたようです。そして、設置された29年には黒田清輝・久米桂一郎が嘱託教授になっています。その後、岡倉天心が校長を排斥されたあとに、黒田清輝は教授となっています。
青木繁が入学したのは、西洋画科ができてまだ4年目であり、黒田は絵画教授法を学びに一時フランスに行っていて、青木が入学した翌年に戻ってきて、絵の指導に当たったようです。青木は黒田の技術を認めていたものの、想像力の点では自分が勝っていると確信していたようすでした。
高校の教科書では、「青木繁は神話に画題を求めるなど、ロマンに満ちた作品を描いた」といとも簡単に書いてあります。そして、“わだつみのいろこの宮”の絵の写真が載せてあり、「わだつみのいろこの宮(東京都 ブリヂストン美術館蔵 )青木繁筆。「古事記」の海幸彦・山幸彦の神話をもとにして描かれた。」という説明がついています。
文章部分には私が「黒田清輝」「久米桂一郎」「青木繁」に囲みをしてあります。
当時は、こんな文章をあまり意味もわからず丸覚えしていたのでしょう。
「青木繁」=「ロマンに満ちた作品」などというキーワードのみ頭の中に入れようとしたのではないかと思います。
今、青木繁についてかなり詳しく書かれたこの本を読んでいて、この人の人物像がくっきりと迫ってきます。
高校時代に「わだつみいろこの宮」の本物の絵を見るなどとは思ってもいませんでした。
東京とは、大学に行きたいとは思っていても、はるか遠くで、そこにあるブリヂストン美術館など考えたこともなかったですね。ここに載っているすべてについて、まるで関心がなかったといっていいでしょう。この教科書の絵についてはまるで記憶もありません。
教科書とはそんなもんなんでしょう。
あとになってみると、ちゃんと載ってるもんですね。
青木繁の「海の幸」は、美術の教科書かどこかで見たことがあるのですが、この画家の名前に記憶はありませんでした。また、「岡倉天心」という名前も、有名な名前で何か日本文化に関係がある人だという記憶があるだけで、具体的に何をしたかは、まるで覚えていませんでした。「黒田清輝」は、読書をしている女性の絵が記憶に残っているだけです。
この人たちについて、私は過去に何を学んだのか?
それで、30年前の日本史の教科書を引っ張りだしてみました。
東京書籍の高校の日本史の教科書です。
(自由民権運動が起こり、大日本帝国憲法が制定された時代)
教科書の文
「美術界でも、維新直後の神仏破壊の風潮の中で忘れられがちであった伝統の価値が、ふたたびみなおされるようになった。アメリカ人フェノロサは、日本美術の真価を認めてその保存を説き、狩野芳崖・橋本雅邦らの画家を見出し、岡倉天心らと協力して日本画の復興をはかった。その結果、1887年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立され、日本画・木彫・彫金の3科にわたり、伝統美術に新生面が開かれるようになった。」
ここでの書き方からいくと、主語は「フェノロサ」です。だから中心人物はフェノロサであったように受取れます。岡倉天心は若い頃にフェノロサの通訳として助手のような役割を果たすうちに、自らも主体となって活動するようになったのでしょう。
このあいだのシンポジウムによると、1868(明治元)年に「神仏分離令」が布告され、そのことによって廃仏毀釈が始まった。つまり仏像などが粗末に扱われ、捨てられたりするようになってしまった。
それではいけないと1871年には「古器旧物保存方」が布告され、文化遺産保護が始まった。
一方、岡倉天心は1877年に東京大学の学生となり、政治学・理在学を学び、そのときにフェノロサに師事します。その後フェノロサとともに行動をともにし、アメリカにも出張し、美術行政、学校制度などを視察して帰国。
その後、帝国博物館の理事・美術部長となり、1890年フェノロサの帰国後に東京美術学校の校長になっています。
つまり、13年間くらいはフェノロサという師が常に岡倉のそばにいたということでしょう。岡倉の働きも大きいですが、フェノロサという人が、日本の美術の発展に大きな貢献を果たしたことは間違いなさそうです。
日本の美術は、学校ができる前は、芸術家ではなく、職人として養成する形式しかなかったようです。それを芸術家を育てる学校として創設したことが、いままでに無い新しいもので、高校日本史の教科書に書かれているように「伝統美術に新生面が開かれるようになった」ということですね。教科書の文を高校生が読んでも、ほとんど理解できません。
高校の自分の教科書を見ると、「フェノロサ」「狩野芳崖」「橋本雅邦」「岡倉天心」「1887年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立」に囲みをしたり、下線を引いたりしています。覚えたつもりだったんでしょうね。
おそらく、これは授業ではなく、受験のために読んだ部分だと思います。文芸学部の日本史の試験の過去問題では、やはり文芸に関する歴史問題がたくさん出ていたからでした。
(不合格だったので入れませんでしたが・・・。)その受験勉強で、いくらか関心が強まったということもあったと思います。
「フェノロサ」のところに、「鑑画会組織」と自分で書き込んであります。これはいったい何なのでしょうね。今、Wikipediaで調べたところ、「~~~その主な活動はフェノロサによる古美術の鑑定や同時代作品の展覧会~~~」と書かれています。
自分で書きこんでいるんだから、こんなのも勉強したことがあるらしいですが、まるで記憶はありませんでした。
(その後の、日清戦争の頃の時代)
教科書の文
「このころ、法律研究のためにフランスに留学した黒田清輝が、久米桂一郎とともに洋画を学んで、印象派の明るい画風を伝え、日本の洋画界に新風をふきこんだ。青木繁は神話に画題を求めるなど、ロマンに満ちた作品を描いた。」
「青木繁と画の中の女」によると、青木繁は明治33年に東京美術学校に入学しています。黒田清輝は、明治17年にフランスに留学し、26年頃帰国したようです。当時、日清戦争に勝ち、明治政府は西洋文化に大きく目を開こうとしていた時代であり、西洋画が浮上する時代だったようです。岡倉天心は当時東京美術学校の校長であり、最初は西洋画科の設置には反対していたものの、世間の関心や洋画界の動きに逆らえず、西洋画科を設置することを考えたようです。そして、設置された29年には黒田清輝・久米桂一郎が嘱託教授になっています。その後、岡倉天心が校長を排斥されたあとに、黒田清輝は教授となっています。
青木繁が入学したのは、西洋画科ができてまだ4年目であり、黒田は絵画教授法を学びに一時フランスに行っていて、青木が入学した翌年に戻ってきて、絵の指導に当たったようです。青木は黒田の技術を認めていたものの、想像力の点では自分が勝っていると確信していたようすでした。
高校の教科書では、「青木繁は神話に画題を求めるなど、ロマンに満ちた作品を描いた」といとも簡単に書いてあります。そして、“わだつみのいろこの宮”の絵の写真が載せてあり、「わだつみのいろこの宮(東京都 ブリヂストン美術館蔵 )青木繁筆。「古事記」の海幸彦・山幸彦の神話をもとにして描かれた。」という説明がついています。
文章部分には私が「黒田清輝」「久米桂一郎」「青木繁」に囲みをしてあります。
当時は、こんな文章をあまり意味もわからず丸覚えしていたのでしょう。
「青木繁」=「ロマンに満ちた作品」などというキーワードのみ頭の中に入れようとしたのではないかと思います。
今、青木繁についてかなり詳しく書かれたこの本を読んでいて、この人の人物像がくっきりと迫ってきます。
高校時代に「わだつみいろこの宮」の本物の絵を見るなどとは思ってもいませんでした。
東京とは、大学に行きたいとは思っていても、はるか遠くで、そこにあるブリヂストン美術館など考えたこともなかったですね。ここに載っているすべてについて、まるで関心がなかったといっていいでしょう。この教科書の絵についてはまるで記憶もありません。
教科書とはそんなもんなんでしょう。
あとになってみると、ちゃんと載ってるもんですね。